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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第四章 夜明け ―― brillante
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第一話   成長の裏側で Ⅱ

 かつて日向が美月を激励した時に言ったセリフは「演奏会が成功すればもっと楽しくなる」というものだった。まだ新入生の勧誘活動をしていた頃に聞いた話であるが、なんだか遠い昔のことみたいだ。

 日向の言葉はいつもシンプルだけれど、だからこそその通りになると説得力を増す。

 これまでに成功を収めたコンサートや先日のコンクールを経て、部員達は確実に自信を得ているし、モチベーションも上昇し続けている。指揮者という、集団を統括する立場にある俺としては、奏者にやる気が漲っているこの状況に一切の不満も無い。

 それほどまでに部員が(良い意味で)頑張っていることは、周囲にも少なからず影響を与えた。実際、地区大会を一位で抜けたという絶対的な実績もあり、(良い意味で)周囲が吹奏楽部に対して物申しづらい雰囲気が醸成されていた。

 何故「良い意味で」という言葉を強調するかと言えば、春までの吹奏楽部とはあまりにも対照的だからである。当時も皆が頑張っていたことは間違い無いが、完全に方向性を見失っていたし、やること全てが校内風紀を無視した蛮行だった。そんな「悪魔達」に意見を言える者がいるはずもない。吹奏楽部はほとんど無視されていたのだ。

 この変化を「成長」と表現するのであれば、わずか数ヶ月でここまでの変貌を遂げた彼らには、まだまだ伸びしろがあるのだろう。

「――あなたにはもう成長の余地なんて無いでしょうけどね」

「なんでそんな、実刑判決の主文みたいなことしか言えないの?」

「あなたが嫌いだから」

「お前は本当に一貫してるよな……」

 部員のやる気を削ぐ者はいなくても、俺のメンタルをサンドバックみたいに殴り続ける者なら、誠に遺憾ながら目の前にいる。休暇に入ったのを良いことに、第三職員室(アジト)で堂々とタバコをふかす不良教師の絵理子である。

 俺の心はもともと荒れ果てた花壇みたいなものだ。ようやく花が咲きかけているのに、効き目抜群の除草剤をこれでもかというほど散布して、根本から腐らそうとする徹底ぶりには並々ならぬ執念を感じる。

「最初から土が腐ってるんじゃないの?」

「てめえが土壌汚染に一役買ってるって言ってんだよ」

「そう」

 まるで他人事のように紫煙を吐く絵理子を見ていると苛立ちが抑えきれなくなりそうだ。対岸の火事を引き起こした放火犯、みたいなサイコパス具合である。

「さっきから、何を意味のわからないことばかり言ってるの?」

「意味不明なのはお前が平気で喫煙してることだろ。いい加減にしないと懲戒免職でも食らうぞ」

「……うるさい」

 珍しく俺の言葉に動揺したのか、絵理子は吸い殻をぐしゃっと灰皿に押しつけて俺を睨んだ。

「いったいなんの用? 私の血圧を上げに来た訳?」

「いや、だからタバコで既に上がって――」

 バン、と大きな音が響く。調子に乗って指摘したら、彼女が思いきり机を叩いてシャットアウトしたのだ。「この人、教師なんですよ」と説明しても誰一人信じないような血走った目をしている。俺なんかよりもよっぽど実刑判決が似合うと思う。

「……なんの用?」

 果物ナイフの切っ先を向けられた記憶が蘇った俺は、大人しく本題を話すことにした。

「合宿の件は聞いたか?」

「ええ」

「急で悪いな」

「まあ、そういう話もあるかもしれないとは思っていたわ」

「……そうか。話が早くて助かる」

 役員達が立てた計画は、来週の中盤から二泊三日の合宿を開くという、意外にも普通かつ現実的なものだった。

 男子部員は講堂、女子部員は普通教室に布団を敷いて寝泊まりすることになる。寝具を揃えなければならないし、食事の手配だって必要だ。俺が高校時代の合宿で利用させてもらった近隣の銭湯がまだ営業しているというのは助かったが、とにかく宿泊という行為には入念な事前準備が不可欠である。

