第八話 ノクターンは追憶の調べ Ⅱ
「どうして恭洋が瑠璃さんを知ってるのよ」
「それはこっちのセリフだ!」
「まあまあ。いきなり大人気ですねえ」
絵理子が「瑠璃さん」と呼んだその女性は、間違い無くかつての俺の家政婦さんその人であった。渦中にいるにも関わらず、本人は優雅にグラスを傾けている。
「そりゃ私は知ってるわよ。楓花のお母さんなんだから」
「……は?」
何を寝ぼけたことを言っているんだ。
「そんな訳無いだろ。俺の家に住み込みで働いてたんだぞ」
よりにもよって楓花の名前が出るとは思わなかった。しかも母親なんてあり得ないだろう。
「絵理子ちゃん、ずいぶんキツい感じになりましたねえ。尖ったナイフみたい」
俺達の会話をまるで無視して家政婦さんが呟いた。絵理子の印象について異論は無いが、この人も気軽に「絵理子ちゃん」などと言い出すので混乱する。
「恭洋さんは相変わらずバリアを張ってるし」
そりゃ、現れるなんて思わなかったスパルタ教育マシーンが沸いて出たのだから、警戒するに決まっている。
「……あの、瑠璃さん?」
「はい?」
「本当に恭洋の世話をしていたんですか?」
「ええ、本当ですよ。もっとも、この人が中学三年生の時に、追い出されてしまったんですけどね」
再会の衝撃で感覚が鈍くなっていたが、今さらながら気まずさが込み上げてきた。
彼女が言った通りだ。中学最後の一年で、家政婦さんに小さな不幸が立て続いたのである。最後は自宅で電球を取り替えていた時に脚立ごと転倒して怪我を負ってしまった。翡翠館を受験することが決まっていた俺は、そのまま彼女に暇を告げたのだ。
「まあまあ。そんな綺麗な話じゃないでしょう。『俺と一緒にいると死んじゃう』って泣き喚いて、無理矢理家の外へ追い出したくせに」
皆まで言わなくてもいいだろ。
「そう、だったんですか……」
絵理子は複雑な顔をしている。
……ん?
ということはつまり……。
「楓花の母親!?」
「だからそう言ってるじゃありませんか。頭がからっぽなのも変わりませんねえ」
からっぽというか、真っ白になった。
「たしかに言われてみれば、瑠璃さんと顔見知りになったのって、高校に上がってからだわ……」
神妙な面持ちで絵理子が言った。
家政婦さん――瑠璃はにこにこと掴みどころの無い笑みを浮かべている。
そこで俺は重大な事実に気づいた。
転がるようにカウンターからボックス席へと向かう。
「おい、日向、起きろ!」
ぐっすり眠っているオレンジ色の少女を揺さぶると、むにゃむにゃと寝ぼけた声が返ってきた。
「……日向?」
瑠璃の表情が強張る。
「起きろってば! 母さんが来たぞ!」
「……うぇ」
奇妙な呻き声を上げながら、むくりと日向が起き上がる。
「何? もう今日は疲れたんだけど」
目を擦りながら彼女は苦言を吐いた。だが俺からしたらそんなことを気にする余裕も無い。
日向が見えない者からしたら、俺の行動は完全に危ない人間にしか思えないだろうが、瑠璃は怪訝な顔をしたままじっとこちらを見つめている。マスターも空気を読んでカウンター越しの景色と一体化していた。
「家政婦さん、こっちへ来て」
つい昔の呼び名のまま瑠璃を手招きすると、彼女は大人しく近寄ってきた。絵理子は俺達のことを遠い目をしながら眺めている。
「どうして恭洋さんが、あの子のことを?」
――不思議そうに俺を見た瑠璃の様子に、俺は泣き出しそうになった。
彼女にも、見えないのか。
「あ。お母さんだー」
まだ半分寝ぼけている日向が間抜けな声を出す。
「家政婦さ――いや、瑠璃さん。今ここに日向がいるんだよ」
真剣な顔で彼女に話し掛けたのに、「あらあら」と受け流される。
「恭洋さん。どこに日向がいるんですか?」
「だから、ここに――」
苛つきさえ覚えながらボックス席へ振り返る、と。
日向の姿が消えていた。
「え? おい。どこ行ったんだよ」
これが芝居なら、相当の名演だろうという自負があった。
本当に芝居ならいいのに。
こんなタイミングで日向が電池切れになってしまうなんて……。
「いろいろと、積もる話もあるようですねえ」
情緒不安定な俺を前に、瑠璃は全く取り乱すことが無かった。優しく俺の肩に手を置いた彼女は、何かを察したように「戻りましょう」と静かに言った。
「マスター、おかわり!」
着席した途端、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように瑠璃が大きな声を上げる。
ほんの僅かな時間で、コースターの上にグラスが置かれた。
「今日は貸し切りでもいいですか?」
悪戯っぽく微笑みながら瑠璃が尋ねる。マスターは困ったような顔をしたものの「どうぞ」と短く返事をした。
「恭洋さん、絵理子ちゃん。店主の許可は貰えましたよ。お話を聞かせてもらえませんか?」
俺も瑠璃に聞きたいことは山ほどあった。だが、何よりも優先して日向のことを伝えるべきだろう。絵理子もそれには賛成だったらしく、黙って頷いた。
――俺はここ数ヶ月のことをかいつまんで語った。
「そうですか……。楓花と日向が、吹奏楽部の命運を恭洋さんに託したんですね……」
事の経緯を語る上では十年前の件にも触れる必要があったが、瑠璃はずっと黙って話を聞いてくれた。
「……恨まないの?」
「恨む? 誰を?」
「俺に決まってるだろ。あんたの娘二人は、俺の呪いのせいで大変な目に遭っているかもしれないんだぞ。小さい頃から俺を見ているあんたなら、よくわかるだろ……」
どうしてこんなに穏やかなのか不思議なくらい落ち着き払った瑠璃は、昔のように「ふふふ」と笑う。
「日向は、元気ですか」
その問いは、俺の心に深く突き刺さった。
「ああ、責めている訳ではありません。今こうしてあの子と触れ合ってくれる人がいる……それって、親としては凄く嬉しいことですから。あなた達に見えているなら、私だってそのうち見えるかもしれませんしね」
そう言われても気まずさが晴れない俺は、氷が溶けきってほとんど味の残っていないレモンスカッシュを飲み込んだ。
「……日向は、本当に太陽みたいな子だよ。あの子がいなければ、俺は吹奏楽部に関わることも、絵理子と再会することもなかった。俺みたいなネガティブ野郎を焚きつけてくれたあいつには、感謝しかない」
素直な気持ちを吐露すると、瑠璃は「そうですか」とだけ呟いた。