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Ⅰ  初桜の頃

 秋村恭洋という人間は、自分自身を過小評価している。冷静に考えて、彼の持っている才能は非凡としか言いようがない。もともと世界で注目された指揮者とピアニストの子どもなのだから、生まれからしてサラブレッドだし。

 以前、本人にそっくり同じセリフを言ったことがある。その時は「サブレ? この後まだ練習だから遠慮しておくよ」という意味不明な答えが返ってきた。こいつって絶対音感を持ってるんじゃないのか。なんだその聞き間違いは。

 それに、彼は自身のことをコミュニケーション障害だと決めつけているが、端から見ればそうでもないように思える。たしかに変人だし関わりにくい雰囲気を纏っていることは事実だが、そもそも本当にコミュニケーション能力が欠落しているなら指揮者なんか到底務まらないだろう。

 まあとにかく、彼はこんな田舎の吹奏楽部の面倒を見るくらいで収まるような人材ではないのだ。

「やっぱりそう思います? おかしいですよね! だってあの人、管楽器全部吹けるんですよ? 当時から思ってましたけど、ずるくないですか? おかげでこの前のアンサンブルコンテストも、県大会は大混戦だったんですから! ……え? こっちには芳川先生がいるって? まあそれはたしかにそうなんですけど、もうけっこうお年を召してるからなかなか部活にも顔を出さなくて……」

 やはり智枝はいまだに納得していない様子だ。それにしたって昨年のコンクールの件はやり過ぎだと思うけれど。恭洋を認めているのは事実なのだろうが、相変わらず素直じゃない。

 翡翠館高校吹奏楽部はアンサンブルコンテストに四チームが参加し、うち二チームが県大会で金賞を受賞した。惜しくも支部大会出場は逃したものの、大健闘である。

 ――その後、あっという間に卒業の季節がやってきた。

「秋村さんですか? 見ているとたまにイライラしましたね」

「肝心なところで頼りないですよねえ」

「絵理子先生といまだに険悪だって、後輩が言ってましたよ」

 卒業する部員からの評価がボロクソなので笑ってしまった。

「……まあ、でも指導は的確だったと思うよ」

「ちゃんと体調とかも気に掛けてくれましたしね」

「悔しいけど、指揮はめちゃくちゃ見やすかった。私もお手本にしたし」

「淑乃にしては珍しく褒めるじゃん」

「うるさいな!」

 愛されていたようで何よりだ。

「秋村さんは、私達のことを認めてくれました。私達が評価されないのはおかしいと言ってくれました。それが本当に嬉しかったんです」

 前部長の玲香は、爽やかな笑顔でそう答えてくれた。

 卒業生達の進路はバラバラだが、玲香と淑乃は音大に合格した。他の面々も大半は進学だ。全員、これからも音楽は続けるらしい。また学校に顔を出すと約束してくれた。

 そういえば、当の恭洋は部員以外にも絡まれていた。ずいぶん小柄な女の子と、メガネを掛けた気弱そうな女の子。いつの間にかモテるようになったんだな。

 初めて担任として卒業生を輩出した絵理子は、ずっと泣きじゃくっていて微笑ましかった。


 ♯


「あいつが十年も引きこもったのは、俺達のせいだからなあ。俺ももっとサポートするよ」

 頼もしい言葉をくれたのは京祐だ。今も引き続き文化欄の専属記者として活躍する彼は、人脈を利用してコンサートのオファーを定期的に出してくれる。昨夏の事故の後遺症は全く無いそうで、もうすっかり元気なようだ。

 また、昨年の定期演奏会にはかなりOBが来ていたらしく、配信や動画を見たOBからも学校に多くの問い合わせがあったらしい。そんなこともあり、京祐はこれまで存在すらしなかったOB会を設立した。今は幹事として動いてくれている。次の定期演奏会を目標に、OBバンドの演奏も企画されているようだ。

「恭洋が何も言わず笑って受け入れてくれるから、順調に進んでいるよ。はっはっは」

 京祐はそう言って、頼もしく笑った。

「――秋村君の件、やはり勇み足だったかなあ」

 大きくため息を吐いたのは理事長の渋川である。

「だから私は言ったんです。部活のことと仕事は別問題だと」

 冷たい言葉を吐いた後にコーヒーを啜るのは汐田校長だ。

「まあまあ。彼のおかげで今年は入学生も増えたようじゃありませんか」

 恩師の芳川が落ち着いた声で口を挟む。

「毒を喰らわば皿まで、か」

「猛毒なんですが」

「……やれやれ」

 この老人会みたいなメンバーが何を話しているかというと、春から事務員として雇用した恭洋の件である。

 そう、奴はついに就職したのだ。コネと恩情がふんだんに盛り込まれているけれど。

 それは良いとして、汐田が言う通りこれまでまともに仕事をしていない人間がいきなり戦力になるはずもなかった。そもそも事務室の職員からしたら、毎日怯えながら来校手続きをしていた男が同じ職場にやって来るなど戦慄でしかない。

