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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第一章 宵闇 ―― calmato
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第六話   不良教師のエレジー Ⅱ

 明るい時間に通学路を歩くのは当時以来だが、景色はさほど変わっていない。正確に言うと当時も景色など気にもかけていなかったので、変わっていても気づかないだけかもしれない。翡翠館高校はグラウンドやプールを持たず、周辺には住宅街が広がる閑静な地域に佇む学校だ。付近の交差点に差し掛かってから視界に入る、鮮やかに塗られた翡翠色の屋根だけは堂々としているが、生徒が少ない春休み中であることもありあまり学校らしさを感じない。質素な校門を抜け昇降口に向かうと、(かす)かに金管楽器の音が聞こえた。

「作戦決行だね」

 愉快そうに日向が言う。どうやら無駄足にはならなかったようだ。それ自体は喜ばしいのだが、これから見ず知らずの集団に会うと思うと、今さらながら冷や汗が出てきた。緊張で吐き気さえする。

「とりあえず絵理子先生に会えればいいんだから、そんな死地に臨むような顔しないでよ」

 呆れた声で日向が俺に声を掛ける。なんて能天気な奴だ。相手は昨日凶器を所持したまま帰ったヒステリー女だというのに。

「お前はいいよな」

 なんの捻りも無い負け惜しみのような俺の捨て台詞は、そのまま地面のアスファルトに吸い込まれていった。

 正面玄関から校舎に入ると、より鮮明に楽器の音が聞こえてくる。来校の手続きを済ませてから、俺は早速絵理子がいると思われる第三職員室へ向かうことにした。事務室の職員は俺の顔を見て少し怯えるように対応していたが、OBであり絵理子の同級生だと話すとすぐに解放してくれた。俺が言うのもなんだがセキュリティーが甘いと思う。

 たしか俺の記憶では、第三職員室は教室棟の最上階である四階の片隅にあり、校内に存在する四つの職員室の中で最も狭く影が薄い。俺も当時ほとんど訪れたことの無い部屋だ。ちなみに吹奏楽部が活動する音楽室は渡り廊下を挟んだ隣の棟の一階にあるのでかなり距離が離れている。絵理子と同室の職員には失礼だが、第三職員室は独房とか隔離施設といった印象があったので、絵理子もつくづく幸の薄い女だと考えながら、やっとの思いで四階まで上がる。毎日音楽室と往復するなど気が狂ってもおかしくないと感じ、少しだけ絵理子に同情した。忍び足で職員室に近づき入り口の引き戸に嵌められたガラスから中を覗くと、能面のような顔でパソコンに向かう絵理子の姿があった。

「あれに話し掛けるのか?」

「仕方が無いでしょ。それともいきなり音楽室に突入する?」

 せっかくここまで来たことを徒労にしたくないし、生徒達に通報されて全てを水の泡にするリスクを冒す理由も無いので渋々ドアをノックする。幸いにも、狭い職員室の中にいるのは絵理子だけのようだった。

「失礼します」

 引き戸を少し開け、一歩だけ室内に踏み込む。

「本当に失礼だからそのまま帰って」

 絵理子はデスクに座ったままこちらを見向きもせず即答した。最初から俺達が訪問するのを知っていたかのようだ。事務室から内線でも入ったのかもしれない。コソコソしていた俺達がバカみたいだ。

「何が失礼なんだよ。ちゃんと先生を相手するみたいに振る舞っただろ」

「存在が失礼」

「ここで死んでやろうか」

 まだ入り口だと言うのに、既に救いようが無いほど険悪である。

「先生達、いつからそんなに仲が悪いの?」

 俺と絵理子の間に漂うダークな空気を無視し、日向がずかずかと室内に入った。その様子を絵理子は忌々しそうに見つめている。

「仲? そんなもの、出会った時から悪いわよ」

「ふうん?」

 日向が適当に返事をする。さすがにそれは脚色し過ぎじゃないかと思ったが、その点に関して反駁したところで現状は変わらない。

 日向が会話を繋いでくれた隙に、俺は部屋の中に入り後ろ手で戸を閉める。

「当たり前のように入って来ないでもらえる?」

 絵理子は昨日同様、心底迷惑そうに俺達をあしらった。

「まあまあ。せっかくこうして会いに来たんだから、構ってよ」

「私は仕事中なの。話すことも無いわ」

 取りつく島も無い絵理子の態度に日向の顔つきが段々強張っていくが、彼女は明るい口調で続ける。

「こいつが、絵理子先生を助けたいんだって」

「はあ?」

「昨日、絵理子先生ったらさっさと帰っちゃうんだもん。こいつがすごく心配してたから、居ても立ってもいられずここまで来ちゃった」

「おいお前、腐っても先輩なんだからこいつ呼ばわりはやめろ」

 俺は思わず会話を遮る。いくらなんでも失礼過ぎるし、俺は表立って絵理子の心配をした覚えなど無い。

「腐ってるなら、もはや先輩だった何者かでしょ? 今を生きようよ。あなたは名前を呼ばれるに足る人生を送っていますか? 最底辺の人間じゃないですか?」

「亡者に言われたくねえんだよ!」

「ねえ。それならあんたも、亡者っていうのやめてくれない?」

 俺達が唐突に小競り合いを始めたため、絵理子が深々とため息を吐く。

「本当、今すぐ帰って」

 冷え切った声で絵理子が呟くと、日向が慌てて反応した。

「だから、この人がなんとかしてくれるんだって!」

「あなた今、この男のことを最底辺扱いしたわよね」

「……なんとかしてくれるんだって!」

 やはりこいつは絶望的なほど交渉事に向いていない。

「あり得ないでしょ。それに昨日も言ったけど、別にそんなこと頼んでないから」

 あまりに力業な日向の説得にも、絵理子は言葉を返すだけの誠実さを持ち合わせていた。だが、あくまで応答するだけであって、俺達を拒絶していることに変わりは無い。

 何を以て最底辺か知らないが、俺も口を挟むことにする。

「なんとかしたいと思うことが、そんなにダメなのか?」

「慈善活動のつもり? ああ、無職って時間だけは無駄にあるものね」

「絵理子。俺に力を借りるなんて嫌だろうが、とにかく話を聞かせてくれないか」

「そうね、吐き気がするほど嫌ね。というかあなた今さら何様のつもり? 当時のこと忘れたの?」

 忘れるはずがないので、俺は一度口を(つぐ)む。例の、俺の悪名が広まるきっかけになった事件のことだ。

「それって、本当はこいつが悪い訳じゃ――」

「あなたは黙ってて!」

 珍しく日向が俺を擁護しようと口を開いたが、絵理子は全く聞く耳を持たない。戦車に豆鉄砲を撃つような手応えの無さに、もはや空しさを感じる。最初からわかってはいた。絵理子と交渉する余地など無いのだと。俺と絵理子の間の溝は、あまりにも深い。

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