第二話 焦燥と困惑 Ⅱ
第三職員室にはなるべく立ち寄りたくない。訪れるだけで息が上がるほど疲れるし、部屋の住人に会ったらメンタルまで蝕まれるからだ。
しかし、そうは言っても用事があるなら仕方無い。ここにいる不良教師はいまだに内線を取ってくれたことがないし、スマホでメッセージを入れても既読無視である。未読じゃないのがむしろ哀愁を感じさせる。
「明日から合宿だけど、大丈夫そうか?」
「そうね」
「京祐も来てくれるみたいだけど聞いてるか?」
「そうね」
「お前は体調とか問題無いか?」
「そうね」
「おい、こっちは真面目に話してんだよ」
「ちっ」
「先生、合宿楽しみだね!」
「……そうね」
パソコンに向かい続ける能面女は、またもや露骨な差別をしている。「そうね」のイントネーションが俺と日向で全く異なるのだ。いい加減にしろ。
「二日目の夜はバーベキューなんでしょ? いいなあ」
日向は空いている椅子に座って両足をプラプラと前後させながら呟いた。
我が校の吹奏楽部がめちゃくちゃ練習好きの特異な変人集団なので忘れがちだが、言うまでもなく部員達は高校生だ。せっかく合宿をするなら楽しみも取り入れたらどうだと、京祐が発案してくれた。俺や絵理子では到底思いつきもしなかっただろうから非常にありがたい。京祐がバーベキューをする画は完全に日曜日のお父さんといったイメージだが、愛嬌ということにしておく。
「じゃあ、明日からよろしくお願いしますね」
律儀にも挨拶をするためだけにここまでやってきたのに、結局徒労だったようだ。
帰宅しようと戸に手を掛ける。
「で、絵理子先生。いつ退職するの?」
ガン、と鈍い音が響いた。
俺が思いきり戸に頭をぶつけた音だ。
「ちょっと日向! いい加減なことを言うものじゃありません!」
動揺し過ぎて変な言葉遣いになった。
「……あなたが言ったのね?」
ようやくこちらを見た絵理子の目は闇に染まっている。そんな顔を見せられるくらいなら、そのままパソコンに向かったままでいい。
だが、否定しても意味が無いので恐る恐る頷く。
「ねえ。どうして辞めちゃうの?」
「おい日向!」
この少女は今朝俺に「デリカシーが無い」とか言っていたと思うが、特大ブーメランが突き刺さっている。ああ、幽霊だから突き刺ささりようがないか。
……そんな冷静な分析をしている場合じゃない。
「先生ってば!」
何も言わない絵理子に対して日向は食い下がった。銃弾の雨の中をスウェットで駆け抜けるような暴挙に、俺は冷や汗が止まらない。俺が下手に口を出したら一瞬で蜂の巣になるだろう。
――呼吸すら苦しくなるほどの静寂に終止符を打ったのは、絵理子の重く深いため息だった。
「辞めないわよ――三月までは」
安心させてから奈落に落とすという手法は、俺は慣れているが日向には絶大なショックを与えたようだ。とはいえ、俺も少なからず衝撃を受けている。
本当に辞めるつもりなのか、この女は。
「どうして!? ようやく吹奏楽部も結果を出し始めているのに!」
「そうね」
日向に対しても、先ほど俺に向けて発した「そうね」を返す絵理子は、達観したような目をしている。
その眼差しに既視感を覚えた俺は、かつて「三年生が引退するのを見届けたら吹奏楽部は終わり」と彼女が言った時のことを思い出した。
「お前、もしかして最初から……」
つい口から出た言葉を慌てて飲み込む。
「さあ、もう出て行ってちょうだい」
これ以上波風を立てたくない絵理子は、僅かに微笑みながら退室を促した。
「先生! ちゃんと答えてよ!」
うっすら涙を浮かべながら日向が叫んだ。
「ねえ! 絵理子先生ってば!」
諦めの悪い日向に、絵理子のこめかみが少し震える。
「辞めるなんて言わないでよ! お姉ちゃんだってそんなこと――」
「あなたには関係ないでしょう!? 私が辞める頃には、あなたはもういないんだから!」
――耳鳴りがするほどの沈黙。
明らかに「しまった」という表情をしている絵理子と、悔しそうに唇を噛む日向。
「いない……?」
絵理子の言葉の意味が理解できない。
「お、おい。誰がいないって?」
二人は黙ったままだ。
「絵理子、日向に対して言ったよな? 日向がいなくなるってことか? いったいどういうことだよ」
絵理子ははっきり「あなた」という二人称を使った。対象は日向である。
「……はあ」
観念したように息を吐いたのは日向だった。
「絵理子先生の秘密を知っちゃったから、これでお互い様ってことね」
「……ごめんなさい」
軽口を叩く日向に、絵理子は心底申し訳無さそうに謝罪した。
「黙っていて、ごめんね?」
「な、何が?」
俺の背中を冷や汗が伝う。
「あたし、もうあまり長くないみたいなんだ」
「……は?」
「よくわからないけど、成仏するってことなのかな?」
どうしてそんな話を笑いながらするんだ。
「急になんだよ。どうせいつもの冗談だろ?」
反射的に返した言葉は、俺にとってもいつもの現実逃避でしかなかった。
「急に、じゃないよ。変に誤魔化してたけど、ここ最近あんたの前に現れなかったのは、単純にこの姿を保てなかったからなんだ。ごめんね」
「ごめんねって……」
薄々察してはいた。あれほど熱心に吹奏楽部の様子を見学していた日向が失踪するなんてよほどの理由なのだろう、と。地区大会にも来ないというのは、日向の性格を考えれば本来あり得ないことなのだ。
「でも、まだ全部中途半端じゃないか! 楓花だって目覚めてないんだぞ」
「うん。だから、完全には消えてない。ちょっと時間を置けばこうして見えるようになる」
「じゃあ、いつ完全に消えちまうんだよ!」
「さあ? もともと『吹奏楽部を復活させて欲しい』っていう曖昧な願いだから、どの時点で復活したと見做されるかなんてわからないよ。というか、あたしが満足すれば終わりかもしれないし」
「そんな他人事みたいに……」
愕然とする俺を、絵理子も悲痛な表情で見つめていた。
「絵理子は知ってたのか?」
「……ええ」
「どうして隠すんだよ!」
「ちょっと、絵理子先生を責めないで。あたしがお願いしたの。今が大事な時期だから。あんたも、吹奏楽部もね」
日向にそう言われると何も言い返せない。おそらく絵理子は、野球応援をした頃にはもう知っていたのだろう。
俺のメンタルが弱いから、気を遣ってくれていたのだ。
「コンクール前にあんたと会った頃に、この色に変わってたんだよね」
その場でくるりと一回転した日向が嬉しそうに言った。ワンピースのことか。
「状況が良くなってるからなんじゃないかと思って。オレンジってあたしが一番好きな色なんだ」
たしかにこれまでいろいろあったけれど、日向と出会った頃とは比べようもないほどに吹奏楽部の状況は好転している。
「……見届けるのはあたしの役目だからさ。絵理子先生も辞めるなんて言わないでよ」
そういえばこの話は、絵理子の退職騒ぎから始まったのだった。
「……」
だが、彼女は日向の言葉に何も返せない。
日向が側にいることが日常的な光景になっていた俺も、そう簡単に割り切れはしなかった。