第十三話 みんなひとつに Ⅱ
最後にもう一度楽屋に戻った俺は、第一部で演奏するスコアの順番を確認する。
新調した指揮棒もケースから取り出した。
いつもと同じ本番の衣装も問題無い。
コンクールと違い、スポットライトの当たり続ける舞台上にいる時間が長いので、水分もしっかり補給した。
「――行かなくていいの?」
全ての準備を終えた俺に話し掛けたのは、いつの間にかドアのそばに立っていた日向だった。
「えっ、お前どうしてこんなところにいるんだ! 楓花に会うんじゃなかったのか!?」
俺はひどく狼狽えた。てっきり病院に向かったものと思っていたからだ。
「……ううん。もしもお姉ちゃんにもあたしが見えなかったら、誰もあたしがいることに気づかないでしょ? それなら行く意味なんて無いよ」
「てめえ何言ってんだ! そんなの行ってみなきゃわからないし、もしお前が言う通りだとしても実際に目覚めたところを確認すべきだろ!」
本番前に感情をコントロールできないなど指揮者失格だ。しかし、こればっかりは見過ごせない。だって、日向が俺を吹奏楽部に引き込んだのは楓花を目覚めさせるためだったじゃないか。せっかく願いが成就したのだから、会うのは俺なんかじゃないはずだ。
「ううん、違うよ」
「何が!」
「私が一番望んだのは、吹奏楽部が復活すること」
俺とは真逆の穏やかな口調で彼女がそう言った。
「お姉ちゃんは、巡り巡って助かるかもしれないとは言ったけどね」
「お前、自分が何を言っているのかわかってんのか!? そんな問答をしている場合じゃねえだろうが!」
「あんたこそ、この期に及んで何を言ってんの? 最初に言ったよね? お姉ちゃんから秋村恭洋を頼るように聞いたって。バラバラになった吹奏楽部をなんとかして欲しいっていうのは、お姉ちゃんの願いでもあるんだよ」
冷静な日向の指摘に、俺は二の句を継げない。
「だから、もしお姉ちゃんに私が見えたら、それはそれで怒られちゃうよ。『どうしてここにいるんだ』って、追い返されちゃう」
俺の頭の中には、鮮明にそのイメージが浮かんでしまった。
まさに今日は、吹奏楽部が本当の意味で復活する日になるだろうから。
失格になってしまったコンクールとは違って、今日の演奏は絶対「幻想」になんかならないから。
「あたしにも見届けさせて欲しいんだ。同級生の勇姿も、後輩達の未来も。そして、秋村恭洋が『呪縛』から解放される瞬間も」
どうしてこの少女は、こんな時にも晴れやかで真っ直ぐな笑顔を浮かべられるのだろう。
そんなふうに言われたら、もう断りようが無いじゃないか。
「……わかった。そこまで言うなら、絶対に最後まで見ろよ」
「何? 命令?」
「違う。約束だ」
「……いいよ。今日だけは聞いてあげる」
日向は悪戯っぽく微笑みながら答えた。この生意気な態度にも、もうすっかり慣れてしまった。
「そういえば、思ったよりもたくさんお客さんが入ってるみたいだよ?」
「本当か!? 良かった……」
「みんな来てくれてる。黒星さんやマスター、それに理事長先生や校長先生も」
「そうか……」
「それに、輝子達はしっかりお手伝いしてたよ。合唱部もいたかな。なんか、野球部まで来てたからびっくりしたけど」
「は!?」
「応援をされたら、それを返すのは当然だって」
そのセリフを言ったのは、おそらくあのホームランを打ったキャプテンだろう。格好良いにもほどがある。
演奏会はステージの上だけで開かれる訳ではない。ホールのドア係やロビー受付係といった裏方がいなければ成り立たないのだ。本来であればOBがボランティアをすることが多いのだが、翡翠館高校の場合はいまだにOBと疎遠である。
人員不足をどう補うか悩んでいた吹奏楽部に救いの手を差し伸べてくれたのは、前生徒会長の輝子だった。
「今まで賄賂をいただき過ぎたので、ちょっとくらい手伝ってあげてもいいですよ」
腕を組みながらそう言い放った輝子に対しては、不謹慎ながら少し可愛げがあると感じてしまった。自分で賄賂と言ってしまうところとか。
全く乗り気でないような言い草だったのに、生徒会として仕事を引き受けてくれた輝子には感謝しかない。きっと、校内放送のCMの件と併せて現生徒会長を説得してくれたのだと思う。
そんな生徒会に乗じたのは、合唱部だった。夏休み前にたった一度俺が伴奏してあげただけだというのに、部長の八神菜々花は率先して手を挙げてくれたと聞いている。文化祭を終えた彼女はもう引退している身だということを踏まえると、こちらに対しても足を向けて寝られない。
野球部に関しては突発的なことだったようで俺は関知していなかったが、わざわざここまで来てくれた事実だけでも充分嬉しかった。
