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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第一章 宵闇 ―― calmato
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第四話   迷走するブラスバンド Ⅳ

「お帰りですか?」

 カウンターでグラスを磨いていたマスターが、笑顔を向けながら声を掛ける。

「……いえ、おかわりをお願いします」

 そのまま店を出てしまえばよかった。そうすれば、もう二度とこの生意気な小娘に会うことも無かっただろうに。だが、どういう訳か俺にはそれができなかった。

「かしこまりました」

 相変わらず無駄の無い動作でマスターがコーヒーを淹れる。再び席に着いた俺の前に、新しいカップが置かれた。

「俺のことは優先順位の最下層とか言っておきながら、結局俺についてばかりじゃないか」

「話の流れでしょ」

「……俺はまだ承諾した訳じゃないからな。今の吹奏楽部の状態を聞いてからだ」

「あんたに拒否権があると思ってんの?」

 この小娘に熱々のコーヒーを浴びせてやろうかという衝動は、マスターの笑顔を思い出しながら必死に抑え込む。店に迷惑を掛ける訳にはいかない。それに、病院のエレベーターの件もある。虚空にコーヒーをぶちまける男など、精神科の前に警察沙汰である。

「で、どうなんだよ」

 大人しいままの絵理子に尋ねてみる。たしかに部活が無くなるというのは穏やかでない。最悪の部員と言われる俺も、それなりに吹奏楽部への愛着は持っているつもりだ。

 俺の問い掛けに、絵理子は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。

「どう、と言われても」

 無愛想な絵理子に、俺も少々苛立つ。

「お前、いつから顧問をやってるんだ?」

「……二年前だけど」

 新卒で赴任したなら、この三月でちょうど丸六年だろう。芳川先生との入れ替わりにしては、意外にも顧問歴は短いようだ。

「芳川先生の後任で顧問をやった先生も転勤しちゃったから。そのタイミングで顧問になれるのが私しかいなくて押しつけられた」

 俺の表情で察したのか、絵理子はまるで被害者のように語った。

「え、お前顧問をやりたくなかったのか?」

 芳川先生がいなくなったことにも少なからずショックを受けたが、絵理子が自ら望んで顧問に就任した訳ではないことにも驚きを隠せなかった。

「私立なんだから、そんな立て続けに転勤するなんて思わないでしょう」

「でも、全国大会出場メンバーのOBなんだから、いずれは顧問になるんじゃないのか?」

「……そんなの知らないわよ」

 段々と絵理子の不機嫌指数が上昇している。わかりやすい女だ。

「で、どうして部活そのものが無くなっちまうんだよ」

「私が聞きたいわよ!」

 急に絵理子が逆上した。沸点が低過ぎる。血中にジエチルエーテルでも流れているんじゃないか。

「……前任の顧問の他に、音楽経験のある人が私しかいなかったの。単純過ぎて反論もできなかったわよ。そんなふうにいきなり任命されて、まともな仕事ができるはずも無いのに」

 絵理子が吐き捨てるように言った。もともと絵理子の担当パートはパーカッションである。もちろん打楽器も吹奏楽を構成する上で欠かせない存在だが、全体の大部分を管楽器が占めているブラスバンドにおいて、指揮法も管楽器の知識も無い絵理子が経験者という括りに入れられるのは、些か酷な話である。

「あたしは絵理子先生のこと好きだよ」

 日向がどう考えても焼け石に水的なフォローを入れたが、思った通りなんとも言えぬ微妙な空気が流れる。

「俺も、お前が無能とは思わないけどな」

「無職は黙って」

 俺の気遣いを、絵理子は心底迷惑そうな顔をしながら受け流した。こんな明確な差別をしているのが現役の教師である。もう日本は終わりだ。

「指揮が振れない顧問なんてそこら中にいると思うんだが」

 俺はめげずに言葉を繋いだ。日向が言っていたように、絵理子は指揮者として力不足なのかもしれないが、その一点だけで部活そのものが崩壊するとはにわかに信じ難い。全国の吹奏楽部の中には音楽未経験者の顧問がいるところもあるだろう。吹奏楽部はおおよそどの高校にも存在するポピュラーな部活だが、必ずしも音楽教諭が顧問になる訳ではない。それにもし音楽教諭だとしても、ピアノや声楽を専攻していた者は吹奏楽とは無縁だし、そもそも非常勤教諭の可能性だってある。合唱部など他の音楽系の部活があれば、なおさら人材を揃えるのは難しい。

