第五話 呪縛を断つ方法 Ⅲ
「……わかった。協力しよう」
俺が渋々言葉を絞り出すと、日向はやれやれというように肩を竦める。
「やっとその気になったか」
助けろと言ってきた奴とは思えない口ぶりである。サービス業従事者が嫌がる顧客ランキング上位に入りそうな態度だ。ふざけんな。
「というかさ。鈍過ぎるあんたに改めて言うのもバカバカしいんだけど」
「いちいち前置きで毒を吐くのはやめろ」
「つまり、あたしが死んだのもあんたのせいってことでしょ?」
「……」
「協力するのは、当たり前だから」
「……」
「裏切ったら、その体をバラバラに刻んでや――」
「協力するって言ってんだろ!」
死にたがっていたはずの俺だが、背中に冷や汗が伝う。ふと、あの病室で林檎を渡された時のことがフラッシュバックした。本当にバラバラにされていたのかもしれないと思い戦慄する。
俺はわざとらしく咳払いし、話題を逸らすことにした。
「ひとつ確認したいんだが」
「何?」
「俺が今の吹奏楽部に介入しても大丈夫なのか? 恐らく俺の呪われた体質は健在だろ。部員が消えたら復活どころじゃないぞ」
「既に新二年生達は消えているのと一緒でしょ」
言われてみればそうだった。
「それならなおさらだ。ただでさえ死に体なのにトドメを刺すことになる」
つい数日前まで、生きているのか死んでいるのかわからない生活をしていたのが俺だ。もちろん俺自身、呪われているという自覚もある。だから基本的に考え方が後ろ向きなのだ。喫茶店で絵理子と話をしていた時も、俺は漠然と何もできないと思い込んだ。俺が関わったところで、ただでさえ消滅することが決まっている吹奏楽部の死期を早めるだけだという思考が渦巻いていたし、俺達の前から去った絵理子を引き止めることもできなかった。あなたが関わったら余計めちゃくちゃになる、などと言われれば俺に言い返す言葉などなかったのだから。
「それならたぶん大丈夫」
が、日向は呆気無く俺の懸念を吹き飛ばした。その物言いがあまりにもあっさりしていたので、まるで大丈夫とは思えない。
「あんたが真面目に音楽に取り組んでいる間は、呪いは起こらないと思う。実際、高校時代だって最後以外は何も無かったんでしょ?」
根拠を提示されずに納得できるほど信憑性の高い話ではないが「犠牲者は出ると思うけど頑張って」と言われるよりはマシだった。そもそも現状が末期的に壊滅しているようなので、これ以上悪くなることは無いのかもしれない。ポジティブな人間が大凶を引いた時の心境と似ている。それに、いずれにせよ関与しなければ吹奏楽部をなんとかすることなどできない。万が一犠牲者が出たとしても、その時に考えればいい話だ。犠牲者には申し訳無いが。
「で、この先どうするんだ?」
俺はシンプルに質問した。
「絵理子先生でしょ」
まあそうだろうな、という意見が返ってくる。
「絵理子なあ……。あいつなんで反抗期みたいな感じになってんだろうな。もうすぐ三十歳で、しかも教師だろ。反抗期を諫める立場じゃねえか。タバコまで吸ってるし」
「それ、絵理子先生に言ったら射殺されるよ」
「どこから銃器が出てくるんだよ」
「いや、なんか絵理子先生なら持ってそう」
俺の同級生は、教え子から反社会的勢力だと思われるほどの不良教師になっていた。
「そんな物騒な奴、どうやって会うんだ……」
今日会ったのだって、絵理子からすれば偶然だ。こちらがアポイントメントを取ろうとしても連絡に応じないだろう。というか、そもそも連絡手段が無い。
「――明日、高校に突撃しよう」
少し考え込んでいた日向が、突然物騒なことを言い出した。
「とにかくもう一度話してみないことには始まらない。玉砕覚悟で本丸に突入するしかない」
「もうちょっと穏便に攻略しないか?」
日向の言うことは理解できるが、突撃させられるのは俺なので丁重に断る。
「は? あんたが正攻法なんてできる訳無いじゃん。今まで陰の人生を歩んできたくせに」
「いきなり言葉の刃で切り刻むのやめろ」
「あんたには奇襲がお似合いだよ」
「全然嬉しくないんだが」
「うるさいな。実際、急に現れた方が部員達にもインパクトを与えられるでしょ。あんたは腐っても全国大会に行った代の生徒指揮者なんだから」
「腐りきって原型も無いんだけど」
「だからインパクトって言ってるじゃん」
「通報されるぞ」
「そこは絵理子先生を信じようよ」
「お前さっきまであいつにぶちギレてたじゃねえか」
「今も怒り心頭だよ」
「じゃあ気安く信用するなよ」
日向は疲れたように俺から視線を外した。どうして俺がわからず屋みたいになっているのだろうか。
