第四話 迷走するブラスバンド Ⅲ
ドアを開け入店した絵理子に続くと、控えめなウインドチャイムの金属音と、甘美なピアノの音色が耳を擽った。そのまま店内の様子を見回す。五席あるカウンターテーブルの奥に、ボックス席が二組。先客は誰もいない。
「こんにちは、マスター」
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でカップを拭き上げていた初老の男性が絵理子の挨拶に応じる。
「こんなところにカフェなんてあったか?」
「ちょっと前に出来たの」
マスターにはにっこりと笑みを向けたくせに、俺に対しては相変わらず無愛想な口調で絵理子が答え、そのままボックス席へと向かう。
こざっぱりと配置された什器は手入れが行き届いており、格調が高過ぎず、かと言ってカジュアルにも振れ過ぎない絶妙なセンスの調度品や装飾品は嫌味が無い。BGMも自然な音量で心地が良い。壁に沿って置かれた棚には大量のCDと本が並んでおり、下手すれば一日過ごせてしまえそうである。席に着くとブラームスのクラリネット五重奏曲が流れ始めた。重厚な旋律がしっとりと奏でられ、店内に落ち着いた雰囲気をもたらしている。ボックス席の壁に嵌まった窓からは、外の景色を眺めることができた。建物の両側は住居に挟まれているが、裏手は歩道になっているようだ。
俺と絵理子がそれぞれブレンドを注文すると、マスターは足音一つ立てずにカウンターへ戻っていく。一流の執事のような身のこなしだ。カウンターの中でも無駄な挙動は無く、一分と経たずに飲み物が運ばれてきた。模様の入っていないソーサーと、縁に金色の線が一本入った真っ白のカップ。淹れたてのコーヒーをそのまま一口啜ると、芳醇な香りが鼻から抜けた。
「じゃあ、まずは吹奏楽部の現状を確認したいんだけど」
俺達が一服するのを待ってから、手持ち無沙汰にしていた日向がそう告げた。
「俺のことは?」
「あんたなんか後回しでいいよ。優先順位の最下層なんだから」
「……帰っていい?」
「ダメ」
最下層の力を借りようとすることにプライドは無いのだろうか。
「というか、絵理子は俺の力なんて借りたくないだろ。そもそも俺だっていまだに何をするかわかってねえし」
「あんたが先生の代わりに指揮を振って、吹奏楽部が無くなるのを防ぐんだよ」
楓花の病室でも聞いた言葉であったが、さらっとお願いされるような内容じゃない。
「お前な。俺みたいなどうしようもない人間に、組織の存亡をどうにかできる力があると思ってんのか? 卵を買いに行くなら牛乳も一緒に買ってきて、くらいのテンションでお願いするなよ」
「ちょっと何を言ってるか意味がわからない」
「お前の方が意味わかんねえんだよ!」
この小娘は俺を発狂させるために現れたのだろうか。
「おい絵理子。お前の教え子に、俺のろくでもなさを教えてやれよ」
「あなた、自分で言っていて情けなくないの?」
「別に」
「その返事だけで十分でしょ」
俺にはプライドなど欠片も無い。そもそも他人と接しないのだから当たり前の話である。
「わかったわかった。じゃあ、せめて指揮者はやってよ」
「何が『じゃあ、せめて』だ。譲歩された気が全くしねえよ」
「うるさいな。大人しく引き受けなよ」
日向は絶対交渉事に向かない人間だと思う。あまりにも力業が過ぎる。
「逆に、なんで俺なの?」
「そんなの決まってるじゃん」
日向は、バカにしているのかとでも言いたげに俺を見つめた。
「翡翠館高校吹奏楽部が全国大会に出場したのはたった一回だけ。それが、あんたが生徒指揮者を務めた十年前でしょ」
……それはたしかに事実である。我が校は支部大会こそ常連であったが、他県の強豪の壁を破ることはなかなかできなかったのだ。金賞を獲得しても全国大会には進めない。いわゆる「ダメ金」が最高成績であった。
「それは俺の功績じゃない。顧問と、絵理子や他の部員の成果だよ」
コーヒーを一口啜って、思い出しかけた苦々しい記憶を塗り潰す。そこで、ふと疑問が沸いた。
「絵理子、お前が顧問ってことは、芳川先生はどうしたんだ?」
「あなたそんなことも知らないの? とっくにいないわよ」
俺は純粋に驚いた。俺達の恩師である芳川功雄は、翡翠館高校吹奏楽部の黄金期を作り上げたレジェンド顧問である。基本に忠実に、表現は豊かに。言うのは簡単でも、高校生にとっては決して当たり前にできることではない。が、各年度のメンバーの音色からストロングポイントを抽出して徹底的に磨き上げ、最も映える選曲を行うことで色彩鮮やかな作品に仕上げていくその手腕は見事なものであった。
「とっくに、って……。いつからだよ」
「私が翡翠館に採用された年の年度末」
「辞めたのか?」
「違う。転勤」
私立なのに転勤とは珍しい。だが絵理子の言い方だと、彼女と芳川先生は入れ替わりだ。最悪のタイミングである。
「そうか……」
御愁傷様と思ったが、同情しても逆恨みを買いそうなのでそれ以上の発言は控える。
「あんたさ。あたしが何も知らないとでも思ってんの?」
顧問の話題がすぐに終わってしまったので、俺を挑発するように日向が声を上げた。
「生徒指揮者が無能な吹奏楽部が、全国大会まで行ける訳無いじゃん」
「出会ってから俺を貶し続けてきたくせに、都合の良い奴だな」
「恭洋、とぼけても無駄よ」
絵理子が口を挟む。
「日向は、部長だった楓花の妹。その楓花に憧れて吹奏楽部に入ったんだから、当時のことを知らないはずがない」
絵理子に諭されて、俺は思い出した。そもそも日向は俺の素性を網羅していたのだ。無駄口を叩いて時間稼ぎをしても、なんの意味も無い。
「秋村恭洋は、歴代最高の生徒指揮者。そして、歴代最悪の部員」
日向が口にした言葉で、先ほど無理やり押し込めた苦い記憶が再び噴出した。
「他の部員もみんな知ってるよ。代々語り継がれてるからね」
「マジか……」
目立つことをしてしまった自覚はあるが、十年経っても消えていないとは思わなかった。ただ、それならなおさら日向の依頼は引き受けられない。
「他をあたってくれ。今さら俺にできることなんて無いよ」
カップを空にした俺は、席を立った。
「――また逃げるんだ」
テーブルに背を向けた瞬間、日向の言葉が心臓を貫く。その声は、まるで楓花が言っているようにも聞こえた。
俺は無意識に右手の拳を握りしめていた。