第三話 アンバランスなデュエット Ⅲ
「なんだ?」
俺は相槌を打ったが、おそらく最も言いづらいことが最後に残っているのだろうという予感があった。
「私がフルートを選んだきっかけって、たぶん野田先生なんだと思います」
「……え?」
「私や日向などは、小学生の頃に翡翠館高校吹奏楽部の演奏会を聞いたことがきっかけで、この学校に入学しました。あなたが全てのプログラムを指揮した、あの演奏会です」
「あ、ああ。そうだったな」
面と向かって言われるといまだに気恥ずかしい。
「あの時、私が一番興味を持ったのが最前列のフルートパートでした。あんなに細い楽器なのに音色がすっと耳に入ってきたことにびっくりして……。私も幼かったので、演奏会が終わった後にこっそりフルートパートの方達を見に行ったんです」
幼かったので、というか、そんな小さい頃からアサシンみたいなことをしていたのか。
「あの時、皆さんは体育館の隣にあった多目的ホールを控え室にしていましたよね。じっとフルートパートを見ていたらあっさり見つかってしまったんですが……」
そこまで話して、玲香は珍しく微笑みを浮かべた。
「部員の方が近づいてきたのでてっきり通報されるかと思ったら、そのままフルートパートの輪に入れてくれたんです。『君、フルートが気に入ったの? 嬉しいなあ!』って。その場で一曲演奏してくれました」
なんとなく、あの頃の部員達ならそのくらいのことは平気でしそうだと思った。
「その時に吹いてくれたのが『アルルの女』でした。そして、奏者は……」
「智枝だったってことか……」
答えを先回りすると、玲香は小さく頷いた。全く、因果なものだ。
「合同演奏会の後に間近で会話して、思い出したんです。私が憧れたあの音色は、野田先生の音だったんだって」
寂しそうに話す玲香を見て、どうして彼女がこの件をずっと一人で抱えていたのか理解できた。
「かつて全国大会に行けなかったのが野田先生だったということに、かなりショックを受けてしまって……。あ、もちろん秋村さんのせいだなんて思っていませんよ? 秋村さんには感謝してもしきれません。でも、野田先生が言うからこそリアリティがあるというか……。あまり考えたくないですが、万が一秋村さんが私達から離れるようなことになったらって思うと、演奏にも集中できなくて」
「……そうか」
「それに同じフルート吹きなら、野田先生もまず私に注目するんじゃないかと思って。合同演奏会は失敗してしまいましたし、これ以上がっかりさせるような演奏はできませんから……」
申し訳無さそうに玲香は目を伏せた。
「そんな顔をしなくていい……」
頭を下げるべきは俺の方だ。純粋に音楽と向き合っていた彼女を大人の事情で振り回していたなんて、考えたくもない。彼女は俺と智枝の板挟みになっていたのだ。かつて憧れた奏者から掛けられた言葉のおかげで窮屈な演奏になっているなど、悪夢じみた皮肉である。
「俺は、誓って智枝を突き落としてなんかいない。ただ楽器を壊したのは事実だ。だからあいつが俺を恨んでいるのは当然だし、翡翠館高校そのものを目の敵にしていたって不思議じゃない」
「そう、ですよね……」
「でも智枝の理屈なら、翡翠館が躑躅学園よりも良い成績で地区大会を抜けたっていうのは、全然『災厄』じゃないよな?」
躑躅学園にとっては災厄というか、最悪なことなのかもしれないが。
「まあ、たしかに」
「俺さ。合同演奏会の前に、おかしくなっただろう?」
「え? ……あ、ああ。そういえばそんなこともありましたね」
玲香はその時の俺に対して「心配じゃなくて迷惑を掛けています」と言った張本人なので、忘れられては困る。
「あの時に考えていたことこそ、『死神』についてなんだよ。このままお前達と関わっていてもいいのかって、迷ってたんだ」
俺のカミングアウトを聞いて、玲香は意外そうに目を開いた。
「それでも、このバンドの指揮を振ると決めた時点で俺に退路は無い。十年前と違ってな。だから最後まで見届けるって決めたんだ。お前も今まで通り伸び伸びと楽器を吹いてくれればいい。お世辞じゃないけど、当時の智枝よりもお前の方がよっぽど上手だから」
どの面下げてそんなことを言うのかと、俺自身も思う。いったいどんな「最後」が待ち受けているかもわからないというのに。
「……お世辞が下手過ぎです」
「いや、本心で言ってるんだけど……」
玲香の表情には、依然として戸惑いが残っている。
「余計な心配をさせて本当に申し訳無かったよ。でも、少なくともお前が焦ることじゃない。合宿が終われば県大会まで一週間だ。前にも言ったが、三年生が隙を見せたら組織は簡単に崩壊するんだよ」
セクション練習中にフルートの後輩達が心配そうな顔をしていたように、不穏な気配というのは敏感に察知されやすいものだ。
「わかりました。ご迷惑をお掛けしてすいません」
敢えて迷惑という言葉を選んだ玲香は、本当にストイックの権化だと思う。
「そんなふうには思っていない。むしろもっと早く気遣ってやれなくて悪かった」
「いえ……」
ちらりと時計を窺うと、もう午後の練習開始が迫っていた。
玲香と一緒に講堂へ向かうと、既に集まっていた部員の中には怪訝な顔をする者もいたが、すぐにチューニングが始まったのでやり過ごすことができた。
玲香の焦りが部長としての責任感から生じたものなのだとしたら、彼女自身もしっかり成長を遂げていると言える。だからこそ、曖昧な言葉や気休めみたいな鼓舞しか掛けられなかった俺が情けない。
だが、それでも俺は指揮棒を振り続けなければならないのだ。
「あっ」
手元から、バキッと鈍い音がした。
指揮棒の代わりにしている菜箸が真っ二つに折れた音だった。
そしてあろうことか、木の破片が最前列にいる玲香のもとへ飛んでいった。
「大丈夫か!?」
「は、はい」
何事もなくて安堵したものの、先ほど玲香と対話したばかりだというのにあまりにもタイミングが悪い。凶事の前兆にしては露骨過ぎる。
玲香に力を抜けと言っておきながら、俺が無駄に力んでどうするんだ。
――その後、冷や汗をかきながらではあったが、なんとか合宿一日目は無事に終わった。
久しぶりに訪れた最寄りの銭湯で熱い湯に浸かると、驚くほど疲れが取れたように感じた。気分もさっぱりとしたところで、俺は少し軽くなった足取りで学校へと戻る。
「……たまたま、だよな?」
指揮台の上に置いてあった、折れた菜箸を処分しながら呟く。
講堂では、かつてのように遅い時間まで練習を続ける部員の姿があった。
このまま明日も頑張ろうと、部員達からエネルギーをもらいながら様子を眺めていた俺は完全に油断していた。
――たまたまなどではなかったのだ。
翌日には大きな波乱が待ち受けているのである。