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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第四章 夜明け ―― brillante
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第三話   アンバランスなデュエット Ⅰ

 不穏な気配を感じながらではあるが、大人の事情で合宿のスケジュールを変更する訳にはいかない。

 合宿当日の朝がやってくると、ほとんど練習漬けでしかない三日間であるにも関わらず、部員達はまるで修学旅行にでも行くようなキラキラした目で登校した。

「――お前らはどうしてそんな暗闇みたいな目をしてるんだよ」

 第三職員室で二名のダメ大人を糾弾するのは、合宿への参加を依頼した京祐だ。

「何があったか知らんが、そういう顔をしていると悪い物を呼び込むぞ?」

 たいして考えもせず一般論として京祐は言ったのだろうが、俺という呪われた人間にそういう懸念をぶつけるのはあまりよろしくないと思う。

「じゃあ笑えよ」

「……」

 全て彼の言う通りだ。俺達が生徒に水を差すものではない。

 日向は昨夜「ちょっと充電する」と言い残して消えた。もう開き直ったのか素直に教えてくれるのはありがたいけれど、どうせならいつ戻って来るか一緒に伝えてもらえると助かるのだが。

 今回の合宿はしっかりと練習スケジュールを組んでいるものの、おそらく三日目は疲労で集中力の欠ける練習になる可能性が高い。日課のドリルや最低限の練習が終わった時点で、多少時間が早くても解散にするつもりだ。

「さて、じゃあ早速行くか!」

 京祐は相変わらず大きな背中を揺らしながら講堂へ向かった。彼は日向の存在について知らないし、絵理子の退職の件も伝えていない。

「……少なくとも、合宿中はその話題に触れないでおこう」

「ええ」

 珍しく絵理子と意見が一致したので、そのまま俺達も京祐の後を追った。

「――では、三日間頑張りましょう」

「はい!」

 簡単なミーティングの最後を玲香が締めると、皆の元気な返事がこだました。

 一日目、二日目ともに午前中はセクション練習だ。

 金管楽器を京祐、パーカッションは絵理子が指導する。残った木管楽器が俺の担当だ。こうして割り振ってみると、本当に京祐の存在はありがたい。彼はわざわざ連続して有給休暇を取ってまで、吹奏楽部のことを気にかけてくれている。「有休を消化しろってうるさく言われてたから、ちょうど良かったよ。無職にはわからんかもしれんが」と、京祐は笑いながら言った。余計な一言さえなければ聖人君子みたいな奴である。

