第十一話 通じた思い Ⅱ
『さて、明日は吹奏楽部の定期演奏会ですよー! 開場は十七時三十分、開演が十八時ちょうどです! 入場は無料とのことなので、是非皆さん足を運んでくださいねー!』
お昼休みの校舎には、いつものようにキンキンとした声が放送に乗って響く。ただし、これは輝子の声ではない。先日行われた選挙で新たに会長となった女子生徒である。この番組もしっかりと引き継がれたらしく、新会長は輝子に負けじと毎回元気いっぱいだ。
定期演奏会の広告は、今回も例によって俺の寄付(賄賂)が奏功し何度かアナウンスしてもらうことに成功した。
そんなCMも、いよいよ今日で最後となった。
「チケット代取らなくて、本当にいいの?」
自販機近くのベンチに座って休憩する俺の横で、日向が尋ねてきた。
「ああ。五月にもらった活動手当もあるし、そもそもここ一年は支出ってほとんど無いからな。講師を呼んでもいないし、楽器も買ってない」
もっと言うと、遠征も無かったし、今回の定期演奏会にゲストを呼ぶギャラも発生しないし、そもそも去年定期演奏会を開いていないので繰越金もあるのだ。目立った出費と言えば、参加した演奏会の楽器運搬代と、合宿にかかった費用くらいだろうか。玲香のフルートの修理代については、部費を充てて良いと本人から言われたが、さすがに俺が負担した。
「そうは言ってもさ。ホールの利用料だけでもバカにならないでしょ」
「たしかに多少は不足分もあるけど、それは俺が出すからいいよ」
「あんたただでさえ収入が無いのに、貴重な遺産を食い潰していいの?」
「まあ、なんとかなるだろ」
ちなみに、玲香の楽器は完璧に直ったので、貸し出したフルートは既に自宅へ戻っている。俺が言うのもなんだが、これからも大事にしていって欲しいと思う。
「適当だなあ」
日向は口を尖らせているが、もうここまで来ると、お金がどうとかそういう俗っぽい話はなるべく考えたくなかった。
「それに、そろそろ俺も……」
「ん?」
「……いや、なんでもないよ」
十月の日中は非常に過ごしやすい。空は幾分か低くなったように感じるが、小春日和の陽気である。予報では明日も晴れらしいので安心だ。
本当は躑躅学園の定期演奏会を鑑賞できれば良かったのだが、そういう訳にもいかない。一日二公演、それも別団体ともなればホール側の負担も相当だ。連盟の鶴の一声でなんとかねじ込んでもらった俺達が余計な迷惑を掛けては、まさに恩を仇で返すような仕打ちである。翡翠館高校はほとんどゲネプロ(本番前の通し練習)をする時間が取れないので、ギリギリまでいつもの講堂でリハーサルを行う予定だ。なんだか県大会の時と同じようなことになっている。
「あ、こんなところにいた! 秋村さん、こっちへ来てください!」
ひょっこり現れたのは、新部長の美月である。
「こんなところってなんだよ」
「いいからいいから」
有無を言わさず腕を引っ張られ、俺は校舎の中に連れ戻される。美月も合宿以降は発作を起こしていない。どうも前部長である玲香のクールな部分を見習いたいらしく、振る舞いには常に気を配ることにしたらしい。そもそもが校長の娘でお嬢様というステータスなのだから、あの冷血で無愛想な玲香を手本にするくらいなら自宅の使用人に一から鍛え直してもらえばいいと思うのだが。
「玲香先輩に始末されたいんですか?」
「そんな質問が自然に出てくるような人間を見習うなよ!」
俺の横をふわふわ漂いながら、会話を聞いていた日向が声を出して笑った。
少し歩くと、音楽室前の廊下に到着する。そこには大きめの段ボールがいくつか置いてあった。
飛び跳ねるようにそちらへ向かった美月は、びりびりにガムテープを剥がして中身を取り出す。いったいどこがクールなんだ。
「やっと届きました! 間に合って良かったです!」
眩しいくらいの笑顔を浮かべながら、美月は手に持った物を広げてみせた。
我が部のシンボルカラーであるエメラルドグリーンに染まった、一枚のシャツ。そこにはゴールドで描かれた音楽記号や音符などのプリントがふんだんにあしらわれている。
