第十四話 夏霞 Ⅱ
「お前……」
入口に立っていたのは、久しぶりに姿を現した日向であった。
「じゃーん。どう?」
おどけたように話しながら、日向はその場でくるりと一周回った。出会ってからずっと同じワンピースを着ていた彼女だが、色が真っ黒から鮮やかなオレンジに変わっている。
「……目がチカチカする」
「あ? 呪われたいの?」
「今も呪われてるみたいなもんだろうが!」
……そう言ったものの、一週間以上も失踪していた彼女の姿を見てどこか安心する自分がいる。
「ずいぶん優雅なお着替えですね」
「ちっ」
大きく舌打ちをした彼女には、清楚さの欠片も無い。
「悪かった。似合っているよ」
「それはどうも」
よく見ると、生地もコーデュロイからリネンに変わっている。今さら感もあるが、衣替えのつもりだろう。
「で、どこに行ってたんだ?」
「あー。まあちょっと、旅にね」
「またそれかよ」
「で、さっきの話だけど」
「ん?」
「地区大会は抜けられるって」
「……ああ。たぶんな」
「それをあの子達に言っちゃってもいい訳?」
腕を組みながら日向が問い詰めてくる。端から見れば、たしかに油断をしているとしか思えないかもしれない。
「去年のコンクールも、この前の合同演奏会も、部員達にとっては失敗続きだろ? 『このままだとまた地区大会で終わるぞ!』って脅したところで余計にプレッシャーがかかるよ。それに、コンクールを抜けられると思っているのは事実だしな」
「どうして?」
懐疑的な視線をぶつける日向に、俺はかいつまんで説明をする。
「OBが直接指導しているのって、低音パートとパーカッションだよな?」
「うん」
「正直、これがめちゃくちゃでかい。課題曲はマーチだろ? この二パートが安定するだけで、完成度に歴然とした差が出る」
昨年のコンクールでも、唯一まともだったのがパーカッションパートである。そもそも、メトロノームも無しに『ボレロ』のリズムを叩き続けられる紅葉や、マレット捌きが変幻自在の誠一郎がいるのだ。そんな化け物みたいな奏者がそのままスネアドラムやティンパニを担当しているのだから、安定するに決まっている。しかも今回選んだ課題曲は演奏時間が短く、大崩れするポイントも少ない。
「それと自由曲に関しては、みんなの執着がヤバい」
「ああ……」
これについては以前も日向と話をしたことがあるので、彼女もすぐに納得した。
自由曲の『ワルプルギスの夜の夢』はところどころにソロが散りばめられているが、もちろん担当するのは三年生なので全く不安が無い。そして、やはりここでも低音と打楽器の安定感が物を言う。指導を行う俺や京祐や絵理子が、みんな『幻想交響曲』をよく知っていることも大きい。俺達がコンクールで演奏したのは『断頭台への行進曲』だが、京祐によるとどうやら全国大会後に開かれた定期演奏会で、『ワルプルギス』も演奏したようなのだ。既に退部していた俺はそんなこと全く知らなかったけれど、今回俺が自由曲にこの曲を選んだことが数奇な縁だったのだと改めて実感する。
淑乃も頑張って基礎合奏をしてくれているので、フォルテでロングトーンをするだけでも講堂がビリビリ振動するまで音量や音圧のレベルが上がった。おかげで『ワルプルギス』のフィナーレは圧巻の出来に仕上がっている。
「じゃあ、今度こそあのホールで安心して演奏を見られるってことだね」
安堵の笑みを浮かべながら日向が呟く。
今年のコンクールの会場は、合同演奏会が行われたあの文化会館であった。ちなみに県大会も同じ場所と決まっている。地区大会はともかく、県大会ともなれば各地区の会場のどこが指定されても不思議ではない中、たまたま今年は中部地区の会場の順番だったようだ。翡翠館高校としては、近いというだけで願ったり叶ったりである。
「あとは、あんたのメンタルが崩壊しないことを祈るだけってことか」
「……大丈夫だよ」
「本当に?」
「……たぶん」
自信無さげに俺が答えた刹那、日向から詰め寄られる。綺麗なオレンジ色だな、と呑気なことを考えていたら右手をつねられた。
「痛えな!」
「たぶん、じゃ困るんだよ」
鋭い日向の視線は、先ほどの殺気立った淑乃を彷彿とさせた。
「翡翠館の出番は?」
