第十四話 夏霞 Ⅲ
どうやら合唱部は、九月の文化祭での発表以外に目立った演奏会が無いらしい。だからこそ、夏休み前後は最も活動をする時期であるとのことだ。
「今日は本当に助かりました。ありがとうございました」
練習を終えた合唱部はあっという間に解散した。最後に残った菜々花から改めて礼を言われる。今回伴奏した楽曲は初見でも弾けるくらい易しかったので、そうかしこまって感謝されるほどでもない。
「いや、俺も毎日同じ曲ばっかり聞いてたから、リフレッシュになった。ありがとう」
俺から謝辞を送られるとはつゆとも思っていなかったらしい菜々花が、急にびくびく震え始める。
「何か脅すようなことを言ったか?」
「い、いえ、ただでさえコンクール直前のところをご協力いただいたのに、そこまで言ってもらえてありがたいというか……」
「それなら怯えるなよ」
苦笑しながら突っ込むと、菜々花はぴんと背筋を伸ばして「はい!」と上ずった返事をした。この子はリアクションが独特過ぎるだけで、中身を気にするのはあまり意味の無いことなのかもしれない。
「それじゃ、またな」
合奏練習が控えている俺は、音楽準備室へ向かおうと背を向ける。
「あ、あの!」
「……まだ何か?」
つい不機嫌な口調で返してしまった俺を、菜々花は真っ直ぐ見つめていた。
「私達は吹奏楽部のこと、応援してますからね」
いきなり発せられたエールに、今度は俺が動揺する。
「どうして、そんな……」
「ゴールデンウィークが終わったくらいから、芽衣ちゃんがなんだか生き生きしてるんです。あんまり表には出さない子ですけど、きっと今が楽しいんだと思います。半年前のことを思うと、本当に良かったなって……」
部長の玲香は、三年生は友達も味方もいないようなことを言っていた覚えがあるが、全然話が違うではないか。
「合唱部は緩い部活ですけど、同じ音楽を嗜む者として吹奏楽部が本気で取り組んでいることくらいわかります。……実は以前、第一音楽室を合唱部が使うことになった時、私達は遠慮したんですよ。だけど玲香さんは『これがけじめだから』って、素直に明け渡してくれて……。私はみんなが言うほど、吹奏楽部の方達が悪い人とは思ってませんから」
ぎこちなく微笑んだ菜々花を見て、俺も自然に笑みが零れた。玲香が「けじめ」とか言うと、もうその道の人みたいな感じになるのだが、あいつらしいエピソードではある。
「そうか。じゃあ、期待に添えるよう頑張るよ」
「はい。もし私達にも何か出来ることがあれば言って下さい。……たいしたことはできないかもですが」
「ありがとう。気持ちだけでも嬉しいよ。じゃあ、俺はこれで」
「はい。こちらこそ今日はありがとうございました」
――音楽準備室に戻ると、一部始終を見ていたらしい日向がにやにやしていた。
「よかったね、応援してもらえて」
「あ、ああ……」
「何、そのクソつまらないリアクションは」
「慣れてねえんだよ!」
指揮棒やスコアを準備しながら叫ぶと、日向は肩を竦めて「やれやれ……」と呟いた。こっちのセリフだ。
「コンクールまで、あと五日か……」
「そうだな」
「あたしも期待してるから、頑張って」
「なんだ、お前にしては珍し――」
振り返ると、日向の姿が見えない。
「おい、日向?」
虚空に問い掛けても応答は返ってこなかった。
「あいつ、また……」
胸騒ぎを覚えた瞬間、ポケットの中のスマホが振動した。はっとして時計を見るともう合奏開始の時間である。きっと催促に違いない。
俺は慌てて音楽準備室を飛び出した。
♭
――そして、とうとうコンクールの当日がやって来た。
合同演奏会のクオリティを踏まえると、他校にとって翡翠館高校は完全にノーマークであった。
プログラム五番の翡翠館高校の前に演奏する四校も、事前の情報で金賞候補の学校ではなかった。
目立ったトラブルも無く充分な準備をした我が校は、あの散々な『メリー・ウィドウ』の演奏を上書きするが如く、同じステージ上で完璧な演奏をしてみせた。
自分達のイメージする最も良質なサウンドを、聴く者全てに届けようとする奏者達の意思が、俺を通して客席に伝わった手応えがあった。もちろん、審査員にも届いたはずである。
自由曲が終わって全員が立ち上がってもすぐに拍手が起きなかったのは、恐らく場内の全員が呆気に取られるほど圧巻の演奏だったということの証明だろう。
出番が終わると、俺と部員達はその後のプログラムを鑑賞した。だが、贔屓目無しに俺達の演奏が一番良かったのではないかと思えた。強いて言えば、やはり躑躅学園のレベルが高かったのは事実であるが。
そして表彰式では、ほぼ思った通りの結果が知らされることとなった。
翡翠館高校は見事に金賞を獲得したのだ。
プログラム順で言うと、我が校は金賞団体の一校目であった。地区大会においてダメ金(上位大会に進めない金賞)の団体が発生することはほとんど無い。翡翠館高校は順当に地区代表の切符も掴み取った。
ありがたいことに、祝福の声は様々な人から贈られた。しかし、俺にとって地区大会は通過点でしかない。その思いは部員達にとっても同じだろう。
県大会は八月の二週目に開催されることが決まっている。
俺は安心する訳でも、気を緩める訳でもなく引き続き練習に取り組む意気であった。
――だが、県大会までの三週間弱に及ぶ期間が、俺と吹奏楽部にとってこれまでにないほど厳しくつらいものになるということまでは、俺はこの時想定していない。
地区大会を突破しても目覚めることがない楓花。昨年の自身の成績を簡単に越された絵理子。
予想だにしない結果を受けて苛立つ智枝。そして、結局地区大会に姿を現さなかった日向。
俺が目を背けてきた事象は、そのまま逃げ続けられるほど甘い物ではなかったのである。
地区大会を終えた吹奏楽部は、勢いそのままに灼熱の夏休みへと向かう。……いや、夏休みという安穏とした言葉は似つかわしくない。
俺達は、さながら『ワルプルギスの夜』のような悪夢へ突入していくのである。