第十話 移ろいゆく季節 Ⅲ
久しぶりに訪れる校長室には、汐田以外にまだ誰もいなかった。大きな肘掛け椅子に座りながら優雅にコーヒーを飲む汐田は、春の頃より幾分接しやすそうな空気を纒っているように感じる。
「おや。あなた方が最初に来るとは」
意外そうな口調だが、嫌味には聞こえない。
ちょうど良かった。汐田とは、面と向かって話す機会を窺っていたのだ。
「校長先生。先日はコンクールの応援に来てくれてありがとうございました」
感謝を伝えたが、反応は無い。
「それから合宿の際の美月さんのこと……。本当に申し訳ありませんでした」
改めて頭を下げると、頭上をため息が通過していく。
「……頭を上げなさい」
素直に従うと、窓の外に顔を向ける汐田がもう一度深く息を吐いた。
「美月は、昔はやんちゃな娘でした。はしゃぎ過ぎるとすぐに発作を起こすというのに、こちらの心配はつゆ知らず遊び回るような……」
以前に萌波から聞いた話だと友達が少ないとのことだったが、幼少期はそうでもなかったのだろう。
「自分の子どもの教育もできない人間に教師など務まるか、と私も意地を張っていましてね。気がつけば、皮肉にも娘との接し方が一番わからなくなっていました」
汐田は淡々と語りながら苦笑した。
そして、椅子をこちらへ回転させる。
「狭川先生にも言いましたが、大事に至らなかったのであれば謝罪不要です。家まで送り届けてくれたのでしょう? 適切な対応でしたよ」
「……ありがとうございます」
「そもそも、あなた達を信頼していなければ、私が出張で不在の間に娘を預けることなどしません」
「……えっ」
彼の口から初めてそんな言葉を聞いた。
「新入部員勧誘期間の最終日のことを覚えていますか」
「はい」
「……まさか、あの子が飛び込んで来るなんて思いませんでしたよ。しかも同級生を説得した、と」
忘れるはずも無い。吹奏楽部が存続したのは、美月のファインプレーのおかげだ。
「あんなことをする娘は今まで見たことがありませんでした。それに、部長やあなたが言った『エメラルド』という言葉……。ずっと気になっていたんです。私がこの学校に赴任したのは、全盛期を過ぎてからですから」
「そうだったんですか」
「初めてその言葉を聞いたのは、木梨楓花の面接を担当した時です」
「えっ」
その名前が出てくるとは思わなかったが、よく考えれば彼女はこの学校への採用が決まっていたらしいので不思議な話ではない。
「もう一度吹奏楽部を蘇らせたいと。『エメラルドのサウンド』を取り戻したいのだと目を輝かせていました。赴任前に、あんなことになってしまいましたが……。それでも、姉の意志を継ぐように現れた木梨日向も立派な働きをしていましたよ」
ちらりと腕時計を確認した汐田は、ゆっくりとコーヒーを啜る。
「ただ、良くも悪くも吹奏楽部は『あの姉妹の部活』でしたね。日向さんがいなくなってからは、首領を失った敗残兵の集団みたいでしたから。まともな音楽などできるはずがない。そんなところに娘を置いておくのも考え物だったんですが、しばらくするとあの子は自分から離脱したようでした」
生徒の活躍を期待しない校長など、どこにもいないだろう。ただ、良い方向に進む未来がイメージできなければ期待していた気持ちも萎える。校長に限った話ではない。誰だって、応援したいと思うかどうかはその対象次第である。汐田の表現が誇大かどうかは別として、俺が初めて会った時の吹奏楽部のろくでもなさについては触れるまでもない。
「――まさか、あなたがあの姉妹の代わりになるとは思いませんでした」
「そんな。あいつらは唯一無二というか、とても俺のような人間とは比べられませんよ」
「珍しく評価しているんだから素直に聞くものですよ」
「うっ」
俺が返答に窮すると、扉をノックする音が響いた。
「どうぞ」
汐田の声に続き、二人の男性が入室する。
一人は理事長の渋川だ。今日も人畜無害な微笑みを浮かべている。先日入院したとは思えないほど元気そうなのは何よりだ。
そして。
「失礼します――おお、久しぶりだな、二人とも」
低めの身長と痩せた体型。昔に比べて白髪の量が増えただろうか。白い半袖シャツとグレーのスラックスという出で立ちは、同じような格好をした渋川と並んで近所のおじさんのような雰囲気を醸し出している。
かつて黄金期を作ったとは思えない優しそうな眼差しが、俺と絵理子を見据えていた。