 だからこそ、絵理子にはフォローをお願いしたいのだ。なにぶん吹奏楽部という部活は性別の割合が女子に偏るので、絵理子がいるといないとでは大違いだろう。

「つまり、私もここに泊まれってこと?」

「そこをなんとか頼むよ」

「とんだブラック企業ね」

 手先で器用にライターをくるくると弄びながら絵理子は呟いた。こいつは本当に顧問という自覚が無い。まあたしかに、無給の時間外労働と言われてしまえば強制はできないけれど。

「ま、いいわ。夜の学校に大人があなただけって、どう考えても何か起こるとしか思えないし」

「始まる前からそんな不吉なこと言うのはやめろ」

「はいはい」

 絵理子は適当に返事をして、再びタバコを咥えた。

「――あ」

 大事なことを思い出して、つい俺の口から声が漏れる。

「……何?」

 喫煙タイムを邪魔されたのがお気に召さなかったらしく、絵理子は俺に湿った視線を寄越した。

「地区大会の順位のことを教えてくれた時に、すっかり聞きそびれてたんだけどさ」

「うん」

「県大会の演奏順の抽選って、表彰式のすぐ後にやるんじゃなかったっけ」

「……」

 カチッと、ライターを点火する小さな音が鳴った。

「おい、無視してんじゃねえぞ」

「う、うるさいわね」

 タバコを持つ絵理子の手が僅かに震えている。

「隠すつもりがあるならもっと堂々としろよ……」

 どうせまた言いづらいことを胸の内に秘めているのだろう。

 俺達が一位で抜けた衝撃もあったし、同日に行われた別地区の結果などを気にしていたので、演奏順については頭から抜けていた。俺は吹奏楽連盟においても部外者なので、表彰式も観客席で見ていたし、裏側の事情を全く知らない。

「また豪運を発揮したのか?」

 当然、プログラムの順番を決めるのはくじびきである。俺のセリフは言うほど嫌味ではない。地区大会の演奏順はほぼ最適な位置だったからだ。

「……ご」

 絵理子が何か言ったようだが、いつものように階下では金管楽器がパート練習をしているので掻き消されてしまった。

「なんだ?」

「……いご」

「は?」

「最後だって言ってんのよ!!」

「……」

 ある意味豪運だ。合同演奏会ではトップバッターを引き当てたと思えば、今度は大トリか。

 ふざけんな。

「お前、どうしてそういう大事なことを隠すんだよ……」

 なんだか脱力してしまって、近くにあった椅子に腰掛ける。絵理子はタバコを吸う気力も無くなったのか、ライターを灰皿の横に置いた。

 それにしても、最後か……。

「まあ、一番目よりはいいか」

 審査員はプロだ。それでも一日中音楽を聞き続けて採点していくというのは大変な労力である。とくに課題曲など、下手をしたら同じ楽曲を何度も聞く訳だ。俺は素人だし審査員の諸先生方の気持ちは全くわからないけれど、やはり疲労感を覚える前に聞いてもらいたいという思いはある。会場や審査員の耳が温まっていないトップバッターよりは全然マシであるけれど。

