第十五話 未来への約束 Ⅲ
「終わっちゃったねえ……」
しん、と静まるホールの二階席。舞台の上ではスタッフが片付けを行っているが、どこか別の世界のことのように感じられる。
声を上げたオレンジ色の少女は、座席に腰掛けて虚空を見つめている。
――定期演奏会は無事に幕を下ろした。『ディスコ・キッド』の後には、翡翠館高校吹奏楽部のアンコールの定番である『オーメンズ・オブ・ラブ』を演奏したのだが、最後は客席からスタンディングオベーションまでいただいてしまった。
「お前、ずっと二階席で見てたのか?」
「うん。ここまで届くかなと思って」
「……ちゃんと届いたか?」
「うん。大丈夫。しっかり受け取ったよ」
「良かった」
絵理子や部員達は観客のお見送りに行っている。俺も向かうべきなのだが、絵理子が察してくれた。ただ、まさか日向が二階席にいるとは思わなかったのでだいぶ時間を食ってしまった。
「最後まで聞いてくれてありがとな」
「約束したからね。それに、途中で消えちゃうなんて死んでも死にきれないよ。あっ、もう死んでるけど」
ブラックジョークにもほどがある。
「逆に言えば、もう未練は無いかな。こんな素敵な舞台を見ることができて、あたしは幸せだよ」
「おい、縁起でも無いこと言うなよ。楓花が完全に回復するまでは安心できないだろ」
「んー、さすがにそこまでは無理、かな」
寂しそうに呟く日向を見て焦燥感が募る。
「と、とにかく! また明日から再スタートだ! 今年こそアンサンブルコンテストにも出場しないといけないし――」
「ねえ、あんたさ」
俺の言葉はぶつりと遮られた。
「そんなこと言ってるけど、今後はどうするの?」
「……」
痛いところを突かれた。俺もさすがに自覚している。いつまでも無職なんかでいる訳にはいかないと。「呪い」が無いのであれば、真っ当な大人になるべきだ、と。
「まあ慌てて決めることじゃないけどさ。もしあんたさえ良ければ、これからもあの子達の面倒を見てやってよ。絵理子先生のことも手伝ってあげて」
「……ああ、もちろんそのつもりだ」
「それなら良かった。虚無みたいな生活に戻ったら許さないからね」
日向は座席から立ち上がって俺の方を向いた。
「あと、お姉ちゃんともしっかり話すんだよ? いきなり今日の演奏会を見てびっくりしただろうから」
「うん」
結局、春に一度行って以降は楓花の病室を訪れていなかったが、これでようやく俺も心置きなく見舞いに行ける。
「それにしても、あの合唱はヤバかったね」
「ああ、浄化されて消えるかと思った」
「何それ、化け物じゃん」
「俺は似たようなもんだろ」
「またそんなこと言って」
「……冗談だよ」
こんな中身の無い会話がどこか懐かしく感じるのは、いったいどういう理屈なのだろう。
「凄く嬉しかった。あんたや絵理子先生が認められたことも、あたしのことをずっと覚えてくれたことも」
「忘れる訳が無いだろ」
「……うん。ありがとう」
「……」
「あー、お母さんとお姉ちゃん宛に、手紙でも書いておけば良かったなあ」
急に日向が残念がる。
「この後書けばいいじゃないか」
「ううん。もう時間みたい」
「えっ」
ちょっと待ってくれ。
そんなバカな話があるか。
「なんだよ、それ。演奏会は終わったばかりだって言うのに」
焦る俺に、日向はゆっくり首を横に振った。
「まだなんにも返せてないだろ! これからが本番じゃないか!」
「あんたもわかったでしょ? 今日の演奏と、お客さんの拍手。吹奏楽部は完全に復活したよ。もう絶対『幻』になんてならない」
「そ、それは……」
「あたしが望んだこと、もう全部叶っちゃったもん。バラバラになってたみんなはひとつになったし、吹奏楽部は蘇ったし、お姉ちゃんも目を覚ました。それにあんたのくだらないオカルトも消えた」
達観したような表情の日向に、俺は掛ける言葉が見つからない。
「だから、なんにも返せていないなんて、そんなこと無いんだよ? あたしにもう一度『エメラルド』を聞かせてくれて、本当にありがとう」
やめろ。これで最後みたいに思わせないでくれ。
「……あんた『黎明』って言葉知ってる?」
唐突な質問に、ただでさえ動揺している俺は面食らった。
「い、いや、聞いたことはあるけど意味は……」
「そっか。昔、絵理子先生の国語の授業で出てきたんだよね。直接的な意味は『夜明け』らしいんだけど、『新しい事が始まろうとする』って意味でもあるんだって」
