第六話 断罪のスケルツォ Ⅲ
この場にいる奏者の中で、唯一楽器を持たない部員――玲香が俺をじっと見据えた。
「そんなことを急に言われても困ります。別にこのままあなたが振ればいいじゃないですか」
「……それはできない」
「できない? そんな外野の一言で、簡単に指揮棒を誰かに譲るんですか?」
「……」
「わかりました。結局、あなたもその程度の気持ちだったんですね」
「そんな訳ねえだろ」
「じゃあ振ってくださいよ!」
「だから無理なんだよ!」
「どうしてですか!?」
「失格になるからだ!」
「……は?」
俺の口から飛び出した言葉に、玲香だけでなく部員全員が固まった。
「し、失格って……」
玲香の後ろに座る璃奈が震えた声を上げた。
「ねえ、それ誰が言い出したの? 誰が決めたの? 教えなさいよ!」
「淑乃ちゃん、落ち着いてってば……」
思わず立ち上がった淑乃を、必死で抑える萌波。
淑乃の質問に答えることはできない。どう考えても躑躅学園の名前を出すべきではない。あの温厚な京祐ですら乗り込んで抗議をすると豪語したくらいだ。血を見るような事態になってもおかしくない。
「淑乃、それを知ってどうするの?」
「決まっているでしょ!? 殴り込みに行くのよ!」
「そんなことをしたら、出場そのものができなくなるでしょうが!」
玲香が叫ぶと、共鳴したティンパニが微かに響く。
淑乃は何も言い返せない。
講堂は静寂に包まれた。
「――聞くべきなのは、そんなことじゃない」
沈黙を破ったのは、再び俺の方を向いた玲香だ。
「秋村さん。今の話って、いつ決まったんですか?」
彼女の目には不審の色しか浮かんでいない。
「……合宿の、二日目だ」
「どうしてすぐに言ってくれなかったんですか?」
「それは……」
明確な意図や理由などない。トラブルが続出したのを言い訳にして逃げていただけだ。
俺が言葉を濁すせいで、玲香は途方に暮れたように困惑している。
「とにかく、俺は本番に出場できないんだ。もしも今日の練習から絵理子が指揮をした方がいいと思う者が多ければ、それに従うよ」
「あなたはどうするんですか?」
強引に話を纏めようとした俺に、玲香が無機質な声を上げる。
「本番だけ絵理子が指揮をするのであれば、練習は今まで通り俺が振るよ。どちらにしてもセクション練習は俺が見る。京祐もいないしな……あっ」
俺は正真正銘のバカだ。うっかり彼の名前を出してしまった。まだ部員達は何も知らないのに。
「え? 黒星さんは今日来てくれるはずですよね?」
案の定、低音パートから質問が飛ぶ。
「いや、あの……」
しどろもどろの俺を見る皆の目が、いっそう厳しくなった。
「あいつは、昨日事故に遭ってしまって……。命に別状は無いんだが、練習を見てもらうのは難しいんだ」
「そ、そんな……」
部員の中には察しが良い者もいるようで、薄々俺が原因なのではないかと感づいているように見えた。
「絵理子先生は、なんともないの?」
その中の一人であるホルンの芽衣が、いつもよりも刺々しい雰囲気を放ちながら尋ねる。
「絵理子は大丈夫だよ。あいつにも何かあったら、県大会どころじゃなくなる」
退職の件は俺から言うべきではないし、今すぐどうこうする問題でもない。俺の回答を聞いて一同はほんの僅かに安堵したようだが、俺に対する不信感は消えていない。
俺は静かに指揮台を下りた。
「この一番重要なタイミングで、色々と迷惑を掛けて申し訳無い。この通りだ」
深々と頭を下げる。こんなことで許されるほど甘くないことは、自分が一番よくわかっている。それでも、言いたいことだけ言って勝手に音楽室を飛び出した十年前と同じようなことはしたくなかった。
それこそ、断罪されるならそれでもいい。コンクールの主役である奏者の総意なら、どんなことでも受け止めなければならない。それが指揮者の責任なのだろう。
「……今日の午後は、全て合奏練習でしたよね?」
頭上に玲香の声が響く。
「あ、ああ。そのつもりだ」
顔を上げると、目の前に玲香がいた。
「とりあえず、今日は秋村さんが指揮を振って下さい」
「……わかった」
「それから、今日は一時間早く練習を切り上げてもいいですか?」
「え? ああ、構わないが……」
「みんなで一度ミーティングしたいので」
「そうか。わかったよ」
こんな時に場違いなことを感じるのは不謹慎だが、本当に玲香は部長らしくなった。
彼女が言うなら、俺に断る権利など無い。この一大事なのだ。ミーティングだって必要に決まっている。
「みんな、そういうことだから。限られた時間を大切にしましょう」
玲香の言葉で、この場はお開きとなった。
部員達は動揺を隠せないまま講堂を出ていく。
「それで、秋村さん」
そそくさと部屋の隅に避難してじっと固まっていた俺に、玲香が寄ってきた。
「楽器は持ってきてくれたんですよね?」
頭が真っ白になった。
「音楽準備室ですか?」
「い、いや、その……」
寝坊をして急いで学校に来たので忘れました、などと言おうものなら殴り殺される。
「二十分……いや、十五分だけ待ってくれ! 本当にごめん!」
それだけ叫んで、俺は自宅へと走った。玲香の冷たいため息を背中に感じながら。
――午後の合奏は、俺にとって地獄のような時間だった。
「あれ、おい、どうしたんだ……」
いくら鍵盤を押しても全く音が鳴らないハーモニーディレクターのトラブルに始まり。
そういう時に限って課題曲の音程の乱れが気になり。
自由曲に至っては本当に発狂しそうだった。今まさに悪夢の中にいる俺が、悪夢の音楽を指揮するのだ。執拗に繰り返される『怒りの日』と『魔女のロンド』が、俺の精神をごりごりと削っていく。
「八分音符の感じ方が甘い。もっと鋭く!」
つい感情が昂ぶった俺は、普段なら絶対しないにも関わらず指揮棒で直接指揮台を叩いた。これではなんのために菜箸を用意しているのかわからない。ついこの前に菜箸ですら簡単に折れたということも、俺の記憶から完全に消えていた。
「クラリネット! テンポに追いついて――」
パキン。
……カーボンで作られた細い指揮棒は、俺の目の前で容易く折れた。それはもう、綺麗なほど真っ二つに。
自然と演奏が止まり、居たたまれない空気が流れる。
もう限界だった。
俺の心も、完全に折れた。