第十三話 みんなひとつに Ⅰ
『恭洋さーん。現地に行けなくてすいませんねー。頑張ってくださーい』
スマホのスピーカーから流れたのは、数年ぶりに目を覚ました楓花の母とは思えないほど緊張感の無い瑠璃だ。
『秋村さん、お久しぶりです。こちらのことは任せてください。機材も間に合いそうです』
少しハスキーな声とテキパキとした口調で応答したのは、村崎和美である。彼女達は楓花がいる総合病院のロビーから連絡をしている。
この電話の三十分ほど前。絵理子が飛び込んできた後、あまりのことに右往左往する俺達をコントロールしてくれたのは同じ場にいた智枝だった。こんな時まで後輩に頼る情けない大人二人であったが、事が事なので仕方無い。
とにかく、目の前には定期演奏会の開演が迫っている。まずはそちらに集中しなければならない。
「今日、躑躅学園の定期演奏会は動画投稿サイトでライブ中継しました。翡翠館高校の定期演奏会もそのまま我が校のチャンネルで中継しましょう。そうすれば、もしかしたら楓花先輩も病室で見られるかもしれない」
智枝の提案は、願ってもないアイデアであった。
躑躅学園は昨年の支部大会進出を契機に動画サイトのチャンネルを開設したとのことだ。カメラなどはいったん片付けを済ませてしまったらしかったが、智枝の指示で再び設置された。和美が言った「機材」とは、配信を視聴する側の準備のことである。既に病院にもこの件は伝わっている。楓花がどういう容態なのかわからないので実際視聴できるかはなんとも言えないが、智枝や和美が俺達のためにここまで手を貸してくれることが嬉しかった。
『本番、楽しみにしています。淑乃達にもよろしくお伝えくださいね』
「ええ、もちろん」
通話を終えた俺は、急いで大ホールへと向かった。
「――あ、やっと来た!」
待ちくたびれたように声を上げたのは美月だ。
「ごめん。すぐに合奏を――」
「もう時間がありません。待っている間に、少し不安なところだけ書き出しておきました。ここだけリハーサルしてもらえますか」
指揮台に上がった瞬間、最前列にいる玲香がルーズリーフを差し出した。そこには、彼女が言う通りいくつかの楽曲の名前と、それぞれ確認したい部分の小節番号が書かれていた。
奏者があまりにも優秀過ぎる。
「わかった。チューニングは?」
「大丈夫です!」
今日で基準音を出す係も最後となる璃奈が返事をする。
「じゃあ一曲目から――」
実際に合奏してみると、玲香は「不安」という言葉を使ったが、俺が聞く分にはどの曲も全く問題無いように思えた。
二十分程度しか時間が無かったこともあり、会場スタッフからすぐに撤収のアナウンスが掛かる。
部員達が楽屋で着替えを済ませると、あとはリハーサル室で開場を待つのみとなった。
「みんな、緊張は――してないみたいだな」
本番前の、独特の昂揚感が室内を満たしている。今日のプログラムはこれまでの演奏会で披露した楽曲も多く、自信が漲っている様子だ。
「じゃあ少しだけ連絡事項。まず、今日の演奏会は躑躅学園の協力でライブ中継されることになった」
なるべく平静を心掛けて告げたが、一斉に歓声と質問が飛んでくる。
「あー、うるさいうるさい! 躑躅学園の動画サイトのチャンネルを使わせてもらえるようになったんだよ。向こうの顧問が提案してくれた。まあ、告知も何もしてないからどのくらいの人に見てもらえるかはわからんが……」
これまで躑躅学園に対して良い印象が無かったせいでほとんどの部員は意外そうな顔をしていたが、少しでも視聴者が増えるかもしれないとなれば嬉しいのだろう。プレッシャーを感じている雰囲気は微塵も無かった。本当に肝が据わった奴らだ。
「それから、もう一つだけ。……日向のお姉さんが、目を覚ました」
今度は打って変わって室内が静寂に包まれる。
「ライブ中継の件は、お姉さんにも見てもらうために決まったことなんだ」
そこで俺は、淑乃と董弥に視線を向けた。
「だから、俺達がコンサートをしたあの病院で、今日の中継が流れるんだよ」
奇しくも、玲香が講堂で淑乃に「何が起こるかわからない」と言ったことが現実になった。これで和美も公演を見ることができる。もちろん全てをゆっくり楽しむことはできないだろうが、俺の言葉を聞いた村崎姉弟の顔つきが変わった。
「入院している子ども達も見てくれるかもしれない。だから、今日俺達は会場の外まで音を届けなければいけなくなった訳だ」
「臨むところよ!」
淑乃が声を張った。他の皆も口々に賛同の声を上げる。
「よし。じゃあ最後に、美月。景気の良い声出しを頼む」
「はい!」
新部長として初めての大仕事に、美月は意気揚々と俺の隣までやって来た。
「では、私からも一つだけ。今日という日を迎えられたこと。そして今日までに出会った人と楽曲。その全てに感謝しましょう。私達はパフォーマンスでしか恩返しができませんが……。もし聞いていただく方が喜んでくれれば、それこそが私達の目指す『エメラルド』なんだろうって思います。二年ぶりの定期演奏会、今日は最高のステージにしましょう!」
「はい!」
今までで一番大きな返事が響く。
「先輩には何か言わなくていいのか?」
「え? ……ああ。先輩方は今日も完璧にお願いします。いつもみたいに」
「いきなり雑!」
淑乃が突っ込むと、笑いが起こる。
「じゃあ、最後に円陣でも組みましょう!」
言われてみると、これまでそういうことをしてきた記憶が無い。
部員達もぎこちなく円陣を作る。この期に及んで新鮮な気持ちになるのも変な感覚だ。
「さあ、秋村さんも入って!」
ぼんやり眺めていたら美月に促された。
「いや、俺は……」
「空気読んで!」
「あ、はい」
大人しく円陣に加わる。この付属物みたいな人間が指揮者だと当てられる人がいたら、天才かひねくれ者のどちらかだと思う。
「――それでは、みんな本番で輝きましょう! そして精一杯楽しみましょう! 行くぞー!!」
美月の掛け声に合わせて、「おー!!」と皆が叫んだ。もちろん俺もだ。
円陣が解けると開場の時刻となった。
「今日も、全員で頑張りましょう」
舞台袖に向かう部員達の中で、俺とすれ違いざまに玲香が呟いた。
俺は静かに頷いて、部屋を出る彼女達の背中を見送った。