「まあなんとかなるでしょ」
「楽天主義が過ぎる」
「そんなことより、何か士気が上がるような曲ない?」
日向は唐突にベッドから立ち上がると、俺の部屋を物色し始めた。
「おい、勝手に触るな。そう簡単に士気なんて上がらねえんだよ」
「は? そんなこと言っていいの? じゃあ明日は一人で頑張ってね。絵理子先生に刺されればいいよ」
壁一面の棚に収納された大量のCDを見ながら、日向が突き放すように言う。そして、目についたらしき一枚のディスクを抜き取ってコンポにセットした。
再生ボタンを押した瞬間、華やかな変ホ長調の響きが室内を満たす。
「これ、なんて曲?」
本当になんの意味も無く選んだCDだったのか、日向が俺に問い掛けた。
「ベートーヴェンの交響曲第三番……『英雄』だよ」
「へえ……。なんか宮殿にいるみたい」
「あのナポレオンがモデルだからな」
「じゃあちょうどいいじゃん。明日はナポレオン並みの快進撃を期待しているよ」
「無茶言うな」
なにをもって「ちょうどいい」のか理解しかねるが、日向はこの楽曲が気に入ったらしい。
この『英雄』という交響曲は、ベートーヴェンがフランス革命後の将軍、ナポレオン・ボナパルトを讃えるために作曲したと言われている。しかしナポレオン自らが皇帝に即位してしまったことに激怒したベートーヴェンは、スコアの表紙を破り『ボナパルト』と名付けた題名を『ある英雄の思い出』に書き換えた。諸説あるがあまりにも有名な逸話である。ナポレオンはその非凡な才能でヨーロッパ全土に名を轟かせたが、最後は島流しとなって人生を終えている。
「活躍しても末路は破滅じゃないか」
「なんであんたはそんな先のことまで考えて、なおかつ悲劇的なの?」
「お前は目先のことしか考えない能天気だろ」
「あんたの場合はそのくらいでちょうどいいよ」
面倒臭そうに言った日向は、そのままベッドに戻り目を閉じてメロディーに聴き入っている。
――思えばこうして誰かと音楽を聴くのはいつぶりだろう。俺も小競り合いはやめて、一度深呼吸をする。
古典派からロマン派への移り変わりを決定付けた『英雄』は、それまでのハイドンやモーツァルトなどの巨匠が作曲した交響曲と一線を画す作品だ。ベートーヴェン自身も一番のお気に入りの楽曲だったらしい。
にこにこしながら聞き入っていた日向であったが、第二楽章の葬送行進曲が流れる頃にはすやすやと眠りに落ちていた。気楽な奴である。まだ眠るには早い時間だが、俺も例のジャージに着替えた。ベッドは占領されているので、もう何年も使っていない客用の布団を敷き、毛布に包まる。埃っぽく仄かにカビ臭いが、不思議と寝心地は悪くなかった。
目を閉じると、瞼の裏にぼんやり母校の音楽室が浮かぶ。
休日の部活の昼休み。楓花や絵理子達と一緒にこうして音楽を聴いていたあの頃の記憶。
そういえば、日向から今の部員達のことを聞きそびれてしまった。彼らも当時の俺達のように音楽が好きなのだろうか。先ほどは「犠牲者が出ても」的なことを言ったが、こうして音楽を聞いていると部員達に対して不憫さを感じないことも無い。楓花の病室で、絵理子は「今度の三年生が引退したら吹奏楽部はおしまい」的なことを言っていたが、部活そのものが空中分解している状態でまともな活動などできるのだろうか。ただただ引退を迎えるのみだとしたら、そんなもの部活ですらない。そう思うと、まだ会ったことも無い部員達が、中途半端に部活を終わらせた当時の俺と重なって見えた。
それにこのまま結末を迎えれば、絵理子だって一生まともな感情が戻ることは無いだろう。さんざん罵倒や脅迫といった悪辣な態度を取られたが、俺自身は決して絵理子や当時の同級生を嫌っている訳ではない。絵理子は間違い無く全国大会に出場したメンバーなのだ。その経験が無かったかのように振る舞う姿を見るのは、なんだか切ない。そんなことを面と向かって言ったら刺されるんだろうけど。
ふつふつと、俺の心の中で死に絶えていたモチベーションが息を吹き返し始めていた。これでは日向の思惑通りで悔しいが、音楽というのは不思議なものである。ナポレオンまでは及ばなくても、革命を成功させた民衆の一人くらいの勇気を持とうと思えた。昨日までの無秩序、無気力、無味無色の世界から解放されたいという人並みの感情を思い出すことができたのだ。
頭の中で追っていた『英雄』のスコアが第四楽章に突入する。幾重にも変化する変ホ長調の主題が全身を駆け巡り堂々と楽曲が閉じられると、俺は余韻に浸りながら微睡みに落ちた。