第十二話 悪夢の終わり Ⅰ
山の木々の葉が鮮やかな赤色に染まる、秋麗らかな土曜日。その始まりを告げたのは、耳を擽る甘美なピアノの音色であった。
ドビュッシー作曲の『夢』だ。
ベッドで横になった状態でこの曲を聞くのは半年ぶりである。ありきたりな言い方をすれば、全てが終わるはずだったあの日こそ、全ての始まりであった。
空中を浮遊するような旋律と、ゆらめくテンポ。
半年前はささやかな走馬燈が流れたけれど、今は違う。激動の数ヶ月間のハイライトが、次々と脳内のスクリーンに映し出された。
そして訪れる最後の音――へ長調のハーモニー……。
俺はゆっくりと目を開けた。
「おはよ」
活発そうな明るい眼差しと、透き通ったメゾソプラノの声。
オレンジ色を身に纏った日向の挨拶を聞いて、俺は静かに覚醒した。
「ああ、おはよう」
カーテンを開けると、日の出を迎えたばかりの空には予報通りの晴天が広がっている。
「いよいよだね」
「そうだな」
俺達は会話とも言えぬくらいの短いやり取りだけを交わした。
いつからかしっかり摂るようになった朝食を済ませ、ドアノブだけ不自然に真新しい玄関の扉の鍵を掛ける。
ほとんど毎日通い続けた通学路。目的地の近くには、銀杏の落葉が作る黄色い絨毯の敷かれた並木道がある。
その木々の間から覗くのは、いつもと変わらない翡翠色の屋根。
「――おはようございます!」
ただのシンボルである校門の周辺には、既に部員達が集まっていた。
「遅いですよ!」
「早く講堂を開けてください!」
「今日は重役出勤なんですねー」
「え、無職なのに?」
「まあまあ、今日は仲良くしましょうよ」
「そうですよ。こんなに天気も良いんだし」
……ぱっと見た感じ、とりあえず皆が元気なようで安心した。
「なあ、まずひとつだけ言っていいか?」
最も手前にいる美月へ声を掛ける。
「はい」
「今何時だ?」
「えー、七時みたいですね」
「集合時刻は?」
「忘れました」
「……じゃあ、今日の開演時刻は?」
「六時です! 夕方の!」
「てめえら半日も何して過ごすんだよ!」
ちなみに指示していた集合時間は九時である。
「いやいや、秋村さんだってこうして来ているじゃないですか」
「それは、どうせ花見の場所取りみたいに何時間も前から来るクソ迷惑な奴がいると思ったから来てみただけだよ。まさか出待ちされるとは思わなかったけどな!」
何が重役出勤だ。ブラック過ぎる。
「無職だから白とか黒なんて関係無いのでは? 無職だけに無色ですよね、あはは!」
もうここがワルプルギスだろ。
「……まあ、冗談はさておき」
突然真顔になった美月はまるでいつもの玲香みたいだと思ったが、そこで初めて三年生の姿が無いことに気づいた。
「先輩方は、予定通りに集合しますよ」
俺が違和感を覚えたことを察知したのか、美月が言葉を続ける。
「今日は、先輩方には音楽に集中して欲しいんです。そういう訳ですから、裏方の仕事は全て私達が引き受けることにしました」
なんでもないことのように言う美月と、微笑みながら頷く他の部員達。
「全てって……」
準備という意味では昨日までが大変であったことに違い無いのだが、当日は当日でやることが山のようにある。まさに全員で作り上げる演奏会なのだ。
「先輩達がとっても上手なことは、もうわかってるんです。だからこそ、最後は舞台の上で全部出し切って欲しい。そうすればあのストイック過ぎる変人集団も、未練無くこの部を去ることができるでしょうから」
悪口を言っているくせに、美月はもう泣きそうになっていた。
「部長! まだ早いよ!」
後ろにいる部員から突っ込まれ、しんみりしたムードを掻き消すような笑い声があちこちから上がった。
「秋村さんも!」
「ん?」
なんのことだろうと思って瞬きをすると、すっと一筋だけ雫が流れた。
