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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第四章 夜明け ―― brillante
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第九話   ワルプルギスの夜の夢 Ⅲ

 リハーサル室に到着すると、ちょうどチューニングを行うところだった。

 生徒指揮者の淑乃の指示で、低音パートから基準音が重なっていく。

「フォルテシモで!」

 淑乃が叫ぶと、リハーサル室全体がビリビリ震えた。だが、決して耳障りではない。

 気持ち良いくらい音程がぴったり揃ったロングトーンのおかげで、俺も集中力が高まる。

 右手を挙げると音がやんだ。

「すいません、あと何分ですか」

「あ。さ、三分ほどです!」

 虚を衝かれた案内係が慌てて答える。

「ありがとう」

 俺はみんなに向き直って、一度全体を見回した。

 春に見た、虚ろで闇の深そうな目をした者はもういない。全員が早くステージに上がりたいとでも言うようにキラキラしていた。

「この間のゲリラライブ。本当にありがとう。感動したよ。あんな素敵なサプライズができるバンドなら、コンクールの十二分間くらい余裕だと思う」

 残り、二分。

「だけど、今日はそのたった十二分間に、これまでの全てを注いでくれ。多少ミスしても、荒くなってもいい。どうせ賞はつかないんだ。結果なんて気にせず、ただ自分の持つ最高の音を表現すること。イメージするのは、お前らがずっと追いかけてきた『エメラルド』の音色。そして、最高の『ワルプルギスの夜の夢(パーティー)』だ!」

「はい!」

 景気の良い返事が室内に響く。

 残り、一分。

「これで本当に最後だ。演奏する前も、演奏中も、トラブルには充分気をつけること。この部屋を出た後は、集中を切らさないように」

「はい!」

「……そして、本番直前にも関わらずこんな注意をしなければいけない、曰くつきで臆病な俺に――」

 残り十五秒。

「こんな最高のバンドの指揮を託してくれて、本当にありがとう」

 ――三、二、一。

「……時間です」

 もう、言葉はいらない。

 必要なのは、聴衆を魅了する音楽のみとなった。

 ――独特の雰囲気を醸し出す舞台袖。俺は指揮棒を取り出したケースを絵理子に預けた。

 前の団体の演奏が終わり、部員達がステージに向かう。

 ほんの一、二分で準備が終わり、俺も指揮台へと足を運ぶ。観客の前に姿を現すと、何かを察したように息を呑む気配を感じる。

『プログラム十五番。私立翡翠館高校吹奏楽部。課題曲二に続きまして、自由曲、ベルリオーズ作曲「幻想交響曲」より第五楽章「ワルプルギスの夜の夢」。指揮は、秋村恭洋です』

 流暢なアナウンスに続き一礼すると、一階席の後ろの方で祈るように手を組むオレンジ色の少女が目に入った。

 目立ち過ぎだろ。

 笑みを浮かべながら奏者に向き直る。

 スポットライトの眩しさや熱さにももう慣れた。

 指揮棒を上げた瞬間、皆が一斉に楽器を構えた。

 統率の取れたブレスから、軽快なマーチが始まる。徹底的に磨いてきたテンポ感と音程。どこまでも楽譜に忠実な強弱表現とアーティキュレーション。

 京祐が指導した低音パートも、絵理子が面倒を見たパーカッションパートも、完璧だった。

 僅か三分程度の演奏があっという間に終わると、場内は異様な雰囲気に包まれているような気がした。

 だが、俺達にとってその空気はむしろ好ましい。

 幕を開けるのは、魔界の舞踏会だ。

 ――俺が再び指揮棒を動かすと、弱奏の不協和音に続いて地を這うような低音楽器の連符が(うごめ)く。冒頭の十小節足らずで、場内の聴衆は悪夢の中に引きずり込まれただろう。

 トリルと装飾音符によりグロテスクに変貌した「憧れの人」のテーマを高々と歌い上げるクラリネットの璃奈。彼女の音の艶は、春先よりもさらに洗練されている。

 パーティーの前の昂揚感を表すように段々盛り上がりを見せる全体合奏は「魔女の輪舞曲(ロンド)」の気配だけを残して一気に静まる。

 不気味なチャイムの響きに(いざな)われて始まるのは、チューバ二本による『怒りの日』だ。京祐も太鼓判を押すどっしりとした旋律の演奏が、悪夢に迷い込んだ聴衆の不安を煽り続けた。

 金管楽器と木管楽器の掛け合いが繰り返され、一瞬の沈黙の後にテンポが急激に上がる。

 リズミカルな八分の六拍子。クレッシェンドの頂点で、パーティーの開演を告げる八分音符の連打が響き渡り、とうとう魔女達のダンスが始まる。

 各音域に散りばめられた主旋律と対旋律が交錯し、絢爛な舞踏会が繰り広げられるものの、徐々に雲行きは怪しくなり――。

 バスクラリネットのソロが短調に変化したロンドの主旋律を不気味に奏でる。ここが魔界なのだと改めて思い知らせる仄暗い雰囲気は、やがて全ての楽器を巻き込んだ強奏へと発展していく。

 そして再び長調に戻ったロンドと、場を支配するように覆い被さる『怒りの日』のテーマ。

 いよいよクライマックスが訪れる。

 ここまで練習通りだ。

 練習通りに、非の打ち所が無い。あとは、この宴を最後まで聴衆に見せつけるだけである。

 全てのテーマが混在し強弱も目まぐるしく移り変わるのに、正確無比な八分の六拍子の上でロンドが続く。

 混沌と秩序が同居する、麻薬のような音楽。

 この狂気や興奮、恐怖も。

 愉悦や憧憬、そして感動も。

 全部を客席まで届けるんだ。

 俺の命を削ってもいいから。

 どうか最後まで、この「エメラルド」の音色を――。

 木管楽器が淡々と八分音符を刻み、演奏は残り四十小節を切った。

 フィナーレに向かう奏者達は、狂乱の最中でも最後まで冷静さを失っていなかった。

 全員が四つの付点八分音符で助走をつけると、場内にはフォルテシモの嵐が吹き荒れる。

 一糸乱れぬ八分音符の連続の到達点には、鮮やかに煌めくハ長調のハーモニーが待ち受けていた。

 高らかに響いたその音は、確実に会場の二階席の奥まで貫いた。

 長めのフェルマータを俺が切った瞬間、ホールいっぱいに余韻が響く。

 ……ほんの僅かの静寂。時間が止まったような舞台と客席。

 退場するまでが「パフォーマンス」である。

 物音一つ立たない中、俺は一同を起立させた。

 その刹那――。

「ブラボー!!」

 聞き覚えのある大声が響き渡ると、パラパラと拍手が沸き始める。

 そしてほんの二、三秒で場内は喝采に包まれた。

 振り返り深々と一礼する。顔を上げると、叫び声を上げたばかりの日向が両手を挙げて拍手していた。

 ――果たして本当に悪夢が終わったかどうかなど、俺にわかるはずもない。

 だが、こんな素敵な景色が登場する悪夢なら、それでもいい気がした。

 ゲリラ豪雨のような拍手に見舞われた翡翠館高校吹奏楽部。

 その灼熱の夏は、こうして終わりを告げたのだった。

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