2.王太子殿下はどら焼きがお好き
「ええと? 殿下のどら焼きは、朝、保冷箱から出して解凍されてましたよね?」
ノアルスイユは銀縁眼鏡を押し上げながら確認した。
「そうだ。保冷箱から出して、包み紙ごと流しのそばに置いた。
なのに、どこにもないんだ!」
「「「「ええええええ……」」」」
どら焼き、というのは半年ほど前にこの国を訪れた東方の国セリカンの使節が持ち込んだ菓子である。
アズキという豆を甘く煮て潰し、薄いパンケーキで挟んだものだ。
賞味した者の多くは「まずいわけではないが、豆を甘く煮るとか納得できない」と内心首を傾げていたが、アルフォンスはこの菓子にめちゃめちゃにハマった。
子供の頃から「御学友」として共に成長してきたノアルスイユも見たことがないほどで、もっと食べたいとその場で使節に直談判するほど。
使節は、あまりの熱意に困惑しつつも、そんなに気に入ったのならと、どら焼きをたくさん作ってくれた。
別途、栽培用に豆も分けてくれ、そちらは農業試験場に送られている。
貴重などら焼きは魔法で冷凍して保冷箱にしまい、アルフォンスのお楽しみとなったのだが、そろそろ賞味期限が近くなり、今日、最後の一個を解凍して食べるはずだった。
今日の午前中、アルフォンスは大事な大事などら焼きを保冷箱からみずから取り出し、「給湯室のどら焼きに触らないように」とわざわざ皆に念を押していた。
で、どら焼きを楽しみに、今日もあれこれ仕事に励んでいたのに、肝心のどら焼きがない──
力尽きたようにしゃがみこんだアルフォンスの脇をすり抜けて、ノアルスイユは給湯室に急いだ。
秘書官室のすみっこにある給湯室は、大人が三人立てばいっぱいになるくらいのスペースだ。
ドアは一つだけで、秘書官室からしか入れない。
給湯室は王太子執務室と秘書官室で飲む茶を淹れて茶器を洗うだけの部屋なので、湯沸かし、小さな流しと作業台、水切りかご、茶器をしまっておく戸棚、それに保冷箱があるだけ。
保冷箱はもちろんカラ。
水切りかごには、今日使ったマグカップがいくつか伏せてあるだけ。
流しの下の物入れにも、床の上にもどら焼きは見当たらない。
クレアウィルが様子を見に来たので、二人で戸棚の茶器をすべて一度出してみたが、やはりどら焼きはなかった。
つま先立ちになって戸棚の上まで見てみたが、ないものはない。
ドラジェや飴玉のような小さな菓子ならとにかく、手のひらにちょうど乗るくらいの、厚みもある大きな菓子だ。
これだけ探して見落とすはずはない。
ノアルスイユとクレアウィルは顔を見合わせた。
「確かに、見当たりません」
秘書官室に戻って一応報告する。
「私のどら焼き……」
涙目のアルフォンスはうつろに呟いて、かくりとうなだれた。
なんでそこまでどら焼きに執着するのかツッコミたくてたまらないが、虚脱しきった様子が不憫で、誰も何も言えない。
「しかし、どうしてなくなったんでしょう。
僕、午前中にお茶を淹れた時、殿下のどら焼きを確かに見ました。
流しの脇に、薄紙に包んだまま置いてありましたよね?」
うむうむとアルフォンスが力なく頷く。
「私も見た。
昼前にカップを洗った時だったかな」
「俺も見た覚えがある。
おかしいな、ここはネズミだって入り込めない造りになっているのに」
クレアウィル、ノアルスイユ、ジェルナンドはお互い顔を見合わせた。
ブレザックは記憶にないのか、どうだったっけ?と首を傾げている。
とりあえず、年長のジェルナンドが、他になくなっているものがないか確認しようと言い出し、秘書官達は私物やら資料やら手早く改めた。
ほかになくなっているものは特にない。
「もしかしてこれは……不可能状況か!?」
ノアルスイユはくいいっと眼鏡のブリッジを押し上げながら口走った。
今日は、昼食以降、アルフォンスも秘書官達も外で仕事をしており、この部屋は午後いっぱい無人だったはず。
だが、その間に勝手に誰かが立ち入ってどら焼きを盗み食いするのは不可能なのだ。
秘書官室と王太子執務室はつながっているが、どちらも直接廊下に出ることはできない。
必ず執務室の前室を通らなければならないし、前室には魔導錠がついている。
前室の魔導錠は、あらかじめ魔導紋を登録した者がドアノブを握って自分の名を唱えれば開くが、離せば扉はゆっくり閉じて、自動的に鍵がかかる仕組み。
魔導紋が登録されているのは、国王夫妻と王太子夫妻、ノアルスイユ達王太子秘書官、そして王太子付きの近衛騎士の計十数名。
登録された者以外は、外からも内からも扉を開くことはできない。
清掃は、始業前に秘書官立ち会いのもとメイドが行うことになっているから、日中に勝手にメイドが入ることもない。
護衛の近衛騎士はアルフォンスについて回るので、アルフォンスの留守にこのあたりをうろうろすることはない。
つまり、今日の日中に秘書官室に出入りし、アルフォンスのどら焼きに触れる機会があったのは、当人を除けばこの部屋で仕事をする秘書官だけ。
しかし秘書官達にも、それぞれアリバイがある──
「えっと、『不可能状況』って、先輩が好きな推理小説の??」
クレアウィルが困り顔で訊ねてくる。
ノアルスイユは、よくぞ聞いてくれたとばかりに銀縁眼鏡をきらんと光らせた。
「そう、典型的には密室殺人事件のように、一見、誰も犯行ができないように見える状況で事件が起きることを指す。
ちなみに密室殺人事件のパターンはほぼ3つ。
①秘密の通路がある、または凶器を通せる穴があるなど、実際には密室ではない場合。
②外で致命傷を負った被害者が室内に入って鍵をかけた後に亡くなるなど、密室内に殺人犯がいなかった場合。
そして、③機械的なトリックを用いるなどして、ドアの鍵が内側からかけられたように見せかける場合。
話を戻すと、給湯室に入れる者は限られているから、全然関係のない人物がひょいと入ってきて、どら焼きをパクーとやって逃げたとは考えられない。
もしかしたら、これは密室どら焼き消失事件ではないのか!?」
「「な、なんだってーー!?」」
アルフォンスとクレアウィルは素直に驚愕してくれた。
ジェルナンドとブレザックは、無の表情だが。
とにかくアルフォンスとクレアウィルの反応に気を良くしたノアルスイユは、意気揚々と眼鏡をくいいっと持ち上げたが、嫌なことに気がついた。
良く考えたら、昼前に皆が部屋を離れた時、最後にこの部屋を出たのは──自分だ。
推理小説ならとにかく、現実の犯罪なら、まず疑われるのは犯罪発生前後に出入りした人物。
しかも、その時、少々疑われかねない行動をしてしまっている。
ノアルスイユの背筋に、たらりと冷たいものが伝わった。