第七話 いちばん大切なこと Ⅰ
もう本番は三日後に迫っていた。
「ちょっと、あんたがそんなに暗くしていたって仕方無いでしょ」
「そうよ。あの子達が可哀想じゃない」
第三職員室で俺に声を掛けたのは、日向と絵理子だ。
「ああそうだよ。せっかくここまでやってきたのに俺みたいなクズが全部ぶち壊すなんて、可哀想どころじゃねえだろ!」
俺はもう自暴自棄になるしかなかった。
いつもは俺を貶しながらでないと会話が成立しない両者も、気まずそうに黙りこくる。
そもそも、朝から何故ここへ呼ばれたのかが理解できない。
「ねえ、あなたはいつまでそうやって一人相撲を取っている訳?」
「今までだって一人だったんだよ。お前もずっと親の敵みたいな態度だっただろうが」
今だけは絵理子にも強く出られる気がした。もう刺されようが殴られようがどうでもいい。
「もう一度、連盟に問い合わせてみたら? こっちは何も悪いことしてないじゃん……」
泣きそうな声で日向が提案した。だが、今さらどうこうできる問題ではないだろう。
「やってみなきゃわからないでしょ!!」
「日向、落ち着いて……」
食い下がる日向を絵理子が宥める。
「先生! こいつもう抜け殻なんだから、先生しかなんとかできる人がいないんだよ!」
「理事会で賛成多数となったからには、もう覆しようがないのよ……」
二人とも悔しそうに唇を噛む。
「……それで、用件はなんだ?」
こうしている間にも時間は流れていく。本番のことを考えれば、やはり少しでも絵理子に指揮を教えるべきだ。呼び出されたのもきっとそのことについてだろう。
「昨日のミーティングの内容、聞いてる?」
「え?」
思いもよらぬ質問に、俺は動揺する。そういえば結局どうなったか連絡は来てない。指揮棒が折れてからは魂が抜けていた。日向が言うように、俺はただの抜け殻だ。
「昨晩、玲香から私に連絡が来たわ。『十一時になったら秋村さんと一緒に講堂へ来てもらいたい。それまでは第三職員室で足止めしていて欲しい』って」
「足止め?」
何もかも、意図がわからなかった。しかし、絵理子にのみ連絡があった時点で、俺はもう全く信用されていないということは理解できた。きっと、呼び出された講堂で最後の通告が待ち受けているのだろう。
ふと時計を見ると、まだ十時前だった。この中途半端な時間が緊張感を増加させる。
「あいつらが決めたことなら、足止めなんてされなくたって従うよ。邪魔かもしれないが、すまんな」
なんだか達観したような気持ちで絵理子に声を掛ける。
断頭台に向かう『幻想交響曲』の主人公は、こんな感覚だったのかもしれない。刃を受け入れるだけなのだから、思考は無意味だ。
普段なら既に階下からパート練習の音が聞こえているはずだが、教室棟は静寂に包まれている。
「恭洋」
「ん?」
「これ、聞く?」
唐突に絵理子が机の上から持ち上げたのは、プラスチック製の薄いケース。表面に書かれているのは『全日本吹奏楽コンクール』の文字。
「お前、もしかしてそれって……」
「そう。十年前の私達の演奏」
「どうして今になってそんなこと言い出すんだよ」
「別に? いいでしょ、暇だし」
そう言って、絵理子は手早くパソコンにディスクを挿入する。
「音質が悪いのは目を瞑ってね」
いったいどういうことだ。これまで散々、末代までの秘匿みたいに隠し続けてきたくせに。
というか、むしろ今は聞きたくない。状況が状況だし、演奏されたのはまさに『断頭台への行進曲』だ。この期に及んでまだ嫌がらせをしようというのか、この女は。
そうこうするうちに再生が始まってしまった。
しかし。
「……え?」
思ってもいなかった演奏内容に、俺は呆然とするしかなかった。
十二分間の舞台が幕を閉じると、一周回って笑いすらこみ上げてくる。
「ふっ……。はははっ」
乾いた笑い声が空しく響いた。
「なんだよこれ。まるで『ゲルニカ』じゃないか」
引き攣った顔をした日向と絵理子がお互いを見つめる。きっと、ついに俺が狂ったのだと思っているのだろう。
