第十話 移ろいゆく季節 Ⅳ
「芳川先生……」
十年ぶりの対面に、俺はやっぱり掛ける言葉が見つからず、絵理子と一緒に立ち尽くす。
「ぼうっとしていないで座りなさい。理事長先生と芳川先生も、どうぞ」
汐田に言われるがまま、それぞれ応接セットのソファに腰掛けた。
「――秋村君、狭川さん。この間は本当に素晴らしい演奏を聞かせてくれてありがとう」
「い、いえ……」
芳川の言葉にみっともなく俺達が狼狽えていると、何やら目つきの鋭くなった汐田が芳川の方を向いた。
「それは労いの言葉でしょうか。この子達は、その素晴らしい演奏を披露したにもかかわらずなんの表彰もされなかった訳ですが」
瞬時に室内の空気が凍る。
俺は信じられないものを見る目で汐田を凝視してしまった。
「汐田先生」
「……失礼しました」
柔らかくも迫力のある渋川のテノールボイスが汐田を諫める。
「いえ、汐田先生が仰る通りです。皆さん、この度は誠に申し訳ありませんでした」
額がテーブルについてしまうくらい深々と頭を下げたかつての恩師の姿を見て、俺は何を感じれば良いのかわからなかった。
「……取り返しのつかない事をしたと実感したのは、愚かにもあの演奏直後のことでした。賞とか、代表とか、そういう問題だけじゃない。ただ純粋に磨き抜かれた音楽を披露した翡翠館高校の演奏は、あの日の出演団体で唯一、観客の心に届きました」
「そんな、大袈裟な……」
つい声を上げると、芳川が右手を差し出して俺を制止する。
「実際、コンクールの後は連盟にも苦情のような意見書がいくつか届いたんです。それに審査員の方からも、どうしてあの最後の学校は失格なのかと問い詰められました。君達の演奏はそれだけ客席を魅了したんです」
レジェンドである芳川に言われると、妙に説得力があった。
「……だからこそ、そんな君達を失格にした連盟の責任は果てしなく重い」
昔よりもずいぶん小さく見える恩師の姿に、俺はなんとも言えぬ心境に陥る。
「もう終わったことです。俺を指揮者にしたのは部員達の総意なんです。コンクール後に文句を言う者もいませんでした」
俺が芳川を擁護するのはおかしいかもしれないが、正直今さら謝罪をされたところで結果が変わる訳でもない。それに、そもそも事の発端は芳川ではないし。
「あの、智枝は一緒じゃないんですか?」
聞きづらいが気になったので質問すると、芳川は沈鬱な表情を浮かべた。
「それについても本当に申し訳無い。彼女は県大会以来、塞ぎ込んでしまって……」
「ずいぶん過保護なんですね」
つい、本音がそのまま出てしまった。
「許してくれ。まだあの子も十年前のことを引きずったままなんだ……」
絞り出すように芳川が言うと、室内には重苦しい空気が立ちこめた。
「――彼が言った通りです。いくら謝罪を受けても、失格になった事実は変わりません」
汐田が冷たく言い放つ。
「わかっています。こうして私が無理矢理押し掛けたのも、自己満足と言われても仕方の無いことだと理解しています。ただ、何もせずにはいられなかったんです」
かつて翡翠館高校にいた芳川だからこそ、渋川と汐田は面談を受け入れたのだろう。形式じみた謝罪だと切って捨てることは簡単だが、あまりにも罪悪感に苛まれていそうな芳川を見ていると、なかなかそういう気持ちにもならない。
「秋村君。もしも君が今後もこの学校の指揮者として大会に出場するなら、もう失格になんてさせない。だから、これからもあの素晴らしいサウンドを聞かせて欲しい。この通りだ」
もう一度芳川が頭を下げた。
「……そのくらいで良いでしょう。あなたを知っているこちらとしても忍びない」
渋川が穏やかに声を掛ける。
「秋村君、狭川先生。何か言いたいことはあるかね?」
「い、いえ……」
絵理子がすぐに答える。
「一つだけでよろしいでしょうか」
俺はどうしても腑に落ちないことだけ言っておくことにした。
「もしも謝罪をするなら、俺達ではなく部員達にしてもらえないでしょうか」
