第十二話 悪夢の終わり Ⅲ
「……」
「……」
かれこれ五分以上、室内が無人であると錯覚するほどの沈黙が流れている。とりあえず智枝には余っていた椅子に座ってもらったが、向かい合う俺には全く視線を寄越さない。
智枝は白いブラウスに黒いロングスカートとパンプスという、いかにもステージに上がる人みたいな格好をしている。まだ本番が終わってすぐだからか、額には僅かに汗が滲んでいた。そんな忙しい時に、俺なんかの相手をしていて良いのだろうか――。
「……あの、お疲れ様」
耐えきれなくなったのと、年上の俺が話を切り出すべきかもしれないという遅過ぎる気遣いから、俺は乾いた声を出した。
「私達の演奏、聞いてたんですか?」
「あ、いや、その」
しどろもどろを表現しなさいという課題があったら満点を取りそうな俺の様子に、智枝はため息を吐く。
「あなたは昔から他人に関心がありませんでしたもんね」
昔というのは、もちろん十年前のことだろう。
「コンクールの件で罵倒されるものだと思っていたので、拍子抜けです」
「え?」
「だって、私のせいで翡翠館は失格になったんですよ? あなたにとっては、吐き気を催す邪悪でしかないじゃないですか」
さすがにそれは言い過ぎだが、簡単に許せるほどのことでもないのはたしかである。ただ、こんなところで智枝を糾弾したって何も生まれないのだ。きっかけは智枝だったにせよ、他校の顧問だって同調した訳だし。
「……本当、変わらないんですね。そういうところ」
呆れたように智枝が呟く。
「いや、そもそも俺の方だしな。邪悪というか『死神』は……」
俺が自虐を口にした途端、智枝はこちらを睨みつけた。
「そうやっていつも自分は周りから一線を引いているような態度なのに、どうして指揮者なんかやってるんですか!」
正論で責められると、俺は言い訳すらできない。
「当時も、指揮台の上でしか自分自身を表現できないあなたを見ているとイライラしたんですよ。本当に音楽のことしか考えてなかった。まるで私達は道具みたいでした」
そんなふうに考えたことは無かったが、奏者がそう感じたなら受け入れるしかない。
「どうしてあの時、はっきり否定しなかったんですか。私を突き落としてなんかいないって。勝手に足を踏み外しただけだって!」
「……言ったよ」
「伝わってないんですよ! なんで指揮台から一歩下りた途端、いつもダメ人間になるんですか!」
「……」
「あの後部活に復帰した私が、どれだけ苦労したと思ってるんですか……」
智枝の声は段々萎んでいった。
なぜ彼女ばかりが被害者のように振る舞うのかと逆上する気にはならなかった。智枝が、当時見舞いに訪れた同級生に対して俺の関与を否定していたことを知っているからだ。それにも関わらず事態が悪化したのは、俺に信用や求心力が無かったために決まっている。
「先月の理事会で私が言ったことは、絵理子先輩から聞いてますよね?」
「ああ……」
端的に言えば、部活動に一極集中できる顧問でもない大人が指揮を振るのは問題だという意見である。
「合同演奏会の時はバラバラだったのに、まさか地区大会であんなに仕上げてくるなんて……。やっぱり十年前みたいに、あなたが指揮者としては優秀だと思い知りました。しかも、今は定職にも就かず吹奏楽部につきっきりだと聞いて、どうしても我慢できなかったんです」
「優秀なのは俺じゃなくて奏者だよ」
「うるさい!」
ヒステリーをぶつけられるのは絵理子で慣れているが、後輩に怒鳴られると余計に立つ瀬が無い。
「あなたみたいなのが吹奏楽部に関わったら、この地区のバランスがおかしくなるんですよ! なんですか、あの県大会の演奏は!? 最高過ぎて拍手すらできませんでしたよ!」
「……ん?」
褒められた、のか?
「表彰式の時なんて、後ろから刺されないかずっと震えてました。十年前のあなたみたいに」
無意識に右手が古傷を擦った。
「……この十年間。私はずっと先輩達に囚われていたのかもしれません。知ってました? あなたの次の生徒指揮者って、私なんですよ」
「えっ」
「卒業してからもそう。楓花先輩の背中を追いかけて大学に進んで教員免許を取って、絵理子先輩を避けて躑躅学園に赴任して、芳川先生のもとで指揮を学んで……。ようやく去年結果が出たと思ったらあなたが現れたんです。これもある種の『呪い』みたいなものなんですよ……」
そんな事情があったのか。
「それでも、どうしたって先輩達の演奏には追いつかなくて。全国大会を決めた、十年前の支部大会の『断頭台』がずっと耳の奥に残っているんです。たぶん、芳川先生もそうなんだと思います。躑躅学園に転勤されてから結果が出なかったのも、過去に囚われていたからでしょう」
堰を切ったように智枝の話が続き、俺の中でもパズルのピースが噛み合うように納得感が増していく。今年の躑躅学園の『ローマの祭り』に関しても、上品に仕上げようとした訳ではなく、俺達の存在にプレッシャーを感じたことで縮こまった演奏になってしまっただけなのではないかと思った。
だが、もしそうだとしたらあまりにももったいないことである。奏者が他のバンドを気にしてどうするのだ。
「演者が一番意識しないといけないのは聴衆だ。少なくとも俺の代は、みんながその一点だけを考えていた。お前だってそうだろう。それこそが、翡翠館高校吹奏楽部が目指した『エメラルド・サウンズ』なんだから」
そのワードに、智枝は少しだけ目を見開いた。
「……エメラルド、か。ずいぶん久しぶりに聞きましたね」
「この半年間も、俺達はそのサウンドを目指してやってきたんだ。だから、県大会の演奏を最高だったと感じてくれたなら指揮者冥利に尽きるよ」
意識すべき対象を見誤って成績すら伴わなかった躑躅学園。
成績なんか関係無く、聴衆の心に音を届けた翡翠館。
「……やっぱり、敵わないなあ」
もう笑うしかないといった様子で、智枝は顔を上げた。目つきの鋭さは、いくらか丸くなっている。