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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第四章 夜明け ―― brillante
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第十六話  因果の真相 Ⅰ

 十一月の異名である霜月という言葉は、まさに言い得て妙だと感じる。早朝の通学路沿いにある、とっくに稲刈りの終わった田んぼにも霜が下り始めた。吐息も白く色づき、冬の訪れを感じさせる。

「それにしても、先日の定期演奏会は素晴らしかったですねえ」

 すっかりプレストの常連となった俺に、マスターがしみじみと声を掛けた。

「皆さんのおかげです。本当にありがとうございました」

「おや、そんな殊勝なことをあの秋村君が言うとは……。人は変わるものですね」

「ちょくちょく嫌味を混ぜてくるマスターは相変わらずですね!」

「ははは」

 何を笑って誤魔化そうとしてるんだ、この店主は。

「そういえば、狭川先生から演奏会の音源をいただきましたよ。ありがとうございます」

「いえいえ」

 ライブ配信のアーカイブが残っているので媒体さえあればいつでも見られるのだが、マスターは機械系に弱いらしい。

 あの配信も、最終的に同時接続が数百人にまで増えたらしく、改めて提案してくれた智枝には感謝である。当の本人は「これで貸し借りゼロです」などと言っていたが、俺達への借りが県大会の失格の件だとしたら全然相殺できていないと思うので、今後もねちねち憑き纏ってやろうと思う。我ながら最低な先輩だ。

「それにしても狭川先生、まさかお辞めに……なるつもりだったなんて驚きです」

 マスターが言いづらそうに呟く。

 結局、絵理子は辞表を取り下げた。まあそもそも提出前ではあったが。

 ある日たまたま第三職員室を訪れた二年生部員が辞表を見つけてしまったのだ。定期演奏会であれだけ気持ちを伝えたのに辞めるだなんて、と部員達が泣き叫ぶ様子はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図みたいだったのだが、絵理子はむしろそれを見て退職を見送ったらしい。家出を引き止められた母親のような心境だったのだろうか。あんな素行不良な母親ならこちらから進んで家出したいと思うけれど。

「秋村君はいつでも反抗期ですからね」

「……」

 誤魔化すようにホットココアを啜る。

 絵理子も禁煙は始めたようなので、それについては良しとしておこう。

「ところで、今日はまた珍しい時間にいらしたんですね」

 マスターが指摘するように、まだ時刻は十時前だ。普段の俺はたいてい昼以降に訪れることが多い。

「ああ、実はこの後用事があって」

「ほう。それは珍しい」

「瑠璃さんに会うんですよ」

「……そうですか。ということは、もしかして」

「ええ。楓花の面会に行こうと思って」

「なるほど」

 マスターは柔らかな微笑みを浮かべた。当然彼も楓花のことは知っている。ずっと寝たきりだったことに関しても、だ。

 彼女は先週からようやく面会可能となった。それまで定期的に瑠璃が様子を教えてくれたが、容態は安定しているし後遺症の類も今のところは見られないようだ。リハビリも始まっているらしい。

「それにしても、本当にあっという間の半年間でしたねえ」

「え?」

「春先に言ったじゃないですか。この店の名前の由来を聞かれた時に」

「ああ……」

 そんなこともあった気がするけれど、正直うろ覚えだ。ただ、瞬く間に時が流れていったことに関してはマスターの言う通りである。

「秋村君。もう時間を無為にしてはいけませんよ」

 真っ直ぐ見つめられた俺は、頷く他なかった。

 でも、言われなくてもわかっている。

 あのオレンジの少女との約束だから。


 ♭


「あら、お久しぶりです」

「どうも」

 総合病院の廊下で鉢合わせたのは和美だった。

「淑乃は元気ですか?」

「んー、どうかしらねえ。だいぶ思い詰めているみたいだけど」

 淑乃は夏頃から音大を目指したいと考えていたらしい。彼女の場合、実技よりも学科試験の方が問題なので苦労しているのだろう。絵理子がほぼマンツーマンで指導しているが。

「まあ、あれだけ素敵な演奏会ができるまで成長したんだもの。きっと大丈夫だと思います」

「そうですね」

「秋村さんのおかげですよ」

「いや、俺は何も……」

「またまた。董弥のこともよろしくお願いしますね」

「ええ、もちろん」

「今日は、あの七階の?」

「はい」

「そうですか。あの方、日に日に元気になってますよ」

「それは何よりです」

「じゃあ、私はこれで」

 そのまま和美は担当する病棟へと向かっていった。俺は会釈を返してからエレベーターに乗り込む。

 廊下の最奥、七〇五号室。

 ノックをすると瑠璃の声が返ってきた。

「どうも」

 部屋に入った俺の耳にピアノの音色が溶け込む。ドビュッシーの『月の光』だ。

 楓花は、ベッドの上で穏やかに寝息を立てていた。

「寝ちゃってるのか」

「ええ。まだ疲れやすいみたいで」

 瑠璃が答える。この景色だけ見ると半年前からさほど変わらないので、本当に意識を取り戻したかどうかも怪しく感じる。

「大丈夫。ちゃんと起きますから」

 俺の感想を見透かしたように瑠璃が言った。

「まあ、まずは座ったらどうですか」

「あ、うん」

 俺は窓際に置いてある丸椅子に腰掛けた。ベッドを挟んで対面には瑠璃がいる。

 なんだかんだ言って、彼女と話すのも定期演奏会以来だ。

「ちょうど良かった。あなたには、もういろいろ伝えても良い頃合いだと思っていたんです」

 いきなりの意味深なセリフに、つい身構えてしまう。

「そう緊張しなくても大丈夫ですよ」

「あ、ああ……」

 ちょうど『月の光』が終わったので、瑠璃は停止ボタンを押して軽く息を吐いた。

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