第九話 ワルプルギスの夜の夢 Ⅱ
日向が姿を消していたこの二日間も、もちろん練習に明け暮れた。
充分に仕上がったと自信を持って言える。
本番では練習以上のことなどできない、という教訓のような言葉は昔からある。それが日々の練習の大切さを強調する言葉なのだとしたら、このバンドには不要だ。自制を求めるくらいに練習しまくってるんだから、そんな説教じみたことを言っても興醒めである。
「よし。今の演奏をそのままステージの上でやればいい。俺から言えるのはもうそれだけだ」
最後の通し演奏を終え、俺は皆にそう声を掛けた。
何百回も繰り返したフレーズ。
皆でチューナーを睨みながら調整したハーモニー。
体の芯まで刻み込まれたリズム。
指示も含めて完璧に暗記した楽譜。
その全ては、今日の十二分間のためにあった。本番当日の舞い上がったテンションが錯覚させるのではなく、これまで積み上げた日々が自信を裏付けてくれる。
「みんな、トラックが来たわよ」
良い頃合いで登場した絵理子が落ち着いた様子で連絡した。部員達は手早く、かつ慎重に楽器を積み込んでいく。
「いよいよだな」
「ええ」
「そういえば、結局指揮者は最初から俺のままなんだよな?」
「そうね」
「今日のパンフレットにも俺の名前が載ってるってことか?」
「ああ。はいこれ」
絵理子はどこからともなく薄い冊子を取り出してこちらへ手渡した。
彼女は既に一度会場入りしている。裏方の仕事があるのだろう。その際にもらったと思しきパンフレットには、プログラムの最後に我が校が記載されている。
「あれ?」
指揮者のところは空欄になっていた。
「なんだこれ」
「さあ? 連盟は私が変更の連絡をしてくると思ったんじゃない? 結局そんな連絡は無くて、パンフレットも間に合わなかったんでしょう」
まるで他人事みたいに言う絵理子。
つまり、今日会場に来た一般の聴衆や各学校の生徒は、いざアナウンスがかかるまで指揮者不明ということか。
「なんだか悪いことをしているみたいな気分だな」
「無職も悪でしょ」
「なんで今そんなこと言うんだよ!」
「この学校で悪行と言えば吹奏楽部だしね」
「救いが無さ過ぎる」
「別にいいんじゃない? 今回ばかりは私達に理があるでしょう。あなたの指揮はルール違反じゃないんだし」
彼女の言う通りである。理はあったけれど、力が無かったのだ。いつも力だけで全て解決しようと暴走していた吹奏楽部のことを思うと、まるで逆なので皮肉としか言いようが無い。
俺達が会話をしているうちに、皆の準備が終わった。着替えも完了している。もういつでも出発できるようだ。
下級生の中にはコンクール衣装と一緒に緊張感まで身に纏っている部員も見受けられるが、三年生があまりにもリラックスしているので集団としての固さはあまり感じない。
「なんでそんなに落ち着き払ってるんだ?」
たまたま近くにいたパーカッションの紅葉に声を掛けると、彼女は達観した目でこちらを見返した。
「んー。私って補習を受けるくらいバカじゃないですか?」
いきなりなんの話だ。
「そんな私が言うのもおかしいんですが……。なんていうか、完璧にテスト勉強して迎える試験の開始前みたいな感じなんですよね。もちろん緊張はしていますけど、それ以上に楽しみなんです。今までの努力が報われるかもしれないと思うと」
そう言って笑う紅葉の横顔は、高校生とは思えないほど大人びて見えた。
今日の演奏は表彰されないので、そういう意味では全く報われる結果にならない。だからこそ、失格という言葉の重みは常に俺の胸にのしかかっている。
だが、紅葉はそんなことを言っているのではない。ただひたすらに「エメラルド」の音色を届けようと、その一点のみ見つめているのだ。他の三年生もそうだろう。
俺と絵理子は顔を見合わせて、つい笑ってしまった。そこまで神格化されているかつての部員が、今では無職と不良教師なんだから。
「あれ。いつもめちゃくちゃ不協和音なのに珍しいですね?」
紅葉の言葉で我に返る。
「まあ、腐っても同級生だからな」
