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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第四章 夜明け ―― brillante
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第七話   いちばん大切なこと Ⅱ

 最後の楽曲は『ディスコ・キッド』だった。この演奏を聞いて入部や復帰を決めてくれた下級生も、ずいぶん立派になった。俺無しでも充分に纏まった演奏だった。

 つまり、そういうことなのだろう。俺がいなくても、もう大丈夫だと。心配しなくても良いと。

 拍手も、涙も止まらなかった。

 追放するのではなく、送り出してくれるというのだ。奏者達が一番困惑しているだろうに。コンクール前で、ただでさえ時間が無いというのに。

 どうして、迷惑ばかり掛けた俺にここまでしてくれるんだ。

「――秋村さん」

 気がつくと、目の前には玲香がいた。

 部員達が皆立ち上がってこちらを見ている。俺も反射的に起立した。

「私達は、非常に怒っています」

「……え」

「県大会の指揮者の件。どうして黙っていたんですか。黒星さんのこともそうです」

「……」

「そんなに私達が信用できませんか?」

「ち、違う!」

「はっきり言って、失望しました」

 ……まあ、そうだよな。

「だから今日、このコンサートを聞いてもらうことにしたんです」

「ん?」

 だから、というのはどういうことだ?

 要領を得ない俺に、玲香は大きくため息を吐いた。後ろの部員も、やれやれと肩を竦めている。

「最初に『俺を信じろ』と言ったのは、あなたですよ?」

「そ、それは……」

「怪しい素性に、物騒な異名。いきなり目の前に現れて私達のことを酷評した人が、そう言ったんです」

「ろくでもないな、そいつ」

 ぼそっと呟くと、「あんたのことでしょうが!」と淑乃から野次が飛ぶ。周囲からはクスクスと笑う声も聞こえてきた。

「そして、秋村さん。あなたが私達に教えてくれたんです。あの『エメラルド・サウンズ』のことを」

「……ああ。そうだったな」

 今日の演奏会の冒頭で萌波が言った「全員が思い出す」という言葉。それこそが、俺達の目指す「エメラルド」のことだったのだ。

「奏者と聴衆が調和すること、そして聞く者全てに幸福感と希望を与える音楽を届けること。秋村さんがそれを忘れて、どうするんですか」

 申し開きのしようも無い。

「仕方無いですね……。じゃあ、私達が決めたことを言いますね?」

 項垂れる俺に向かって、玲香が冷たく言い放った。何が「じゃあ」なのか知らないが、ついに審判が下されるようだ。先ほど日向が言った通り、俺にはもう受け止めることしかできない。

「県大会の本番は、あなたに指揮を振ってもらいます」

 ――は?

「ああ、絵理子のことか」

「何をバカなこと言ってるんですか。秋村さんですよ」

「いやいやいや」

 俺も混乱して頭が()ぜそうだが、絵理子と日向は固まったまま動かない。

「バカなのはどっちだよ。俺が振ったら失格になるんだってば」

「別にいいです」

 その返答があまりにも素っ気無かったので、俺も固まった。

「失格を承知で、それでもあなたに指揮を任せることに決めました」

 追い討ちを掛ける玲香の言葉に、いよいよ俺は発狂する。

「良くねえだろ! せっかくここまできたんだぞ! 支部大会だって夢じゃないんだ! 今のお前らなら絵理子の指揮でも充分やれるよ!」

 俺が叫ぶと、玲香はもう一度深々と息を吐く。

「大変言いづらいのですが」

 ちらりと絵理子の方を見てから、玲香が言葉を続ける。

「絵理子先生に自由曲を指揮するのは、難しいんじゃないかと」

「そうね!」

「なんでてめえは自信満々なんだよ……」

 即答した絵理子に舌打ちすると、そんなダメ大人を無視して「それに」と玲香が呟いた。

「私達は、秋村さんがいなければコンクールにも出られませんでした。それどころか廃部になっていたかもしれません。『幻想交響曲』は、あなたが決めた曲でしょう。秋村さんが出演するのは当然です。幸い、演奏そのものができないという訳ではないみたいですから。最初から失格になると承知の上なら、あなたが勝手に指揮を振れば良い話です」

