第一話 成長の裏側で Ⅰ
完全に翡翠館高校を舐めていた他校の吹奏楽部の連中が地区大会の表彰式で唖然とした表情を浮かべていたのは、正直言って痛快でしかなかった。それはもちろん躑躅学園も同じことで、彼らが合同演奏会の際に翡翠館をバカにしていたという話が事実ならば、天誅が下ったとしか言いようが無い。
――何故なら、翡翠館高校吹奏楽部が地区大会を一位で抜けたからである。
コンクール翌日に絵理子が教えてくれたのだ。つまり、審査員が評価した技術点と表現点の合計が、地区大会の参加団体の中で最も高かったということである。二位の躑躅学園とは僅差であったらしいが、中部地区の吹奏楽連盟に激震が走ったことは想像に難くない。
俺としても、現場で他校の演奏を鑑賞した際の感想は「こんなもんか」という味気無いコメントだったのだが、まさか本当にその通りの結果になるとは思わなかった。
ちなみに躑躅学園の自由曲はレスピーギ作曲の『ローマの祭り』だった。まあ定番と言えば定番の楽曲である。
指揮台に上がった智枝を思い返すと、今でもなんだか複雑な気持ちになる。ただ、彼女も無理をして指揮を振っている感じは微塵も無かった。昨年支部大会に進んだ実績があるからか、むしろ自身満々な様子であったのが印象に残っている。
しかし俺からすればそれが少し鼻につくというか「上手でしょ?」と言われているような演奏だったのであまり聞き心地は良くなかった。『ローマの祭り』は、そういう着飾ったような上品さを必要とする楽曲ではないように思う。
「ほらね! やっぱり私達が一位だったのよ!」
図らずも先日音楽準備室で宣言した通りになったため、意気揚々と声を上げたのは淑乃である。
「これ、もっと上まで行けるんじゃないですか!?」
「美月ちゃん、はしたないよ」
飛び跳ねる勢いで淑乃に迎合する美月を諫めたのは萌波だ。
――田舎の学校は夏休みの始まりが遅い。七月最後の日曜日に開催された地区大会の翌々日にようやく終業式を済ませた我が校は、いよいよ明日から休暇に入る。
ホームルーム終了後、早速講堂に集まった部員達の様子を眺めながら、俺は壁際にぽつんと置いてあったパイプ椅子に腰掛けていた。
金管楽器の面々はわりと直情的な性格の者が多く、地区大会の余韻そのままにはしゃいでいた。
控えめな者ばかりの木管楽器群はというと、同じパートの仲間同士でこぢんまりと雑談を交わしている。マイペースなパーカッション達も珍しく談笑していた。
新入部員が入って来る前、いや、俺が初めて三年生達と顔を合わせた時には到底想像も出来なかった景色が、当たり前みたいに広がっている。
だが、この光景を最も目にして欲しかった者だけが、ここにいない。あのオレンジの少女は、地区大会の前に「期待してる」とだけ言い残して消えたままだ。
「――さん? 秋村さん!!」
ぼんやりと別の世界のことのように部員達を見ていた俺は、美月の呼び掛けで現実に舞戻された。
「秋村さんももちろん賛成ですよね?」
いきなり同意を求められても、俺は要領を得ない。
「……ごめん、なんの話だっけ」
「もう! こんなに盛り上がってるのにどうして聞いてないんですか。合宿ですよ、合宿!」
美月が満面の笑みを浮かべながら言った。
いつの間にか全員がこちらを見ている。美月の言葉は部員達の総意であるようだ。
「明日から夏休みですよ? 県大会前にやりましょうよ!」
引き続き皆を代表して声を上げる美月に、他の面々も頷いた。
「合宿、か……」
ずいぶん懐かしい行事だ。俺が現役の頃も、合宿は夏休みの恒例だった。十年前に様々な惨事が起きたのは二学期が始まって以降の話なので、合宿は良い思い出ばかり残っている。その頃も、この講堂で深夜まで楽器を吹いていた。せっかく日が落ちて気温が下がっても、近所迷惑にならないよう戸を締め切っていたのでみんな暑苦しそうな顔で練習したものだ。
「俺は構わないが、そんな簡単に決められないだろ」
「いいの!? みんな、やったね!」
セリフの冒頭しか聞いていない淑乃が即座に反応する。
「おい、そんなに耳がバグってるのにどうして生徒指揮者なんかやってんだよ」
「秋村さん」
淑乃に対する弾劾を受け止めたのは、意外にも部長の玲香であった。
「絵理子先生と生徒会には、私から交渉します。秋村さんは理事長先生のお許しを得てもらえませんか? スケジュールなどもこの後役員でしっかり話し合いますので」
「……」
玲香の提案に俺は違和感しか覚えないので、なんとなく気味が悪いものを見る目になってしまう。
「あの、秋村さん?」
「……お前、本当に玲香か?」
「は?」
いつものようにほとんど無表情で小首を傾げる仕草は彼女らしいのだが……。
「いや、お前の口から『交渉』とか『お許し』とか『話し合い』っていうワードがすらすらと出てくるとは思わなくて」
ちなみにお似合いのワードを挙げるとしたら「デモ」、「実力行使」、「破壊工作」等々である。
「……あなたを襲撃しますよ?」
ああ良かった。いつもの玲香だ。
……いや良くない。完全に感覚が麻痺している。
「わかったよ。明日から練習時間が長くなるし、今日はもうオフにしてしまおう。自主練習をしてもいいし家に帰って休んでもいい。それなら役員も話し合いやすいだろ。手伝いたい者は協力してやってくれ」
出会った頃は真っ暗闇だった部員達の目が期待に満ちているところを見てしまったら、とてもじゃないが断ることなんてできない。俺の指示を聞いた彼らは、高校生らしい陽気な歓声を上げた。
「ただし、合宿に参加する場合は必ず親御さんに了承を取ること! それから、準備をしっかりすること! 俺もバックアップするから、必ずこの二つは守れよ!」
「はい!」
この集団のことだから「じゃあ早速明日から合宿にします」などと頭のおかしいことを言ってくる可能性が非常に高いので、今のうちから牽制しておく。
それにしても、生徒から合宿を提案されるとは思わなかった。まあ休日練習はほとんど朝から晩までだし、いっそのこと学校に泊まった方が効率的かもしれない。
結局、この日も真っ直ぐ帰宅する部員は一人もいなかったが、それでも夕方になる前には解散となった。
日向が失踪してから時間が経つので、帰宅路や自宅で感じる孤独さにも慣れた。もともと十年も引きこもりだったのでそのくらい平気だ。
……そう自分に言い聞かせている時点で、寂寥感を覚えていると自白しているようなものかもしれない。
遠くでひぐらしが鳴いている。沈みゆく太陽が、街を鮮やかなオレンジ色に染めた。
いったいいつになったら、あの小娘は帰ってくるのだろう。