第十二話 悪夢の終わり Ⅳ
もしも自惚れでないとしたら、智枝は俺に憎しみを抱いていないのではと、今さらながら思い至った。
「私は、本当に、なんてことを……」
上を向いたことでなんとか目元に溜まっていた涙が溢れて一筋頬を伝うと、智枝は両手で顔を覆った。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさいっ……」
決壊した涙は止まらず、彼女は嗚咽を漏らしながらしきりに謝罪を繰り返す。
「智枝。みんな受け入れたんだ。もう謝らなくていい」
「でも!」
反発する彼女に、俺はポケットから取り出したハンカチを渡す。
「あなたは私のせいで全国大会に出ることも、引退することすらできなかった。それだけじゃなく、私はあなたの大切な時間を十年も奪ってしまったんですよ!」
「お前のせいじゃないんだってば」
「私はもともと知ってたんです! 秋村恭洋が『死神』だと!」
「……え?」
智枝の告白に驚きを隠せない。
「他人に無関心なあなたは当然把握してないでしょうけど、私達って同じ中学なんですよ?」
「マジかよ」
「あなた、よく中学の音楽室でピアノを弾いていたでしょう。こっそり聞いてたんです、私。でも『あの人には関わらない方がいい』って言われて、理由を知ったんです」
たしかにピアノはよく弾いていた覚えがある。
「翡翠館で吹奏楽部に入った時にはびっくりしましたけどね。まさかあなたがいるなんて思いませんでしたから。あなたの秘密については広まっていないようだったので、私も黙っていたんです。でも――」
全国大会の前に、あまりにも立て続けてトラブルが起きたことで俺の「体質」は露見した。
「私のお見舞いに来た同級生がその話題で盛り上がっていた時に、私はつい同調してしまったんです……。指揮台の上では全く隙の無い生徒指揮者の弱みを握ったつもりでした。楽器を壊された腹いせもありました。そんな軽率で幼稚な考えのせいで、あなたは刺され部活を去ってしまった……」
再び智枝の両目からぼろぼろと涙が零れる。
「あなたは私の楽器が壊れてしまったあの日、すぐに家から楽器を持ってきて貸してくれたのに。あんなの、不幸な事故でしかなかったのに……」
彼女が言ったのは事実だ。もっとも、その後すぐに智枝は怪我をしたのでほんの短い間だけの話だが。
「――でも、もう『呪い』なんて起こらないんでしょう?」
いきなり智枝が発した言葉に、俺は耳を疑う。内容もそうだが、どうしてそれを知っているのだろう。
「瑠璃さん――楓花先輩のお母さんに聞きました」
「えっ……」
ここでその名前が出てくるとは思わなかった。
しかし、よく考えれば「智枝と会え」と言った人物こそ――。
「楓花先輩があんな状態になってしまってから私もよくお見舞いに行ってるので、瑠璃さんとはもともと顔見知りなんですよ。県大会の後にお話をする機会があって、そこであなたのことを知りました」
「そういうことだったのか……」
これまでの話を整理した俺は、ようやく全て理解した。
すると、智枝が急に立ち上がった。
「ん?」
そのまま自然な動作で床に正座する。
「本当に、すいませんでした」
「いやいやいや!」
後輩の土下座なんて、死んでも見たくない。
俺は半ば無理矢理彼女を再び椅子に座らせた。
「――実は県大会の前、失格になるって事以外にもいろいろあってさ。俺が部員の楽器を壊してしまったんだ」
「えっ……」
「しかもどういう因果か部長のフルートをな。俺だって『呪い』が健在だと思っていたよ」
思えば、その後俺の楽器を貸したところまで含めて智枝と同じだった。因果なものだ。
「……」
「でも、結局最後はみんなが俺に思い出させてくれた。聴衆に『エメラルド』を届けるという、十年前と変わらない気持ちを」
そのきっかけを作った、あのオレンジの少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「もう、過ぎたことはいい。お前だって今じゃ立派な指揮者だ。支部大会に出るなんてたいしたもんだよ。これからは、それぞれの役割を果たしていけばいいんじゃないか」
「……そう、ですね」
「瑠璃さんが言っていたよ。この地区を引っ張っていくのは、翡翠館と躑躅学園だって。『バランスが崩れる』なんてとんでもない。お互いが良いライバルになれると思うよ」
偽りの無い気持ちを吐露すると、智枝は初めて微かな笑顔を見せた。
「本当に『呪い』は無くなったんですね。そんな前向きなことばかり言うなんて」
「ネガティブなのは『呪い』というか性格なんだが……」
――冒頭に拷問のような沈黙があったとは思えぬくらい話し込んでしまった。
「今日の公演、無理を聞いてもらってありがとう。片付けまで引き受けてくれて」
「いいんです。私だって一応OGなんですよ? 今まで何もしてこなかった分、母校のためにできることはしないと」
「何もしてないなんてことは無いよ。うちの部長は、現役時代のお前の音に惚れて楽器を始めたんだから」
玲香のことを伝えると、智枝は一瞬目を見開いてからゆっくりと天井を見上げた。色褪せた記憶を辿るように。
「そうだったんですか。ずいぶん懐かしいですね……」
「ああ」
もう舞台の設営は終わっているだろう。部員達が音出しやポップスステージの演出を確認している頃合いだ。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「わかりました。本番前にすいませんでした」
「いや、むしろ本番前で良かったよ」
「そうですか」
指揮棒とスコアを手にした俺は、ふと思い当たったことを尋ねてみる。
「そういえば、瑠璃さんからどこまで聞いたんだ?」
「え? どこまで、というのは?」
「どうして『呪い』が消えたのか、理由を聞いていないんだよ。……いや、お前にもそんなことまで言わないか。あの人、何を考えているかさっぱりわからんし」
「あー。そ、そうですね」
「ん?」
なんだか歯切れが悪くないか?
「お前、もしかして何か知ってるのか? ちょっと教え――」
「しっ!」
いきなり智枝が口に人差し指を当てたので、俺の言葉は中途半端に切断された。
無音になった室内とは対照的に、ドアの向こうから廊下を走る足音が聞こえる。しかもかなり急いでいるらしく、両足が刻むテンポは速くて不規則だ。
俺を呼びに来たのか? それにしても慌て過ぎでは……。
段々大きくなる足音が俺の不安を増長させる。もしや何かトラブルでも起きたのか。
「――恭洋!」
ノックどころか、ドアそのものをぶち壊す勢いで豪快に現れたのは、手にスマホを握りしめながら肩で息をする絵理子だった。後ろには日向もいる。
どう見ても不吉なのは、二人揃って今にも泣き出しそうな顔をしていることだ。
「なんの騒ぎだ?」
恐る恐る聞くと、呼吸を整えた絵理子が真っ直ぐ俺を見つめた。
「楓花が……」
「ん?」
楓花?
「今病院から連絡があって、意識が回復したって!」
――俺と智枝はぽかんと口を開けて固まった。
手からスコアが滑り落ちる。
「今、なんて?」
聞き返すと、目にも留まらぬ速さで絵理子が俺に近づき胸ぐらを掴む。
「だから! 楓花が! 目を覚ましたの!」
「わかったわかった!」
前後に揺さぶられ、俺は情けない悲鳴を上げた。
信じられない報告に、俺は平衡感覚も感情もぐちゃぐちゃになる。
だが、こんなタイミングで目覚めるなんてあいつらしいと、冷静に考える自分もいた。
――開場まで、もう一時間を切っていた。