 木管楽器の練習場所は第二音楽室だ。部員が全員集まると手狭なこの教室も、セクション練習であればちょうどいい。

 響き過ぎを防止するため床には暗幕を敷いてある。吸音材までは準備していないが、春先のことを思い出して懐かしい気持ちになった。

 俺の方針通り、重点的に練習するのは自由曲だ。

「――玲香、もうちょっと柔らかい音じゃないと音程が全然合わないぞ」

 冒頭のフルートには、普段使わないような低音域が登場する。その前の音との高低差がかなり大きいので、いきなりの難所である。

「そもそもテンポに対して息のスピードが速過ぎるんじゃないか? 弱奏時のテンポ感は審査員コメントでも指摘されてただろ」

「……はい、すいません」

「いや、謝らなくてもいいけど……」

 やはり玲香の様子がおかしい。フルートパートの後輩達も、なんとなくやりづらそうな雰囲気だ。

 その後も木管楽器は弱奏の部分の練習が大半を占めた。実際完成度が足りないので仕方が無いのだが、意識して弱く吹くというのはやはり神経を使う。

「よし、だいぶ纏まったな。合奏では金管楽器の音圧に負けないように、なんて思わなくていい。それぞれの役割をしっかり考えて演奏すること」

「はい」

 ただでさえ響きが吸われるので普段にも増して疲れただろうが、ここで負荷をかけておけば合奏が楽になる。三年生もそれを理解しているはずだ。

「玲香、疲れてないか?」

「はい? バカにしてるんですか」

「どれだけストイックなんだよ。……まあいい。昼食が終わったら音楽準備室に来てもらえないか?」

「わかりました」

「楽器も持ってきてくれ」

「……はい」

 どうしても気になった俺は、玲香と直接対話することにした。まだ合宿は始まったばかりだ。ずっともやもやしながら練習しても非効率的である。

 音楽準備室で玲香を待っていると、これまでここで話をした部員との記憶が蘇る。

 萌波と美月、淑乃と董弥。ソロを吹く自信がなかった璃奈や、役員達との自由曲の選考会。

 この狭い部屋で、俺はいくつもの大切な時間を過ごしてきた。

「――失礼します。お待たせしました」

 感情の無い声が入口から聞こえる。

 果たして、玲香とはどのような時間を過ごすことになるのだろう。


 ♭


「昨日も聞いたけど、何か焦ってないか?」

「そんなことを聞きにきたんですか」

「そんなこと、じゃねえだろ。こっちは心配してるんだよ」

「焦ってなんかいません。もっとレベルを上げたいだけです」

「具体的には?」

「具体的? 全部ですよ。全部のレベルが足りないんです!」

「全部って、お前……」

 もともと吹奏楽部に害なす者を敵と認識していた玲香であるが、こう思春期の女の子の反抗期っぽい態度を取られると、俺としても扱いに困る。

 いや「ぽい」というか実際に女子高生なんだから不思議なことではないのだが、俺としてはいつもみたいに危険思想を統制する方が簡単に思えるのだ。……そっちの方が何倍も不思議なことだけれど。

 会話が平行線なら、音で交流を図る他あるまい。

「お前、練習曲(エチュード)で『アルルの女』を吹いてたよな? ちょっと聞かせてくれ」

「は?」

 玲香は不審な目をこちらへ向けた。何故今そんなことをしなければいけないのか、と思っているのだろう。わざわざ聞かなくてもそのくらいわかる。

「俺が伴奏してやるから」

「いりません!」

 ピアノの蓋を開けた瞬間に制止されたが、俺はそのまま椅子に座って鍵盤に指を乗せた。

 全四曲で構成される、ビゼー作曲『アルルの女』第二組曲。その第三曲『メヌエット』は、冒頭からハープとフルートが美しいデュエットを奏でる名曲である。

「何をぼうっとしてるんだ? いくぞ」

 そのまま指を滑らすと、玲香は慌てて口元にフルートを寄せる。前奏がたった二小節しかないからだ。

 ――多少の準備不足感は否めないが、それを踏まえてもやはり玲香のソロは全体的に硬かった。

 三月にこの音楽準備室から初めて三年生を見た(正確には覗いていた)時に最も上手だと感じた奏者は、この『メヌエット』を吹いていた玲香である。

 彼女の音は、まるで上質なワイヤーだった。息漏れなどの雑音が一切無い澄みきった音色と、滑らかな音運び。芯の強さとしなやかさを併せ持つ玲香の音は、存在感が圧倒的だった。部長にも選ばれる訳だ。

 だが今の彼女は違う。しなやかさの欠けた玲香の音は、ただの丈夫な鋼材というか、少なくともアンサンブルに適しているとは言い難い音色である。

「もうちょっと脱力した方がいいんじゃないか?」

「……はい」

 一度演奏すると気分が落ち着いたのか、ピリピリとした雰囲気は少し収まったようだ。俺が指摘すると玲香は素直に頷いた。

「無駄に力が入るっていうのは、何事も一番良くない」

 簡単に言えば「力んで」いるということだ。穏やかな曲調の『メヌエット』ですらそうなるのだから、『幻想交響曲』を演奏すればより一層力が入ってしまうだろう。

「何か余計な事を考えているんじゃないか?」

 俺が尋ねると、玲香は少しはっとしたようにこちらを見てから項垂れた。

「言いづらいことかもしれないけど、話してくれないか。お前にとっては最後のコンクールなんだぞ」

「……わかりました」

 観念したように呟いた玲香だが、俺へ向ける視線にどこか申し訳無さそうな翳りが含まれているように感じる。

「もしかして俺のせいか? 気づかないうちに、何かしていたのか?」

「違います!」

「そ、そうか……」

 普段冷静な玲香が叫ぶと、それだけでもけっこう驚きである。

 楽器を机の上に置いた彼女は、もともと置いてあった『幻想交響曲』のスコアをちらりと見た。

「ひとつ伺いたいんですが」

「なんだ?」

「躑躅学園の顧問の先生って、秋村さんのお知り合いですか?」

 予想だにしない質問が飛んできた。

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