アメリアの実家に起きた異変
一方その頃、遠く離れたアメリアの生家、ファース侯爵家。
晩餐会は葬式のような重苦しい空気が流れていた。
テーブルを囲むのは四人――家長席にファース侯爵、そしてその右斜め前がファース侯爵夫人。
家長の左斜め前には養女のジェマが着席し、その隣の席には婚約者のカイルが腰かけている。
スープを飲もうとしたファース侯爵夫人が、けたたましい悲鳴を上げてスプーンを放り出した。
「おい、どうした!」
親切な気遣いもなく夫が怒鳴りつけ、妻は半狂乱でわめく。
「スープにゴミが入っているわ……! もうやだ……!」
使用人が小走りに近づいて来て、スープ皿を回収してキッチンに下がる。
全員がげんなりしてスプーンを置いた。このところ、こんなことばかりが続く。
ファース侯爵はイライラしながらナプキンで口元を拭った。
「コックのミスだが、お前もいちいち騒ぐな!」
「だってあなた――」
口喧嘩をしていると、天井からパラパラと大きなゴミが降ってきた。煤のような砂のような、得体の知れない黒い何かだ――皆不安げに天井を見上げるも、白い漆喰塗りの仕上げはつるりとしていて、特におかしな点は見つけられない。
……どこからこの黒いゴミが……? 皆ゾッとして嫌な気持ちになった。
ファース侯爵が八つ当たりぎみに使用人を怒鳴りつける。
「おい、屋敷の掃除はちゃんとしているのか! 手抜きをしているから、天井にゴミが溜まっているんだろう!」
「そ、そうよ――手抜きよ! 使用人全員のお給金をカットしましょうよ、あなた! だって仕事をしていないんだもの!」
「ああ、そうだな!」
プリプリと腹を立てる夫妻。
対し、客人のカイルは冷めた目つきで彼らを眺める。
カイルは人一倍賢いつもりでいるので、『ヒステリーを起こしてみっともない……使用人がこれでヘソを曲げて全員辞めてしまったら、彼らはどうするつもりなのだろうか』と考えていた。カイルは他人事のように皮肉っているが、自分が婿入りして将来的にファース侯爵家を継ぐ立場であることを、都合良く忘れている。当事者意識が低い。
そして給金カットの話が出たことで、我慢の限界を超えた人物がひとり――それは侍女頭のグリアだ。
怒り狂ったグリアは顔中におそろしい縦皴を刻み、壁際から進み出て来た。勝手を言う夫妻を睨みつけながら口を開く。
「お言葉ですが、ご主人様、奥様――天井からゴミが落ちてくるのは、使用人のせいではありません」
「じゃあ誰のせいだっていうの……!」
ファース侯爵夫人がキンキン声でわめく。
以前は仲良しだったふたりも、今はこのとおりだ。夫妻は嫌なことがあるとすべて使用人のせいにするので、そうされるとグリアはプライドを傷つけられ、あるじに敵意を向ける。
――侍女の身分から養子へと格上げされたジェマは、イライラしながらこの喧嘩を見物していた。
馬鹿馬鹿しい――食事の席くらい大人しくできないの、頭が悪いわね!
なんでこんな馬鹿どもと食卓を囲まなければならないのだろう……ジェマは舌打ちしたい気分だった。養子入りして目障りなアメリアを追い出し、身分的にはランクアップしたはずなのに、全然勝った気がしない。
アメリアがいなくなってから、家の空気はずっとギスギスしている。
ファース侯爵家の人々は、これまではアメリアを見下すことで一致団結し、仲良くやってきた。人というものはどうやら、複数の相手に同時に腹を立てるのは難しいようである。アメリアに対してまず怒りの感情を使ってしまえば、仲間に対しては寛大になり、粗探しをする気も起きなかった。
ところが。
イライラを発散する相手がいなくなった途端、互いの嫌な点が気になり始める。子供じみた彼らは、他人の欠点探しが三度の食事よりも好きなのだから、その衝動が消えてなくなることはない。
そしてこのところトラブルばかり起きるので、イライラは溜まる一方だった。
「……アメリアがいればな……」
カイルはうっかり口に出してしまい、ハッとして押し黙った。
まずい……思っていても口に出すべきではなかった。
シン……と食卓に沈黙が落ちる。
ファース侯爵夫人は不貞腐れ、ナプキンを指でよじった。
「そうですよ……アメリアがいれば、こうなっていなかったかも」
「お前……」
ファース侯爵が責めるように妻を見遣る。
なぜだ……元々はお前が娘を遠くにやりたいと言い出したのだろう? 俺はアメリアのことをそんなに嫌ってはいなかった――なんせ実の娘なのだからな!