 そんな、ステージをジャックするみたいなことを簡単に言わないで欲しい。もともとそういう危険思想の集団ではあるけれど、こんな大事な時に本領を発揮しないでくれ。

 頭を抱えていると、指揮台の横に立っていた淑乃が近づいてきた。

「あんたが私達に言ったのは、それだけじゃない」

 彼女はそう呟くと、一瞬だけ奏者の方を向いた。その視線の先にいたのは、おそらく董弥だろう。

「ステージには全員で上がるんだって。全員じゃなきゃ、ダメなんだって。どうしてそこにあんたが含まれてないのよ。呆れて物も言えないんだけど」

 頼むから不機嫌な口調でぐっと来ることを言わないでくれ。感情がぐちゃぐちゃになるから。

「……一番最初に、日向が見ていると思って音楽しろって言われたことを思い出したんです。今の状況で、あの子だったらどんな行動を起こすのかなって」

 玲香の口から突然名前が出ると、張本人の日向は信じられないような目で彼女を見つめた。俺も同じだ。

「まあ、あの子ならもっとうまく立ち回るんでしょうけど……」

 謙遜する玲香に、日向はぶんぶんと首を横に振る。

「今日の演奏会が、奏者全員の総意です。受け止めてくれますか」

 もちろん全力で受け止めたい。たとえそれが身に余ることだとしても。

 だが俺と関わる限り、本番までに「何かが起こる」可能性はゼロではないのだ。その懸念だけが、どうしても俺の頭から消えてくれなかった。

「はあ。やっぱりこうなるのね」

 ――意外なところから声が上がる。

「絵理子?」

 しばらく様子を窺っていた彼女は、いつの間にか憑き物が取れたようなすっきりした表情をしている。いったいどういうことだ。不気味過ぎる。

「恭洋。私、あなたに一つ嘘を吐いていたの」

「は?」

 動悸がしてきた。

「あなたが非難されたのも、指揮者を下りるべきだと決まったのも事実。そして、あなたがそのまま本番に出れば失格になるということも本当の話よ」

 改めて聞いても理不尽極まりない。

「けれどね。『とりあえず指揮者は私に差し替えておいた』っていうのは、嘘」

 ぺろっと舌を出しながら絵理子はそう告白した。いつもなら絶対しないような仕草に動揺した俺は二の句が継げない。いったいこいつはどういうつもりなんだ。年齢と普段の行いを省みろと言いたい。お前は殺気を放ちながらタバコをふかす独身アラサー不良教師だろ――。

 ……そんなことを言っている場合じゃない。

「その嘘は、つまり何を意味するんだ?」

「わからないの? バカねえ」

「おい、お前がいつもやるみたいに刺し殺すぞ」

「そんなこといつもやってないでしょう!?」

「じゃあ早く言えよ!」

「だから、エントリーはあなたが指揮者のまま変わってないのよ!」

 いきなりとんでもないことを言い出しやがった。

「みんな、今日は本当にありがとう。みんなの気持ちを聞かせてくれて、本当に嬉しかった」

 おい、なんで纏めに入ろうとしてるんだ。

「本当にこいつが指揮を振ることを選ぶなら、何もしなくても、このまま本番を迎えればいいわ。どうする?」

「そうだったんですね……。それなら話が早くて助かりました。秋村さん、この期に及んでまだ決めかねているようでしたし」

「マジ無いわ」

 玲香と淑乃が勝手に話を進める。

「じゃあ、本番では思う存分見せつけてやりなさい。『ワルプルギスの夜の夢』を」

「はい!!」

 全員が元気良く返事した。初めて絵理子のことを顧問らしいと思ったが、絶対今じゃないだろ。

「じゃあ、午後から合奏練習ということで。とりあえず解散――」

「ああああああ!!」

 俺が発狂すると、何故か疎ましそうな視線が集中する。

「ああ、まだいたの」

「そりゃいるよ!!」

「どうしたの?」

「どうもこうもねえだろうが! なんで嘘なんかついていたんだよ!」

「この子達なら、きっとあなたを選ぶと思ったから。万が一私が指揮を振るなら、直前でも変更できると思ったから。私にあの自由曲が振れる訳無いから。はい、満足した?」

「ぎゃあああああああ」

「うるさいわね。あなたがワルプルギスの魔物をやらなくてもいいんだけど」

「それにしたって、こんな間際まで黙っているなんて……」

「あなたがなかなか言い出さなかったからでしょう?」

「……」

 国語教師の絵理子に論戦で勝とうというのが無謀だった。

「往生際が悪いですね……」

 玲香も光を失った瞳でこちらを睨む。

「もしお前らに何かがあったら、俺はもう立ち直れないんだよ……」

「はあ。まあ、大丈夫じゃないですか」

「軽過ぎるだろ!」

「秋村さんって、自意識過剰ですよね」

「なっ」

「たまたまトラブルが続いたくらいで全部自分のせいだと思うなんて。慈悲深いっていうか、お人好しというか、正直ウザいというか」

「おい段々ひどくなってるぞ」

「黒星さんがぶちギレるのもわかりますね。本当に」

「……」

「私がみんなの思っていることを代表して言ってあげましょうか?」

 玲香は一度大きく息を吸った。

 そして。

「クソみたいなオカルトに怯えて、職務まで放棄してんじゃねえぞ!!」

 ――それはかつて京祐が本気で俺を怒った時のセリフだった。

 玲香も、淑乃も。他の部員達も、笑っていた。

 そんな呪い、誰も信じていないとでも言うように。

「そうか……。俺はまだ、音楽を続けてもいいんだな……」

 握りしめた拳に、一滴だけ雫が落ちた。それ以上瞳から涙が零れないように、俺は天井を見上げる。

 一拍、二拍。

「……よし! それなら午後から徹底的に合奏するからな。覚悟しておけよ、お前ら」

「臨むところです」

 玲香は力強く頷いた。

 一部始終を見ていた日向も、ぼろぼろ涙を流しながら笑っている。

 ――こんな素敵な奏者に囲まれて、俺はなんと幸せな人間なのだろう。

 今日のステージは、俺の記憶の「絶対に忘れられないコンサートリスト」へ追加された。

 そのリストにこれからももっとステージを加えていきたいという欲も生まれてしまったけれど、それが普通のことなのだと受け入れることができた。

 次に加わるべきステージは、間違いなく県大会の本番だろう。

 たとえそれが、幻と消えるような舞台であるとしても。

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