シンプルに素敵な言葉だと思ったけれど、彼女が言いたいことまでは掴めない。
「本当は、あたしが夜明けの主役になりたかった。没落した吹奏楽部の、黎明の主人公に……」
胸が締めつけられる。
「でも、夜明けを見届けることはできた。黎明の瞬間に立ち会えた。こんな奇跡があると思う?」
すうっと、日向の頰に涙が伝う。その雫は床に落ちる手前で消えていく。
「だから、もう思い残すことは無いんだ」
「なんで……。どうしてそんな……」
無理矢理笑顔を作る日向を見ていると、『心の瞳』で枯れ果てたと思っていた涙がまた勢いよく溢れ始めた。
「ああ、もう。情けないなあ」
近づいた日向が肩に手を置いたが、感触が無い。
「みんなにもよろしくね。絵理子先生は仕事を辞めるなんて許さないし、禁煙しなかったら呪ってやるから」
「……わかった。しっかり伝えておくよ」
「それから、お母さんとお姉ちゃんにも。今まで育ててくれてありがとうって」
「ああ。ああ……」
最後くらい笑って送り出すべきだとわかっていても、到底無理な話だった。
「凄く残酷なことを言うけどさ。あたしが生きたままだったら、ここまでの演奏会にはならなかったんじゃないかな」
「お前、何を言ってんだ! そんなことよりお前の命の方が大切だろうが!」
「まあそりゃそうだけど」
必死な俺に、日向は苦笑を返す。
「今度は、お姉ちゃんやみんながあたしの遺志を継いでくれると思うから。もちろん、あんたもね」
「そんなの当たり前だろ!」
「うん。良かった。約束だよ」
ホールの一階で、ざわざわと声が上がり始めた。見送りが一段落したのかもしれない。
「――さて。じゃあ、行くね?」
ちょっと外出するようなテンションで、日向が言った。
「よく考えれば、うちのお母さんってあんたのお母さんでもあるんだよねえ」
「瑠璃さんのことか?」
「うん」
たしかにそうかもしれない。彼女は俺の育ての親だ。
「知ってると思うけど、お姉ちゃんって完璧超人だからさ。たった半年だったけど、間の抜けたお兄ちゃんができたみたいで楽しかったよ?」
「ああ。俺も楽しかった。きっと忘れないから。絶対に覚えておくから」
「うん!」
お互いに大粒の涙が零れた。
「あっ、絵理子先生!」
「えっ?」
舞台上を指した日向に釣られて背後を振り返る。最後に声だけでも聞かせられるだろうか。
「ん? 絵理子? 部員達しかいないみたいだけど……」
再び日向の方を向く、と。
――そこに、もう彼女の姿は無かった。
「おい、日向……?」
嘘だと言ってくれ。
「日向? まだいるんだろ?」
悪い冗談だと。いつもみたいにからかっているだけだと。
「――ん?」
彼女の立っていた場所のすぐ近くに、一枚の紙片が落ちていた。
どこか見覚えのあるその紙切れを手に取ると、翡翠館高校のロゴが目に入る。
「これ、まさか……」
本番前の楽屋でのワンシーンが脳裏に浮かんだ。
慌てて裏返しにすると――。
『ありがとう』
歪んだオレンジ色の文字で、たったそれだけが記されてあった。
「……」
紙片を持つ手が震える。
あいつは最後の力を振り絞ってこれを遺したんだ。
どこからかオレンジなどというマイナーな色のペンを調達してまで。
もうペンを握ることすらギリギリの状態であったにも関わらず。
こうして、形に遺してくれたんだ。
「う……うわあああああああ」
俺は絶叫した。
ホールいっぱいに俺の慟哭が響く。
「ちょっと恭洋!? どうしたの!」
異変を察した絵理子が二階席にやってくるまで、そう時間はかからなかった。
「何があったのよ、いったい……」
蹲ったまま泣き続ける俺を、絵理子は困惑した表情で見下ろしている。
「こ、これ」
ようやく俺は紙片を彼女に渡した。
「え? 何?」
「日向が」
その名前を告げた瞬間、絵理子の顔が強張る。
「日向がそれを遺して……」
もう、つら過ぎて最後まで言えない。
「そう……」
だが、絵理子もすぐに察したようだった。
「最後まで、あの子らしい……」
彼女の足元に、ぽたぽたと雫が落ちる。
「日向……。日向あああああ」
とうとう絵理子も崩れ落ちてしまった。
こんなに感情を表に出す絵理子を見たことが無い。
それだけあの少女の存在は俺達の精神的支柱であった。
大人二人の泣き声は、しばらくやむことが無かった。