第四話 不適格の烙印 Ⅱ
「臨時招集?」
「ええ」
「こんな時期に?」
「ええ」
「……本当に?」
「しつこいわね!」
朝食後に絵理子から呼びつけられた俺は、第三職員室で意外な報告を受けた。
どうも、吹奏楽連盟が緊急の会合を開催するようなのだ。それも、この中部地区ではなく県の吹奏楽連盟である。
「議題は?」
「さあね。でも、招集されたのはコンクールの県大会に出場する高校の顧問だけよ」
「じゃあ十中八九、県大会のことか」
「わからないけどね」
絵理子は朝から一服している。退職するつもりだから、懲戒免職も怖くないということだろうか。面倒臭いマインドだ。
「で、いつなんだ?」
「今日の十時から」
「ふうん……え!?」
「何よ」
「もうこの後すぐじゃねえか!」
「いや、私に言われても……」
「あ、ああ。すまん……」
つい取り乱してしまった。
「連絡が来たのは?」
「昨日の夕方」
「そんな急に……」
「だから『緊急』なんでしょう」
絵理子の言い分はもっともだが、つまりそれだけ議題も重要な内容だということだ。
「場所は? そんな悠長にタバコ吸ってていいのか?」
「うるさいわね。躑躅学園なんだから、余裕で間に合うわよ」
「は!?」
「さっきからバカの一つ覚えみたいに奇声ばかり……」
「躑躅学園!?」
「あら、単語になったわ」
「そうじゃなくて!」
何故こいつはこんなに悠然と構えていられるのだ。
「今までにもこういうことってあったのか?」
「無い」
「マジかよ……」
「実際に出向くのは私なんだから、あなたが焦ったって意味無いでしょう」
「それはそうだけど……」
絵理子は吸い殻を片付けながら、じっと俺を見つめた。
「まあ私はこれまでもなるべく陰に徹していたし、今回も大人しくしているわ」
そんなところで陰気ぶりを発揮しなくてもいいと思ったが、だからと言って波風を立てるべきでもない。
「そういうことだから、パーカッションパートの練習はリーダーの紅葉に任せるわ。ごめんなさいね」
「あ、ああ。仕方無いよ。そっちもよろしく頼む」
今日もほぼ一日目と同じスケジュールだ。京祐もそのうちやって来るだろう。パーカッションはほとんど完成されていると言っても過言じゃないし、たまには自分達で練習するのも良いだろうからあまり懸念は無い。
「そろそろ音が鳴り始めるんじゃない? ちゃんと監督していないと強制送還させられるわよ」
「……わかった。会合の中身については、また教えてくれ」
そのまま職員室を後にした俺は、再び講堂へ向かった。
ちょうど京祐にも出くわしたので、会合の件を伝える。しかし彼はさほど気にした様子を見せなかった。それよりも目の前の練習が大切なのだろう。その熱意はありがたいが、俺の胸騒ぎは消えない。
――その後、絵理子が学校に戻ったのは昼前のことであった。
「なんだ、思ったよりも早かったんだ、な……」
軽い口調で言ったものの、俺の心臓はBPM二〇〇くらいの高速ビートを刻んでいる。
急いで四階まで上ったからだけではない。セクション練習中の俺を呼びつけるスマホのバイブレーションがあまりにもしつこかったのだが、そもそも滅多に電話を掛けない絵理子から着信が来る時点で違和感しかしなかった。それに練習中というのも気に掛かる。もう少し経てばお昼休みなのに、それすら待てないということだ。
また、俺と同じく京祐まで呼ばれているので、これはもう尋常で無い事態だと思わざるを得なかった。
両肘をデスクについて頭を抱える絵理子の姿が目に入ると、いよいよ覚悟を決めねばならないという気持ちすら湧いてくる。
「絵理子、いったい何があったんだ?」
こういう時、温厚な京祐が言葉を掛けるとほんの少し空気が柔らかくなるのでありがたい。
「あ、ああ……」
だが、絵理子の絶望的な表情が即座に空気を凍らせる。
俺はつい京祐と顔を見合わせてしまった。
「どうせもうすぐ休憩だ。ゆっくりでいいから話してくれないか」
京祐が気遣うと、絵理子は一度俺の方を見てから俯いた。
その仕草だけで、なんとなく察してしまう。
「やっぱり、俺なのか」
無意識に口から出た言葉のせいで、室内の雰囲気はいっそう淀んでしまった。
「おい。やっぱりってどういうことだよ」
まだ事情を飲み込めない京祐が、さすがに苛立った口調で俺を問い詰める。
「京祐、ちゃんと話すから」
俺に掴みかかりそうな勢いの彼の様子を見て、絵理子はようやく重い口を開いた。
「……今回の会合を招集したのは、智枝よ」
「なんだって?」
名前が出た瞬間、京祐が反応する。
「だから躑躅学園なのか」
「そういうこと」
「そんな権限が、あいつにあるのかよ」
「あの子本人には無いわね」
「じゃあどうして!」
「招集を具申したのが智枝だったから」
「いったい誰に!?」
「――芳川功雄」
絵理子と京祐の問答は、その名を最後にぶつ切れとなった。
時計の秒針が一周しても、俺と京祐は絶句したまま動けない。
芳川功雄だと?