ファース侯爵は皆がアメリアを蔑んでいた時に、『なんでこんな出来損ないが娘なんだ』と同調していたくせに、都合良くそれを忘れている。
ファース侯爵夫人が紅を引いた唇を歪めた。
「アメリアには不思議なところがありましたよ。せっかく夜会に出たのに、爵位の低いみじめな中年貴族と夢中でお喋りをしていると思ったら、あとで『半年後に小麦の値段が上がるみたい、あの方に教えていただいたわ』と報告してきたことがあったでしょう。わたくしたちは信じなかったけれど、その後そのとおりになった――ええ、そういうことが『何度も』あったのよ。周りの全員がそれを気味悪く感じていましたけれど、今ここにあの子がいたら、この屋敷の怪現象を解決できる誰かを連れて来てくれたかもしれないわ」
耳を傾けていたカイルは奥歯を噛んだ。
……確かにそうだ。
アメリアにはそういう不思議なところがあった。
社会的に尊敬されていない相手でも偏見を持たず、重要な話を聞き出してくる。お喋りが好きだからそれができるという単純な理由ではなく、彼女は得た情報の取捨選択が上手だった。肩書に騙されずに一流を見抜く目を持っていて、人脈作りにかけては天才的な才能があった。
けれどそんなふうにアメリアに活躍されると、周囲は屈折した気持ちになり――いつしか彼女のことを疎ましく思うようになった。『アメリアと違って、お前は人を見る目がないからな』と馬鹿にされている気分で。
もちろんアメリアはそんな失礼なことを考えたりしない。
そのあざける声は、自分自身の内なる声だ――自信がないからこそ、勝手にアメリアと比べ、劣等感を覚える。そしてそれが悔しいから、アメリアを馬鹿にしてこきおろすことで、自分が立派であると思い込もうとする。
しかしこうしていなくなってみると、やはりアメリアの抜けた穴は大きい。
……ジェマに代わりは務まらない……。
カイルは無意識にジェマを見下すような顔つきになっていた。
それに気づいたジェマは気が狂わんばかりの怒りを覚えた。
何よ……何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ何よ……なんでカイルは最近、私を冷ややかに見るの? なんであまり抱かないの? 結婚前だから遠慮しているだけ? アメリアには手を出さなかったけれど、私のことは婚約してすぐに抱いたじゃない。私のことが好きだからでしょう? じゃあなんで毎日抱かないの? 私、可愛いでしょ? 裸だって綺麗でしょ? アメリアの裸は見たことがないけれど、私だって綺麗なはず――アメリアよりたぶん――ああだけど本当に? アメリアは顔も可愛かった……脱いでも私より綺麗かも……でもカイルはそれを見たことがないし知らないんだから、大丈夫よ……カイルは私に夢中なはず。
グルグル考えるうちに吐き気がしてきた。
ジェマは混乱しながら口を開く。
「こ……こんなふうにトラブルが続くのは、アメリアのせい……かも」
「え?」
皆が訝しげにこちらを見る。
口に出してみて、ジェマは久しぶりに高揚感を覚えた。
そうよ――前はなんでもアメリアのせいにして、一致団結してきたじゃない! 今度だってそうすればいいのよ!
「そ、そう――アメリアは旅立つ前に、禁足地に入ったわ!」
それを聞き、ファース侯爵夫人が顔を顰めた。
「ええ、あなたから以前その話は聞いたわ。だけど」
「そのせいよ、天井からゴミが降ってくるのは、土地の神を怒らせたからよ!」
「でも……アメリアが出て行った翌日はなんともなかったし」
「それは――ええと、アメリアが何か大事な――そう、大事な『護り石』とか、そういうものを無断で持ち出したのかも。数日は護り石の効果が残っていたけれど、現物をアメリアが持ち去ってしまったから、段々と悪いことが起き始めたの」
「え? 護り石? ねぇあなた、そんな話を聞いたことがある?」
尋ねられ、ファース侯爵は怒ったように首を横に振った。
「いいや、そんなものはないはずだ」
「でもアメリアは禁足地に入って見つけたのかも。だって魔女だから」
魔女……ふしだらな魔女め……! 侍女頭のグリアが目をギラギラ光らせながら身を乗り出す。
「そうです! 奥様、そうに違いありません! 今我々が喧嘩しているのも、アメリアが仕組んだことなのです!」
「ええ? さすがにそれは……」
ファース侯爵夫人は『いくらなんでも無理があるわ』と考えていた。
ところが。
これまで誰の味方もしなかった冷静沈着なカイルが口を開き、空気が変わる。
「――だったらアメリアに直接訊けばいい」
全員が唖然としてカイルを眺めた。
カイルはここ最近でもっとも魅力的な笑みを浮かべながら堂々と告げた。
「俺がすぐにオルウィン伯爵領に行って、アメリアを連れ戻して来ますよ。彼女をしばらくこの屋敷に監禁して、様子を見ましょう。俺が二十四時間つきっきりで見張り、尋問を行います。服の下に護り石を隠しているかもしれませんから、じっくり調べてみないとね」
「そ、そうか……カイルくんが連れ戻しに行ってくれるのか?」
明るいきざしを感じて、ファース侯爵が声を震わせる。
カイルはゆったりと微笑んでみせた。
「ええ。アメリアを外に出すべきではなかった――我々が彼女を取り戻せれば、この怪現象もおさまるはずです」
これを聞き、ファース侯爵夫妻の顔がパァッと明るくなる。
侍女頭のグリアはアメリアを追い出した張本人なので、この成り行きに顔を歪めていた。しかしやがて思い直す――『まぁいいさ――あの悪魔憑きが戻ったら、さらにきつい折檻をして泣かせてやろう。うるさければ口に石でも詰めてやる』――それで苛立ちが治まった。
――ただ、ジェマだけは仄暗い目つきで、テーブルの隅を睨みつけていた。
どこまで邪魔をするの――アメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリアアメリア――……殺す。