「……そうだな。今日は一年に一度の晴れ舞台だし、泣いてる場合じゃないよな」
さっと指先で頬を拭った俺は、集まっている一同を見渡す。
「お前らも、先輩の居場所なんてもう無いって思わせるくらい、魂を込めて演奏しろよ。三年生に対して遠慮なんかしてたら、盛り立て役にもなれないだろうからな!」
「はい!」
朝から元気な返事だ。
俺が講堂へ向かって歩き始めると、談笑を交わしながら皆が後に続く。一部始終を見つめていた日向も、最後尾から暖かい眼差しで後輩達の姿を眺めていた。今日の演奏会の成功を祈るように。そして、これからの吹奏楽部の未来を託すように。
――その後、後輩達の気遣いが伝わったのか三年生達はぴったり九時に集合し、それぞれ粛々とウォーミングアップを始めた。文化祭が終わるまでは過干渉なくらいだった彼らも、徐々に部の運営を後輩へ引き継いでいった。まさに「引退」といった感じの光景は、指揮者という立場から見ると寂寥感の募るものであったが、後輩達の成長という意味では喜ばしくもあった。
「ここで練習するのも、今日で最後なんですね」
講堂の隅でプログラム進行の最終チェックをしていた俺に、玲香が声を掛ける。
「……落ち着いたら、またいつでも遊びにくればいい。もうここは吹奏楽部が占拠したからな」
「合法的に?」
「もちろん」
「それなら良かった」
玲香は極めて自然に微笑んだ。
「やっぱり、普段からそういう表情をした方がいいぞ」
「はい?」
「せっかく美少女なんだから、もっと笑いなさい」
「セクハラです」
「はいはい、なんとでも言えばいいよ」
俺は忘れていない。あの夏の合宿の朝。意味不明な手段で俺を叩き起こしにきた玲香達は、口々に自分のことを美少女だと言っていたのだ。
「良い思い出ですね……」
「どこがだよ!」
「……ふふっ」
思わず噴き出した玲香が、そのまま大きく笑い声を上げた。表情が豊かなのはフルートの演奏だけだった彼女も、今ではこんな立派に感情を表に出すことができるようになった。
「ちょっと? なんでそんな緊張感の無い雰囲気を出してんの?」
見かねたように近づいてきたのは淑乃だ。
「存在するだけで周りがピリピリする淑乃に言われたくない」
玲香が容赦無く言い返す。
「あ? それどういう意味よ」
「おい、どうしてたった一往復かそこらの会話で爆心地みたいな空気を作り出せるんだよ、お前らは」
「そんなの、いつも爆心地みたいなところにいたからに決まってるでしょ」
「そうですね」
「こいつら……」
認めたくはないが、あながち間違っている訳でもない。一番最初に彼女達の指揮を振った時の感想が『ゲルニカ』だし。
「そういえば、和美さんは今日来るのか?」
ふと思いついて、俺は淑乃に質問した。
あの病院のコンサート以来、和美とはご無沙汰だ。相変わらず忙しくしているのだろうか。
「ああ、お母さん? ちょうど今日夜勤みたい」
「そうか……」
何も気にしていないように言った淑乃の顔が僅かに曇る。呑気に笑っていた玲香へ声を掛けたのも、やはりどこかで苛立ちのようなものがあるのだろう。
「萌波のご両親が、しっかりビデオ撮影してくれるって言ってなかったか? ライブで見られないのは残念だけど、映像でも伝わるような演奏をしないとな」
「うん……」
まだ表情から陰が消えていない淑乃のことは少し気になったが、そうこうするうちにリハーサル開始の時間が来てしまった。
「淑乃。まだ何があるかわからないでしょう。まずはしっかり準備しないと」
「……そうね」
玲香が言ったのは気休めにしかならないセリフだったかもしれないが、淑乃は少しだけ微笑んで彼女の励ましを受け取った。
徐々に奏者が集まってくる。
それからしばらく、入念にリハーサルを行った。「本番の楽しみが減っちゃうから」と、日向はずっとどこかへ行っていた。