それにしても、今聞いた演奏はあまりにも暗かった。三年生と初めて合奏した時のことを彷彿とさせるほど絶望的だった。楽曲が『断頭台』なのだから良いじゃないか、とかそういう次元じゃない。もはや音楽ですらないのだ。『幻想交響曲』を表現しようとした結果ではなく、純粋に音が真っ暗だった。そりゃ銅賞になっても仕方が無いし、あの第一音楽室に飾られた集合写真で誰一人笑っていなかったのも納得である。
「どうして聞かせてくれたんだ?」
俺が尋ねると、絵理子は目を伏せたまま「別に」と呟いた。こんな演奏なら、俺に聞かれたくない気持ちもわかる。そうなったのは俺が原因と言っても過言ではないのだし。
「……あなたは、あの子達に『自分みたいになって欲しくない』ってよく言うでしょう。私だって、今聞かせたみたいな演奏をしてもらいたくないのよ。『幻想』をやるなら、とくにね」
絞り出すような絵理子のセリフに、先ほど軽々しく笑った己を恥じた。
「この後にどんなことが待ち受けていても、ちゃんと受け止めなよ」
絵理子を味方するように日向が言う。
「……ああ」
たしかに、再び俺のせいで晴れ舞台が闇に染まることなど、絶対にあってはならない。
――それきり会話は無かった。
約束の時間は、静かにやって来た。
♭
講堂に到着すると、部員達が全員集合していた。指揮台の上には、淑乃が立っている。
そして指揮台のかなり手前には、ぽつんと二つのパイプ椅子が並べられていた。
「来た来た! さあ、お二人とも、早く座って下さい!」
元気な声を上げたのは、指揮台の横で普段とはまるで別人のようにキラキラと笑顔を振りまく萌波であった。どこか懐かしさを覚えながら彼女に導かれ、俺と絵理子は呆気に取られたまま着席する。
「……あ、もう一つ椅子を出してもいいか?」
「え?」
手持ち無沙汰な日向が目に入り、俺は萌波に声を掛ける。
「もちろんいいですよ!」
彼女はそのまま小走りにパイプ椅子を取ってきてくれた。
「ありがとう」
俺の隣に椅子を置き、日向へ目配せする。恐る恐るといった感じで、日向も大人しく着席した。
いったい、これから何が始まるのだろう――。
「本日はお忙しい中、翡翠館高校吹奏楽部のゲリラライブにお越しいただきありがとうございます!」
萌波の第一声に、俺達は揃って目が点になった。
「今日は、私達が一番大切にしてきたことを、全員が思い出すためにこのような場を設けました。是非、最後まで楽しんでくださいね!」
萌波の言葉は、すっと胸に入ってきた。しっかりと用意されたセリフなのだと、すぐにわかった。あの新歓コンサートの時のように……。
「今日のプログラムは、ある日いきなり現れた謎の指揮者と出会ってからの日々を振り返る内容となっております!」
……俺のことか? 俺のことだろうな。
「では早速一曲目に行きましょう! 今思えば、この曲が『伝説』の始まりだったのかもしれません。たった数日で仕上げることとなったこの曲は、入学式の部活紹介で見事に観客を魅了しました。聞いてください――『架空の伝説のための前奏曲』」
指揮台の淑乃が深々と一礼した。
ああ。
こいつらは本当にとんでもない奴らだ。たった二人のダメ大人と、存在もわからぬ旧友のためだけにこんなコンサートを開催するなんて、本当にバカみたいだ。
――バカみたいに、音楽が好きなんだ。
正直、あの時に演奏した三年生はともかく一、二年生はいっぱいいっぱいの演奏だった。だがエネルギーには満ち溢れていた。それはもう、眩しいくらいに。
『架空』に続いて、『メリー・ウィドウ』や『宝島』などが続く。萌波の司会もあいまって、たった数ヶ月のことだとは思えないくらい密度の濃い記憶が蘇る。そしてどの演奏にも、絶対に曲がらない信念のようなものが感じ取れた。それこそ、萌波が言っていた「一番大切にしてきたこと」なのだろう。
日向は、わりと序盤から号泣していた。それを見た絵理子も、目を赤くしながら演奏を聞いている。
俺はなんだか誇らしい気分だった。この僅かな時間だけでも悪夢を払拭させようと楽器を鳴らす部員達に、どう感謝を伝えれば良いかわからないほど、感動してしまった。