「調子に乗らないで」
「……本当に可愛くない奴だ」
「は? また刃物を向けられたいの?」
「お前それ合法だと思ってんのか?」
「あなたは法の適用範囲外だから」
「俺の人権をなんだと思ってんだよ!」
「無用の長物」
「あ? 役立たずってことか? てめえマジでいい加減に――」
「ふふっ! はははっ」
俺達のしょうもない論戦(泥試合)に、紅葉が噴き出した。
……またやってしまった。頭に血が上ると周りが見えなくなるのはお互いに相変わらずだ。
「あの。あなた達って本当に大人なんですか?」
「そうだよ!」
「そうよ!」
見かねた玲香の機械的な質問にも、まるで余裕の無い返事をする自称大人達。
「やっぱり私達がしっかりしていないとね」
「そうですね! 普段は本当にダメダメですね!」
淑乃の言葉に美月が便乗する。
先ほどまで緊張感を漂わせていた下級生達も、美月の容赦無い一言を聞いて笑みを零している。
結果的に雰囲気がやわらいだから良かったのだと、無理矢理ポジティブに捉えることにした。
名残惜しいが、そろそろ会場に向かう時間だ。
「みんな、笑って帰ろうな」
最後にそれだけ言うと、部員達の元気な返事が講堂いっぱいに響いたのだった。
♭
もはやこの文化会館もホームグラウンドのように感じられる。もちろんその方が良いに決まっているし、安心感が全然違う。
楽器を組み立てるロビー。全員が入ると僅かに窮屈なリハーサル室。そして肝心の舞台。そのどれもが俺達の平常心を維持させてくれるだろう。
――徐々に本番の時間が近づいてきた。
ロビーで待機する吹奏楽部に、応援の声が届く。
「みんな、冷静さも忘れずにな」
首を固められて動きづらそうにしつつも、いつものように温厚な声で語り掛けた京祐。
「まさかここまで成長するなんて……。しかもそれを指揮するのがあの秋村君とは……」
早くも感極まっている理事長の渋川。体調はもう問題無いようだ。
「……頑張りなさい」
「う、うん」
いつになっても不器用な汐田校長と、戸惑いながらもどこか嬉しそうな美月。
瑠璃からも「見てますよ」という監視員みたいなメッセージが届く。たぶん応援してくれているのだと思いたい。
「……みんなを、頼んだ」
日向は小さいながら力のこもった声で全てを託し、俺の手を握った。
「ああ。任せろ」
その信頼に答えるように、俺も日向の手を握り返した。
「――翡翠館高校の皆さん、リハーサル室へご案内します」
そうこうするうちに案内係がやって来たので、ギャラリーはぞろぞろとホールへ戻った。
「絵理子はみんなと一緒に行ってくれ。俺もすぐ向かうから」
「……はいはい」
舞台袖まで同行する絵理子に部員を委ね、俺はぽつんとロビーに佇む。
「――ずいぶん余裕みたいですね」
俺の背後から、アルトパートに入れておけば間違い無さそうな声が響いた。
合同演奏会と同じシチュエーションが再現されるのではという予感はあったが、まさか本当に現れるとは……。
俺に声を掛けたのは、躑躅学園の顧問であり、俺の後輩でもある智枝だ。
「ああ。今日はだいぶ穏やかな気持ちだよ」
「はあ? このままだと失格になるんですよ? あなたのせいで」
「いやいや。失格になるのはお前のせいだろ」
俺もやられてばかりではいられない。
「自分の出番も終わって、呑気に冷やかしか? お前こそ余裕たっぷりだな」
「……開き直りですか?」
明らかに苛ついた様子で智枝が尋ねてくる。
「何をしに来たか知らんが、もう俺は失敗しないぞ? ……さて、部員達が待ってるからもう行くわ。じゃあな」
「ちょっと!」
もともと学校で練習しているので、音出しは充分だろう。のんびり話をしている場合ではなくなってきた。
「あなたがいる限り『悪夢』は終わらない! それでも指揮台に乗るって言うの!?」
背中に飛んできた言葉の弾丸は、俺の心まで届かない。
「すごく自分勝手なことを言うけど……。もう既に『悪夢』なんて終わってると思うんだ」
俺はそれだけ答え、小走りでリハーサル室へ向かう。
智枝は呆然としたまま立ち尽くしていた。