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落日に寄せる憧憬

 エンターテインメントという言葉を、単に「娯楽」や「見せ物」と訳すのは軽薄なことだ。人々を楽しませるものであるという点について異論は全く無いけれど、それは一面的な理解に過ぎない。

 もっと広い解釈で言えば、エンターテインメントとは人間の心を突き動かすものである。享受する側にとって「楽しい」だけが感情ではない。スポーツ観戦で贔屓チームが負ければ悔しいし、バッドエンドの映画を鑑賞した後は胸糞悪い気分になるし、大根役者の舞台には野次が飛ぶ。もちろんエンターテインメントを提供する側が素晴らしいパフォーマンスをすればするほど、人々は感動するし、幸福な気持ちになるし、一生忘れ得ない記憶として脳に焼きつくこともあるかもしれない。

 人間の感情など、到底一言では言い表せないのだ。だからこそ、そんな不安定で多様性に富む人間の感情に直接働きかけられるエンターテインメントを「娯楽」などという気休め程度の言葉で表現するのは惜しい。

 そんなエンターテインメントの中で、最もポピュラーなジャンルは「音楽」だろう。言うまでもなく、有史以来脈々と受け継がれてきた音楽という芸術は、どんな時にも人間の感情と共にあった。生活、宗教、風俗や文化が違っても、音楽が存在しないことは無かった。これが何故なのか、そんな学術的で哲学的なことはわからない。ただ一つ言えるのは、人間が存在し続ける限り音楽は無くならないだろうということである。

 だからこそ、もし自らが音楽を提供する立場に回るのであれば、それは聴衆の心に届かなければならない。聴衆の鼓膜が振動すれば良いのではない。

 どんな種類の音楽も、録音という技術が発達した現代においては、自分が好きなアーティストの楽曲を、好きな時間や場所で聞くことができる。完成されたミスのない演奏を、媒体により差異はあれど良い音質で聞けるというのはあまりにも素晴らしいことだ。いくらそれがビジネスで、完成されているのが当たり前のことであるとしても。

 では、何故ライブは無くならないのだろう。いや、無くなるどころか、場合によってはチケットすら取れないこともある。

 ……まあ、そんなことは改まって「何故だろうか」などと問うまでもなく、(ナマ)の音楽の方が感動するからに決まっている。つまり、聴衆も自らの心で音楽を受け取ろうとしているということである。そして、感動することに期待している。それは演者がプロでも素人でも、場所がコンサートホールでも路上でも、一緒なのだ。

 もちろん、演者が高校生で、ジャンルが吹奏楽であっても、それは同じことである。高等学校の部活動において吹奏楽部はメジャーな部類であるし、活動の多寡は学校によって違うけれど、演奏機会があれば聴衆は集まる。

 だが、技術的にも人間的にも未熟な高校生達が「聴衆は感動することに期待している」ということを理解するのに、三年という期間はあまりに少ない。実働期間を踏まえればなおさらである。

 そもそも、楽器を演奏するというのは大変なことだ。その上で楽譜を読み、作曲者や指揮者の指示を守り、自分なりに表現しようと試みればそれだけでもいっぱいいっぱいなのに、周囲と音を合わせることまで意識を割いたら聴衆のことなんて頭に入れる余地は無い。

 吹奏楽に登場する楽器達は、基本的に単独で和音を出せない。発音についてだけ言えば、ピアノを指一本で弾くのと同じである。ハーモニーを奏でようと思ったら、楽器の種類と人数を増やす以外に方法は無い。が、人数が増えれば音程やタイミングはズレるし、奏者の力量や性格といった要素一つで演奏はバラバラになる。

 楽器を完璧にコントロールでき、耳が肥えて周囲とのアンサンブルにストレスがほとんどかからない領域まで上達すれば聴衆のことまで気を回す余裕も出るだろうが、そんなものはただのプロだ。

 ――さて、この物語の舞台は片田舎にあるごく一般的な私立高校である。この学校にも吹奏楽部があり、かつて一度だけ吹奏楽の甲子園――全日本吹奏楽コンクールの全国大会へ出場したことがあるほどの古豪だ。全盛期の部員達は、ある意味で「自己」を捨てていたと言える。演奏技術が上達することや楽曲を完奏することよりも「どうすれば聴衆が感動するか」を優先した。万雷の拍手を受けるためにはどうすればいいか、部員全員が思考を尽くした。聴衆が満足するために、奏者の上達が必須なのは当たり前のことだ。完奏できないなど論外である。手段と目的の認識が全員一致していたからこそ、全国大会を掴み取れたのかもしれない。

 私は、その当時の部長を務めていた。今は訳あって音楽から遠ざかっている。

 では、高校を卒業して十年経った今、当時の自分が職責を果たせたと言えるかというと、全くもってそんなことは無い。

 私達は最後の最後で、聴衆を捨ててしまったから。

 大切な仲間が去ることすら、止められなかったのだから。

 全盛期を過ぎた吹奏楽部は、その後没落の一途を辿ることになる。

 けれど、たしかにあの当時、私達の音楽は聴衆の心に届いていた。「エンターテインメント」だった。それだけは間違い無い。

 だからこそ、私は願ってやまない。「エメラルド」と評された当時のサウンドが、再び聴衆を魅了する日が来ることを。

 ――十年の月日を経て、もはや崩壊しかけている吹奏楽部の前に現れたのは、かつて「死神」と呼ばれ、自ら決別の道を選んだ一人のOBである。

 トドメを刺しに来たのかと思われても仕方のない人物であるが、もちろん違う。他人とのコミュニケーションをほとんど取らず、生活力も無く、暗い人生を送っているせいか悲観的な性格であるこの人物にいったい何を期待しているのかと問われれば、残念ながら私は愛想笑いで誤魔化すことしかできない。

 しかし、こと音楽に関して、私は彼を信頼している。彼がもう一度指揮台の上に立つことを待ち望んでいる。

 だから、今度は最後までタクトを振って欲しい。再び吹奏楽部と邂逅した運命を受け入れて欲しい。

 たとえこの先、現実とは思えない幻想のような日々が待ち受けていようと。避け続けてきた他者との交わりに心が折れそうになろうと。

 どんな苦難を抱えている人間にも寄り添ってくれるのが音楽だから。

 そんな音楽を提供できる喜びや幸せを、あなたが思い出したとき。

 ――きっとまた、エメラルドは輝くから。

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