「指揮が振れないだけじゃない。そもそも教師になったのが間違いだった」

 もともと快活な女ではなかったが、今の絵理子はあまりにも卑屈で陰気だ。俺が言えた義理じゃないけれど。

「それでも部活が消滅することにはならないだろ。部員がいなくなる訳でもあるまいし」

「いなくなったのよ」

 即答した絵理子の言葉がうまく理解できない。

「……ははは、何を言うかと思えば。もうすぐ新学期だろ? 躍起になって新入部員を集める時期なのに、部員がいなくなるって冗談きついわ」

「存在が冗談みたいな奴に言われたくない」

「お前、再会してから本当に辛口だな」

 胸焼けしそうだ。

「なんで部員が消えちまうんだよ」

「そんなの簡単な話よ」

 残ったコーヒーを飲み干した絵理子が、虚ろな目で俺達を見つめる。

「生徒達がイカれてるから」

 彼女はとても教師とは思えない暴言を吐いた。

「お前がそんなふうに言うってことはよっぽど変わった奴らなんだろうが……」

 俺がいた頃の翡翠館高校は、軍隊のような校風のせいで治安や風紀に関して全く問題が無かったはずだが。

「今度の三年生は、ものすごく個性の強い子達の集まりなの。それに、二年生もちょっと特殊なのよ」

 絵理子が頭を抱えながら告白する。

「まあ、それはたしかにそうだね」

 日向も絵理子の言葉を肯定した。

 個性的、のレベルがどれほどのものか予想もできないが、絵理子がつい「イカれている」と表現するのだから、新三年生達は相当変わっているのかもしれない。

「あたしが死んで、完全に(こじ)れたんだろうね」

 日向が静かに言った。先輩が引退した直後にリーダーシップのある部員がいなくなったのであれば、組織が空中分解するのも不思議ではない。

「簡単に言うと集団ボイコットって感じかしら。先輩達に付き合いきれなくなった新二年生達が部活に来なくなったの。噂では新しい部活を作ろうとしているみたい」

 淡々とした絵理子の説明に、俺は目を見開いた。

「とんでもなくひどい状況じゃねえか!」

 新二年生が野党だとしたら、与党である先輩達に向けてデモをしているくらいの感覚でいたのだが、そんな生ぬるいものではなかった。亡命政府を樹立してクーデターを起こすくらい物騒なことになっている。さながら絵理子は右往左往する議長と言ったところか。

「そういうことだったんだ……」

 日向は納得したように頷いている。いまいちこの小娘のことがよくわからないが、ボイコット云々に関しては初耳だったらしい。

「そうなってしまった責任を感じて、自分のことを無能って言っているのか?」

 俺が絵理子に尋ねると、彼女は空になったカップを見つめながらため息を吐く。

「もともと顧問になってから自分の無力さを思い知っていたわ。たまたまとんでもない生徒達を引き当ててこんなことになったけれど、どちらにせよどこかで崩壊していたのよ」

 絵理子はもはや達観したような薄い微笑みを浮かべている。

「日向、ごめんなさいね」

 突然の謝罪に、日向は数回瞬きをした。彼女が死んだ後の部活がめちゃくちゃになっているのだから、俺の視点から見れば絵理子が謝ることは自然だと思ったが、どうも日向は違うらしい。

「ううん、先生のせいじゃないよ」

「そうじゃなくて」

「え?」

 フォローを(かわ)された日向が首を傾げる。

「こんな状態の吹奏楽部を恭洋がどうにかするなんて、天地がひっくり返っても無理よ。音楽以前の問題なんだから。それに、この男の力を借りるなんて、やっぱりできない」

 忌々しげに言う絵理子に対して、俺と日向は返す言葉を失う。

 ――テーブルに生まれた沈黙を埋めるように流れ込んできたのは、ショパンの調べ。この曲は……。

「『別れの曲』、か」

 自嘲気味に笑う絵理子の背景で流れるその旋律は、あまりにもこの場に似つかわしかった。

「ちょっと待ってよ」

 お通夜のような雰囲気に水を差したのは、冷たい眼差しで俺と絵理子を睨む日向だった。

「なんで始まる前からもうおしまいみたいな空気を醸し出してんの?」

「いや、何も始まらないでしょう。私だって自分で説明していて、どうしようもなさに笑えてきたわよ。そもそも私は、今の状況をどうにかして欲しいだなんて一言も頼んでいない訳だし」

 そう言われてみればそうだった。絵理子が楓花の元へ出向いたのは、おそらく今語ったことを報告するためだろう。つまり彼女自身は吹奏楽部の現在だけでなく、未来さえも受け入れているのだ。

「日向が急に現れて動揺してたけど、もう目が醒めたわ。現実はこの通り。全国大会に出場したOBが部活を潰すなんて、皮肉ね」

「先生!」

 日向が大きな声を上げた。

「本当にそれでいいの!?」

「日向、私に現役の高校生みたいなエネルギーがあると思う? あなたが思っているほど、私は出来た人間じゃないのよ」

 そう言うと、絵理子はおもむろにジャケットの内ポケットから小さな箱を取り出した。

「……絵理子、タバコ吸ってるのか?」

 驚愕している俺をよそに細く白い煙を吐き出すその姿は、もはや俺が知っている絵理子ではなかった。

「あなたと最後に会ってから、何年経ったと思ってるの? そりゃタバコくらい吸うわよ」

 彼女はぶっきらぼうに答えた。

 ――それきり三人とも口を開くことは無く『別れの曲』が静かに終わった。

 絵理子が灰皿にタバコを押しつけて立ち上がる。

「日向、本当にごめんなさいね。無能な私のことは、もう記憶から消してちょうだい」

 最後に軽く微笑んだ彼女は、呆然とする日向の返事も待たずに店を出て行った。

「嘘でしょ……?」

 真っ白なドアを見つめながら、日向は今にも泣き出しそうな声で呟いた。俺は冷たくなったコーヒーを飲み干し、静かにカップを置く。レースのカーテンを少しめくって窓の外を見ると、いつの間にか雨が降り出していた。マスターは相変わらずカウンターでグラスを磨いている。

 タイミングが良いのか悪いのか、今度は『雨だれの前奏曲』の演奏が始まった。しかしその透き通った美しい音色も、目の前の窓を伝う汚れた雨水のせいで台無しである。いかに清廉に見える物でも、実態は淀み濁っているのだと言われているようだった。

 取り残された俺達は、しばらく席を立つことができなかった。

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