「十四校中、五番目だけど」
「躑躅学園は?」
「たしか、最後から三番目だったような」
「……それなら、まあ大丈夫か」
一歩引いた日向は難しい顔をしながら思案している。
それだけ演奏順が離れていれば、今度は鉢合わせることもないだろう。俺が智枝と会うのも問題だが、部員同士が顔を合わせたら一触即発の空気になりかねないので、今回ばかりは絵理子のくじ運に感謝した。先ほどの淑乃と美月の様子だと、けしかけるのはこちら側になるだろう。せっかく良い演奏をしても場外乱闘で台無しになったら、今後の吹奏楽部の予算云々の前にまた廃部の危機が訪れてしまう。
「さて、パート練習の様子でも見に行こうかな」
あまり他校を気にしていても仕方が無い。智枝の件についてはいつまで経っても現実逃避だが、日向はそれ以上何も言わなかった。
――すると、音楽準備室のドアをノックする音が響いた。
「はい?」
つい語尾が上がってしまったのは、単純に違和感を覚えたからである。吹奏楽部の部員なら、最近はノックなどせず勝手に入ってくるのが当たり前になっている。つまり、わざわざ扉を叩くということは吹奏楽部の関係者でない可能性が高い。それにノックされたのが第一音楽室と繋がるドアだったのも、これまでに無いことであった。
「……失礼しま、ひっ」
俺と目が合った瞬間に小さな悲鳴を上げたのは、メガネを掛けた気の弱そうな女子生徒だ。
「あの、どちら様でしょう?」
なるべく穏やかに問い掛けたのだが、彼女はドアを半開きにしたままびくびく震えている。
「……音楽準備室に用があるのか? 俺はもう出るところだよ。悪かったな」
「あ、あ」
見ているこちらが不憫に思えるほど、その女子生徒は動揺していた。まだ新入生を勧誘していた頃の萌波を思い出して、場違いにも懐かしさを感じる。
そのまま廊下側の出口へ向かう俺の背中に「待って下さい!」という声が届く。
「あの、私は八神菜々花と言います……。合唱部の部長をしてます」
「合唱部?」
そういえば第一音楽室は合唱部の部室なのだった。吹奏楽部が講堂をメインで使うようになってからは、失礼ながらあまり気にもしていなかった。日向も部屋の隅で怪訝な顔をしている。
「あなたがあの秋村さん、ですよね?」
「どの秋村さんか知らんが……」
「特権階級のように校内を徘徊しているっていう……」
どうしてよりにもよってその情報なのだろう。生徒会の偏向報道が浸透しているのは、俺にとって損でしかない。
「なんでもいいけど、たしかに俺は秋村だよ」
「ほおお……」
名乗っただけなのに、今度は感嘆の声を漏らされる。この菜々花という生徒のことがいまいちよく掴めない。
「あ、私、芽衣ちゃんと同じクラスなんですけど……」
「芽衣? 芽衣って、あのギャルのことか?」
「ええ、その芽衣ちゃんです。一番仲が良いんですよ」
「制服を着崩して、まあまあ化粧も濃くて、口が悪いあの芽衣と、君が?」
つい思ったことを口にした俺に対して「本人に聞かれたら絞め殺されるよ」と日向が呟いたが、たぶん来ないだろうから聞き流すことにする。
実際、目の前にいるインテリインドア文学少女みたいな菜々花と、あのギャルが一緒にいる空間というのがあまりイメージできない。
「芽衣ちゃんは、見た目は怖そうだけど優しい子ですよ……」
「そ、そうか。まああいつに吹奏楽部以外の友達がいて良かったよ。で、用件は?」
「秋村さんって、ピアノ弾けるんですよね? 芽衣ちゃんが言ってました」
「ああ、まあ多少な」
「……実は、今日の活動に参加する予定だった伴奏の子が、体調不良で早退してしまいまして」
菜々花は物凄く悲しそうに目を伏せた。
「夏休み前の最後の活動だったので、みんな楽しみにしてたんですけど……」
「……俺に伴奏を頼みたいってことか」
なんとなく察したので先回りして尋ねると、菜々花がいきなり九十度に腰を折る。
「今日だけ、お願いできませんか。六時前には終わる予定なんですけど……」
日向の方に目を遣ると「弾いてあげれば?」と簡単に返された。
「わかった。付き合うよ。楽譜は?」
「あ、ありがとうございます! ではこちらへどうぞ!」
ようやく笑顔を浮かべた菜々花に招かれ、俺は第一音楽室へ入っていった。