「あんたとみんなが、紡いできたんだよ」
「……そうだな」
なんだか既に感無量だ。
「あ、そうだ。あんた、紙って持ってない?」
「紙?」
藪から棒になんだろう。
「……ああ、こんなんで良ければ」
たまたま鞄の中にメモ帳が入っていたのを思い出して、一枚破って渡す。翡翠館高校のロゴが入った小さな紙片だ。
「うん。大丈夫だよ」
全ての物体に関与することは難しいようだが、紙一枚くらいならまだ持てるらしい。
「足止めしてごめんね」
「構わないよ」
俺は楽屋の扉を開けた。
舞台袖とホールの入口は逆方向である。
「じゃあ、頑張ってね」
「ああ」
「みんな、ずっと待ってたよ。もう一度『エメラルド』が輝く瞬間を……」
「……ああ」
「どうか、楽しんできてね」
「お前もな。――行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺と日向はそれぞれ歩き始めた。
最後まで見届ける、という彼女と交わした約束を噛み締めながら、俺は皆のもとへ向かう。
――相変わらず独特の雰囲気が漂う舞台袖。奏者達は舞台に上がる瞬間を待ち望むように整列していた。
その先のアナウンス席には絵理子が座っている。彼女には今日、第一部のナレーションをお願いしてある。
「原稿は大丈夫か?」
「……ええ」
急に声を掛けたため少し驚いた彼女であったが、返事はいつものように淡白だ。
卓上時計に目を遣った絵理子が、マイクのボリュームを上げる。
『本日は、翡翠館高校吹奏楽部の定期演奏会にお越しいただきありがとうございます。開演に先立ちまして――』
これ見よがしに滔々と注意事項を読み上げていく絵理子は、いつも通り本当に可愛げが無い。まあ、安心はするけれど。
「……あ、そうそう。これ見て」
一通り原稿を読んでマイクをオフにした絵理子が、懐からスマホを取り出して俺に差し出した。仄暗い舞台袖ではスマホの液晶が一段と眩しい。目を細めながら画面を見る、と。
「『このチャンネルは我々がジャックした! 翡翠館高校吹奏楽部の定期演奏会は、この後すぐ!』って……。なんだこれ」
「ライブ中継の待機画面だけど」
「もうちょっとマシな言葉は無かったのか?」
「何よ。私のセンスが壊滅的って意味? 刺されたいの?」
こいつが考えたのかよ。
「指揮者を暗殺しようとするな。縁起悪いだろ」
「あなたが関わっている時点で、縁起なんて最悪でしょ。大凶よ、大凶」
「こいつ……」
まあ、たしかに「ジャック」という言葉は我が校の吹奏楽部にはぴったりかもしれない。そんなふうに思えるのがおかしいということに触れたらおしまいだけど。
「跳ね返してきなさいよ」
ぼそりと絵理子が言った。
「え?」
「やっと、まともな定期演奏会ができるの。ここまで漕ぎ着けたってことは、あなたの『呪い』なんてもうたいしたこと無いんでしょう?」
「……励ましてる、のか?」
「悪い?」
面と向かって彼女に肯定されたのは、もしかすると初めてかもしれない。
「いや。ありがとな」
「――ちょっと。何をいちゃいちゃしてるんですか? いつも不協和音なのに」
後ろから声を掛けたのは、列の先頭にいるクラリネットの璃奈だ。
「はいはい。大人をからかうものじゃありませんよ」
「……大人?」
「おい」
俺が突っ込むと、周りを巻き込んで小さな笑いが起こる。本番前だというのに、たいした奴らだ。俺と絵理子も、自然に笑みが零れた。
「それでは奏者の皆さん、舞台へどうぞ!」
スタッフの指示と同時に、ステージへと繋がる重厚な扉が開いた。
俺の目の前を、四十一名の奏者が通り過ぎて行く。
漆黒の衣装と、シンボルである翡翠色のネクタイ。そして、それぞれが手にする楽器達。
これだけ薄暗い舞台袖でも煌めいて見えるのだから、ステージでスポットライトを浴びれば輝くに決まっている。
『大変お待たせ致しました。間もなく開演です。ロビーにおいでの方はホールへご入場ください』
最後のアナウンスがかかる。
俺のスコアは、スタッフが指揮台の上にセットしてくれた。手に持つのは真新しい指揮棒のみ。
やがて客席の照明が落ち、同時にステージがライトアップされる。
「……では、どうぞ」
笑顔で右手をステージに向けて差し出したスタッフに会釈を返し、俺は光の中へ進んでいく。
一歩舞台に入った瞬間、沸き上がる拍手。その音量が予想より遙かに大きく、俺はすぐに客席へ視線を向けたい気持ちを押し殺してそのまま指揮台へ足を運ぶ。
途中で奏者を起立させ、舞台の中心で正面を向くと――。
そこには、座席を埋め尽くすほどの聴衆が俺達を待っていた。