「ポップスステージの衣装です!」
まるで宝物を見つけたように喜ぶ美月を見ていると、きっと他の部員達も同じようにはしゃぐのだろうと容易にイメージできた。
「このデザイン、萌波ちゃんが考えたんですよ」
シャツを抱き締めながら美月が呟いた。
そうか。美月はこれで萌波とも……。
「あいつ、新入部員勧誘の時もビラのイラストを担当してたしな」
「はい。昔から器用なんです。人間付き合いは不器用なのに」
「お前が言うなよ」
「あなたにも言われたくありません」
「……ふっ」
「……ははは」
俺達はつい噴き出してしまった。日向も笑っている。
「明日は、最高の演奏会にしましょう」
「ああ、もちろん」
演奏は仕上がっている。衣装も揃った。宣伝はばっちりだし、会場も申し分無い。
あとは肝心の奏者達だが……。
「わあ! 届いたんだね!」
「めっちゃいい感じじゃん!」
「秋村さんもぼうっとしてないで喜んでくださいよ!」
「秋村さん? うわ、いたんだ」
「早く明日にならないかなー!」
「これ、放課後着てみてもいいかな?」
「いいね! 着ようよ!」
どこから聞きつけたのか、わらわらと部員が廊下に集まってきた。何やら聞き捨てならない発言もあった気がするが……。
どうやらみんなの士気も全く問題無いようだ。
「……明日、お客さんからまた言ってもらえるかな? 『ブラボー』って」
「どうかなー。躑躅学園と比べられちゃうとねー」
「え、明日両方聞く人とかいるの?」
「そりゃいるんじゃない? 躑躅学園も入場料はタダなんだって」
「へー。でも、うちらと躑躅学園って、そんなに実力差あるのかな?」
「わかんない!」
ん?
二年生達が交わしている、一見なんの変哲も無い会話。
どうしてこんなに違和感が憑き纏うのだろう。ふと日向を見ると、彼女も俺と同じ心境らしく怪訝な表情をしている。
……まあ、でもそりゃ言われたいよな。「ブラボ-」の声なんて、滅多に上がるものでは、ない、し――。
「おいちょっと待て」
突然会話に割り込んだ俺の緊迫した様子に、その場の二年生達が何事かと身構える。
「なあ、さっきなんて言った?」
「はい? いきなりなんですか?」
問題の発言をした部員に詰め寄ると、不審な目を向けられる。
「いいから!」
肩を掴む勢いの俺は、思わず大きな声を出してしまった。
「い、いや、ごめん……」
「ん? 躑躅学園の話ですか?」
「その前だよ」
「前? ……ああ。『ブラボー』って言われたいな、と」
「それ、いつの話だ」
「は? 県大会の時に決まっているじゃないですか。秋村さんだって聞いたでしょう?」
――嘘だろ?
「お前にも聞こえたのか?」
「そりゃ、あれだけ豪快に叫ばれたら聞こえますよ。気持ち良かったなー」
つい日向へ顔を向けると、彼女は涙で頬を濡らしながら微笑んでいた。
「そうか……。お前らも聞いていたんだな……」
そのまま会話から離脱し、ふらふらと日向のもとに近づく。
どうして俺と絵理子にしか認識できない日向の声が、奏者に聞こえたんだ。
てっきり、あの「ブラボー」を受けたのは俺だけだと思っていた。
「伝わってたんだね……。良かった。本当に良かった……」
嗚咽を漏らしながら崩れ落ちた日向の手を握る。
「……ちっ」
もう、ほとんど感覚が無い。
堪えろ、と自分に言い聞かせた。まだ涙を流すには早過ぎる。反射的に俺はもう片方の拳を強く握りしめた。
「お前、明日は大丈夫なのか?」
県大会の前日と同じ質問をすると、日向は何度も頷く。
こいつは姉と同じで、曲がった事や嘘が嫌いな奴だ。きっと明日も全部見届けてくれるだろう。
失敗なんて絶対しないし、させない。
集大成に相応しい舞台を作り上げてみせる。
だが、素晴らしいコンサートにすればするほど、目の前の少女との別れが近づくという予感があった。
――いや、近づく、などという曖昧な表現はやめよう。
明日、日向は消えてしまうかもしれない。
盛り上がる部員達を余所に、俺はまだしゃがみこんだままのオレンジの少女を見下ろしながら、それ以上に掛ける言葉も見つからず立ちすくんでいた。