どうしてここでその名前が登場するのだ。俺達の恩師である、その人物が。
「……芳川先生の転勤先って、躑躅学園なの」
俺はあまりの衝撃に声も出ないが、京祐は何か思い出したように顔を上げた。
「すっかり忘れていたが、そうだったな……」
「どうして忘れてたんだ?」
「顧問を引退したからでしょ。今の芳川先生は躑躅学園の教頭なの」
俺が疑問を口にすると、京祐に代わって絵理子が説明してくれた。
焦げつきそうな思考を無理矢理回転させて状況を整理する。躑躅学園吹奏楽部の顧問を三年前から智枝が務めているということは、その前が芳川先生だったと考えるのが自然だ。そして、智枝の率いる躑躅学園が昨年のコンクールで支部大会に出場したということも、芳川先生の後を継いだのであれば全然不思議なことではない。芳川功雄はレジェンドだと、当事者の俺達が一番よく知っているのだ。むしろ躑躅学園が芳川先生の時に県大会を抜けられなかったことが意外過ぎるほどである。
「でも、それなら芳川先生は今回の件とは関係無いだろ?」
京祐が腕を組みながら質問を続ける。
「大ありなのよ。芳川先生はこの県の吹奏楽連盟の理事なんだから」
「は!?」
「へ!?」
大人二人の間抜けな声が室内に響く。
「どうしてそういう大事なことを教えてくれなかったんだよ!」
「そうだぞ絵理子!」
珍しく京祐も俺に乗っかって絵理子を非難する。俺だって責めたくはないが、内容が内容だけに聞かずにはいられない。
「忘れてたし、言うタイミングも無かったし。それに、躑躅学園に触れるってことは、智枝に触れるってことよ。私もそうだけど、あなた達だって耳の痛い話でしょうが」
冷静に返されると、大人二人は不甲斐なく押し黙った。ぐうの音も出ない。
「……そこまでして、智枝は何を言いたかったんだ?」
いよいよ京祐が本題に踏み込んだ。黙っているだけのカカシみたいな俺も、固唾を呑んで絵理子の言葉を待つ。
「結論から言うと」
絵理子は覚悟を決めたように俺の顔を真っ直ぐ見つめた。
「秋村恭洋は、県大会で翡翠館高校吹奏楽部の指揮を振るべきではない」
「おい、それどういうことだよ」
「京祐。まずは全部聞くんだ」
「あ、ああ……」
俺だって全く落ち着いていない。すぐにでも叫び出したい。でも、なんとなく絵理子の言った「結論」が、それだけではないという予感があった。
静寂を取り戻した職員室で、再び絵理子が口を開く。
「理由は二つ。まず、翡翠館高校には秋村の他に正顧問がいるにも関わらず、副顧問どころか教諭でもないのに秋村が部活動に携わっていること。そしてもう一つ。秋村は定職にも就かずほとんど一日中吹奏楽部につきっきりで、自身のほぼ全ての時間を吹奏楽部に費やしていること。他校の教員が仕事をこなしながら限られた時間で音楽指導をしているのに、不公平ではないか?」
絵理子が淡々と供述する。
「……まあ色々と御託を並べていたけれど、要点だけ言えばこんなところね」
「それに対して他の顧問は?」
俺が質問すると、苦々しげに絵理子は「賛成多数」と呟いた。
「マジかよ」
翡翠館高校は、目立ち過ぎたのだ。昨年のコンクールは惨敗だし、先日の合同演奏会も散々な結果。そこから突然、地区大会をトップ通過するに至ったのだから、周囲が見れば不自然としか思えないのだろう。
「でも、連盟の規定には抵触していないじゃねえか! それに奏者が努力したから素晴らしい演奏になったのであって、全部が全部恭洋の成果って訳じゃないだろ!」
我慢ならなくなったのか、京祐が声を荒げる。
「おい、落ち着けって――」
「なんでてめえは落ち着いていられるんだよ!」
宥めようとした俺の肩を、京祐は強く揺さぶった。
「絵理子はそれに対してなんて言ったんだ?」
「……」
「おい、絵理子!」
「……何も、言えなかった」
「は?」
「言い返せる訳無いでしょう!?」
今度は絵理子がヒステリックに叫ぶ。
「私は『得体の知れない誰かに指揮者を丸投げした顧問』でしかないの! それに他の高校がみんな智枝に賛同する中でどう反論しろって言うのよ!」
「何が『得体の知れない』だよ! お前がそれを認めたらおしまいだろうが!」
「降って沸いたような無職なのは事実じゃない!」
「その無職がここまでバンドを立て直したことを、お前もいい加減に認めろよ!」
――もうやめてくれ。
「わかった。俺が今から躑躅学園に乗り込んで抗議してくる」
「ちょっと!? そんなことしても意味無いわよ!」
「芳川先生なら話を聞いてくれるかもしれないだろ!」
「だから無理だって言ってるでしょ!? 会合の時だって、芳川先生は最後まで何も発言しなかったわよ!」
「……お前ら、いったん落ち着けって」
「あ!?」
「何よ!」
「落ち着けって言ってんだよ!!」
この二人が俺のことをどう思っているかなどわからない。だが、少なくとも俺にとっては大事な旧友であり、戦友でもあり、今は仲間である。そんな二人が、俺のことでいがみ合うのは見ていられない。
これでは十年前と同じではないか。俺を擁護する同級生と、糾弾する後輩の光景が目に浮かんだ。
「……それで、もし俺がこのまま本番に出たらどうなるんだ?」
「それは……」
俺の質問は、今日の会合で決定した最も重要な事項だろう。
一瞬言い淀んだ絵理子は項垂れたまま、たった一言だけぽつりと呟いた。
――失格、と。