素晴らしい演奏をしたのも、今回の件の一番の被害者も、奏者なのだ。大人だけで終わらせる話だとは思えない。
「もちろんだ。この後練習だろう? もし皆を集めてくれるなら、誠心誠意気持ちを伝えさせてもらうよ」
芳川は俺の言葉を否定せず、快諾してくれた。
時刻は間もなく五時になろうとしている。もうそんな時間か。
「それなら早速音楽室に向かったらどうだ?」
渋川の提案に、俺と芳川が頷く。絵理子はすぐにスマホを取り出し、部員へ連絡を入れる。
「先生方、わざわざ会っていただきありがとうございました」
「何を水臭いこと言ってるんだ。いつでも遊びに来てくれよ」
ソファから立ち上がった芳川の言葉を聞いて渋川が眉を顰める。
「あの、校長先生。ありがとうございます」
俺はたどたどしく汐田に感謝を伝えた。
「……いいから行きなさい。またろくでもない集団になったら容赦しませんからね」
「は、はい。あはは……」
先ほど脱走を企てたばかりの淑乃のことは記憶から抹消して愛想笑いを返す。そんなことよりも、彼がまるで吹奏楽部を庇うようなことを率先して言ってくれたのが、俺は嬉しかった。
校長室を出た俺と絵理子は、改めて芳川と相対した。
「秋村君、十年前は何もしてやれなくて悪かった。狭川さんも、赴任するタイミングで私が転勤になるなんて思わなかっただろう。困惑させてしまったね」
この居心地の悪さはなんだろう。蒸発した父親とうっかり再会したような……。いや、それだと芳川が完全に悪者になってしまうか。少なくとも俺は勝手に逃げ出しただけなので、謝られる筋合いなど無い。
「まさか『ワルプルギス』をやるとは思わなかったが……。なんだか私まで、十年間心のどこかで抱えていた鬱屈とした気持ちを晴らしてもらえた気分だよ。それだけ立派な演奏だった。ともすれば、十年前の『断頭台』よりもな」
俺にはもったいない言葉であった。絵理子も恐縮した様子だ。
「もちろん、定期演奏会でもまた演奏するだろう? 予定が合えば私も行こうと思うんだが、いいかな?」
「ええ、それはもちろ――」
反射的に答えたが、すぐに重大な事実に思い至ったためセリフがぶつ切れになる。
「あ、あの」
「ん?」
俺は絵理子と顔を見合わせた。物凄く気まずい。
「定期演奏会なんですが……」
芳川は怪訝な顔をしている。
「うちの部活もここ一年本当にいろいろなことがありまして……。実は、まだ定期演奏会のスケジュールや会場が決まっていないんです」
正直に打ち明けると、芳川は大きく目を見開いた。
「それは一大事じゃないか! どうしてすぐに相談してくれなかったんだ」
「え?」
「連盟からも文化会館の事務局に掛け合ってみるよ」
「いや、それは申し訳無いというか……」
「何を言っているんだ! 定期演奏会が開催できないなんて、絶対にダメだ! 集大成なんだから!」
突然声を荒げた芳川に呆然としていると、隣で絵理子が頭を下げた。
「申し訳ありません。私が至らなかったんです」
「狭川さん……」
「ご協力いただけるとありがたいです。お願いします」
「……もちろんだ。この数年、君にも大変な苦労を掛けた。それに比べればこれくらいたいしたことではないよ。任せてくれ」
そう言って芳川は力強く頷く。
俺達はそのまま講堂へと向かった。
その後芳川の謝罪を聞いた部員達は、どうリアクションすれば良いかわからないといった感じで戸惑っていたが、あの日間違いなく翡翠館高校の演奏が聴衆を魅了していたことを改めて知ると嬉しそうな表情を浮かべた。
そのタイミングで、絵理子は定期演奏会のことを暴露した。完全に自爆テロみたいなヤケクソ具合であったが、連盟の協力が得られるとわかった直後でもあり気が大きくなっていたのかもしれない。
翌日、芳川の協力もあり例年通り十月の第二土曜日にホールの予約が取れた。
まだ暗中模索の状態ではあるが、吹奏楽部はいよいよ最後の舞台に向かって再び走り出す。
――だがそれは、別れへのカウントダウンが始まったことも意味していた。