「まあ、慣れてもらうしかないな。給料も高くないし」

 渋川が呟く。

 信じられないことなのだが、恭洋は向こう五年分の吹奏楽部の部費と引き換えに、この職を手にしたのだ。

『は? 去年のこっちの部費は十万だったんだぞ。なんだよ五年契約で年俸十万って! ふざけんな! 横暴だ!』

 求職者とは思えないセリフを吐いた恭洋の方が横暴なのだが、もちろんそれ以上に給料は支払われる。正確に言うと、吹奏楽部に充てられる予算が恭洋への講師費として横流しされるのだ。だから、その分だけ事務員としての給料は減らされている。じゃあ実際の部の会計はどうなるのかという話だが、活動に必要な費用については、当面は恭洋の遺産から捻出されることになった。

『結局俺が全部負担するってことじゃねえか! 面倒臭いよ! 確定申告もしなきゃいけないだろ!』

 どうでもいい。

「たしかに、昨年のコンクールや演奏会を見て我が校に入ってくれた生徒もけっこういるみたいですし、甘んじて受け入れるべきでしょうかね……」

「そうですよ。私立高校はどこも生徒集めに必死なんですから」

「マンモス高校の教頭に言われても説得力が無いなあ」

 吹奏楽部だけでなく、野球部を始めとして昨年はどの部活も成果を上げたので、今年度の入学者数は昨年を大きく上回ったと聞いている。もともとここ数年は定員割れにならないよう受験者数の調整を行っていた関係で、キャパシティに問題は無かったらしい。

「また黄金期のような活気が戻ってくるといいねえ」

「お手柔らかに頼みますよ」

「それはこちらのセリフです」

 ダンディーな大人達の会話に、嫌らしさは全く感じられなかった。

「そうそう、君も退院おめでとう」

「ああ、本当に良かった」

「あなたなら、いつでも待っていますからね」

 いきなり泣かせようとするんだから、おじさんというのはデリカシーの欠如した生き物だと思う。

 ……嬉しかったけど。

 

 ♯


「いらっしゃいませ」

 軽やかなウィンドチャイムの音色と、仄かに漂うコーヒーの香り。

「あら、珍しいですねえ」

 カウンターを挟んで、マスターと瑠璃が談笑している。

「秋村君、頑張ってるみたいですね。最近はうちに来る頻度が減ってしまいましたよ」

「あらあら。さんざん世話になったのに罰当たりな男ですねえ。毎週五千円以上この店に落とさなかったら、包丁を持って集金しに行くと伝えておきますね」

「普通に強盗か脅迫なのでやめてください」

 今日もプレストは閑古鳥が鳴いている。だが、恭洋も以前に言っていたけれど、たぶんここはマスターの趣味みたいな店なので潰れることは無いと思う。

「秋村君の代わりにあなたが入り浸ってくれるので、売上は問題ありませんよ」

「そうですか。恭洋さんの代わりっていうのは腑に落ちませんけれど……。なんだか居心地が良くて、時間の流れがあっという間なんですよねえ。小癪な店名ですよ、本当に」

 かつての恩師に向かって、失礼にもほどがある。

「いいんですか? そんなにのんびりしていて」

「この子も無事退院したことですし。私は今、人生のリフレッシュタイム中なんです。少しくらい休んでいたって誰も文句は言いませんよ。というか、文句を言うような人は……ふふふ」

「今さら笑って誤魔化しても遅いんじゃないですか。あなたさっき、包丁を持って集金に行くとか言ってたでしょう」

「ちょっと黙ってください」

「はいはい」

 瑠璃はようやく全てから解放された。

 夫に振り回され、旧友の忘れ形見を預かり、娘達を育て上げ……。

 何を考えているのかわからないこの笑顔の裏には、いったいどれほどの苦労が刻まれているのだろう。

「……子ども達は立派に育ってくれました。私はそれだけで充分幸せですよ。この子が目を覚ましたのも、恭洋さんが吹奏楽部を復活させてくれたのも」

 瑠璃は口癖のようにいつもそう話す。

 親というのは、そういうものなのだろうか。

「いやいや、この子達はきっとこれからもあなたを喜ばせてくれますよ」

「あらあら。それは楽しみですねえ」

 大人達のささやかなお茶会は、まだ終わらない。

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