「ちなみに躑躅学園は?」

「午前の最後」

「いいなあ」

 羨ましそうに呟くと、責めているように聞こえたのか絵理子から殺気のこもった視線をぶつけられた。理不尽にもほどがある。

 そこで俺は、あることに気がついた。

「くじを引いたのって、智枝か?」

 その名前が出た途端、殺気がすっと消えた。

「……そうよ。あの子が引いた」

 気まずそうに絵理子が答える。

「智枝って、どんな感じなんだ?」

「どんな感じ?」

 尋ね方が漠然とし過ぎたのか、オウム返しを受ける。

「今までも顔を合わす機会はあっただろ? お前に対してはどういう態度なのかと思って。当時の話とかするのか?」

 俺の質問に対して、絵理子は首を横に振った。

「事務的な会話しかしてないわ。端から見れば、先輩と後輩には全く見えないでしょうね」

「でも智枝は、十年前の定期演奏会には出たんだろう?」

「……まあ、出たわね」

 どうしてそんな苦々しく話すのだろう。

「というか、俺がいなくなった後の吹奏楽部ってどんな雰囲気だったんだ?」

 自然に口から出た質問だったが、絵理子は一瞬目を見開いてから両手の拳を強く握った。

「今さらそんなこと聞くの? 結局あなたは、逃げた後のことなんてその程度くらいにしか思ってなかったってこと?」

 大バカ者の俺は、絵理子に指摘されてから失言だったと理解した。

 秋村恭洋という人間は、鬼ヶ島の目の前で「やっぱ帰るわ」とだけ言い残して消えた雉(猿でも犬でもいいが)みたいな奴なのだ。もしそんなクズ野郎に「結局鬼退治ってどうなったの?」と聞かれたら、いくら温厚な桃太郎だって怒り狂うだろう。普段から俺に敵意を持っている絵理子ならなおさらである。

 だが、絵理子は俺を罵倒するでもなく、諦めたように目を伏せた。

「……別に、大事件が起きたとか、そういうことは無かったわ。全員が針の(むしろ)の上で楽器を吹いているような居心地の悪い雰囲気が、私達の引退まで淡々と続いただけよ」

 それはつまり生き地獄ということじゃないか。

「……ごめん」

 俺は謝罪しかできなかったが、それが何に対するものなのか俺自身もわからなかった。絵理子は舌打ちだけ返して、再びライターを手に取ってくるくると回し始める。

 トラブルとかアクシデントというのは、俺の退部までがピークであったのだろう。しかし、亀裂が入るどころか粉々になっているレベルで部内の人間関係が修復不可能だったことは俺でもわかる。絵理子が言うことは本当だろうし、今になっても智枝と気まずいということもなんら不思議ではない。

「いろいろ思い出させて悪かった。でも、なんとか今は良い感じで進んでるんだ。引き続きいろいろとよろしく頼む」

 過去の逸話に救いが無いことは、最初からわかっていることだ。気分を切り替えるためにも、俺はもう一度現状に目を向けることにする。

「演奏順に関しては、まあポジティブに考えるよ。ただでさえ会場が近いから、かなり余裕を持って準備できるしな」

「……そうね」

「まずは合宿だな」

「ええ」

「あ、そうだ。八月のスケジュール表を一枚プリントアウトして欲しいんだけど」

 音楽室前の廊下の壁に掲示するカレンダーのことだ。部員達が好きなように記入できるよう、特別なイベント以外はほとんど真っ白である。

「ああ。――印刷したわ」

 パソコンを操作してくれた絵理子がそう呟くと、即座にプリンターが反応する。

「すまん、ありがとう」

 そのままプリンターへ移動したのだが、もともと印刷してあったコピー用紙が排出されたままになっているようだ。そこへ被さるようにスケジュール表が吐き出される。

「ん? 取り忘れか?」

 何気なく二枚のコピー用紙を手に取った瞬間、目にも留まらぬ早さで絵理子が俺の前に立ち塞がった。

「返して」

「は?」

「一枚、先に出てたでしょ。早く渡して」

「あ、ああ」

「早く!!」

 彼女の豹変ぶりに唖然としながら、俺は無意識にコピー用紙を表側に向けた。

「――え」

 そこに記載された文字が視界に飛び込んできたと同時に、絵理子が俺の手から紙をひったくる。

「用件は済んだでしょ? もう出てって。私は忙しいの。夏休みなんて、教師には関係無いんだから」

「いや、お前、ちょっと――」

「いいから出てって!!」

 狭い第三職員室に、絵理子の金切り声が響いた。

 有無を言わさずに退室を余儀なくされた俺がそのまま廊下へ出ると、ガチャリと内鍵を施錠する音が聞こえた。

 下の階から聞こえるはずのロングトーンが全く耳に入ってこないほど、俺は動揺していた。

 あの用紙は絵理子が印刷したものだ。第三職員室には彼女しかいないし、態度を見れば一目瞭然である。

 だからこそ、俺はどう受け止めていいのかわからない。

 ――そこに書かれていたのは「辞表」の二文字だったのだ。

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