第3金曜日の夜、映画館にて
その暗闇の中に浮かぶ四角い世界と、私は恋に落ちたのかも知れない。
『第3金曜日の夜、映画館にて』/未来屋 環
私は金曜日の夜が好きだ。きっとこの国に住んでいる多くの人達と違わず、その瞬間を楽しみに日常をやり過ごしている。
帰りの車内にはどこか幸せな空気感が漂っていた。手元のスマホから顔を上げると、乗客達のうずうずと嬉しそうな表情が視界に入る。
これから皆はどこに向かうのだろう。愛しい家族の暮らす家か、楽しい仲間達の待つ店か、それとも自分だけの秘密の城か――行き先は違えども、その瞳には穏やかな光が宿っている。
電車のドアが開き、そんな乗客達と共にホームに舞い降りた。
足取り軽く駅の改札を通り抜け、私も自分の目的地へと歩き出す。駅直結のショッピングセンターを奥へ奥へと進んでいくにつれ、次第に減っていく人の数と逆行するように、私の心は段々と熱を帯びていった。
――5分後、私が立っていたのは、映画館のチケット売り場だ。
月に1度、第3金曜日の夜にここでレイトショーを観るのが、私の息抜きだ。
元々映画にはそこまで興味はなかった。子どもの頃、親に連れられて、国民的アニメの劇場版を年に1度観に行くくらいだ。学生の身分だと映画の鑑賞料金は懐に響く。当時の恋人や友人達とも数える程しか行ったことがなく、そのまま距離が近付くこともなかった。
契機となったのは、齢30を迎えてから数年が経った或る日のこと。
度重なる残業に疲れた私は自炊する気力もなく、駅で何か食べて帰ろうとショッピングセンターに立ち寄った。その時、レストラン街の先に厳かに佇む映画館の存在に気付いたのである。
いつもより少しだけ高いパスタを腹に収めた後、私はふらふらとその空間に吸い込まれていった。そこは複数のスクリーンが用意されたいわゆるシネマ・コンプレックスで、20時以降はレイトショー扱いで鑑賞料金が安くなるらしい。
並べられた上映作品の中に、学生時代友人がはまっていたミュージカル作品を見付けた私は、割引料金にも背中を押され、数年振りにその暗闇に足を踏み入れた。
――約3時間後、私は圧倒的な画と音と物語に心を大きく揺さぶられ、抜け殻のようになって帰路に着いていた。
久々に行った映画館は子どもの頃の記憶よりも随分と快適だった。観た作品もよかったのかも知れないが、夜遅くの時間帯とあって観客も少なく、じっくりと映画と向き合うことができた。余韻に浸りながら家までゆっくりと歩き、自宅のバスルームで他の観客のレビューを読み、頭の中で印象的なシーンを反芻しながら眠りに就く。
なんて贅沢な時間の使い方なんだろう。そう思った。
それから、私の月1回のレイトショー通いが始まったのである。
今日観る映画は、既に決めていた。或る女性が過ごす日常を淡々と描いた作品である。
TVに出ている俳優も出演してはいるが、主演女優は見たことのない顔だ。広告も多くは打たれておらず、そこまで注目作品というわけではないらしい。
――しかし、先月訪れた際に、この作品の素朴なチラシが何故か私の目を惹いた。
日々ばたばたと過ごしている自分にないものが、この作品にはあるような――何故かそんな気がしたのだ。
上映期間も終わりが近いのか、あてがわれているのはこのシネコンの中でも一番小さいスクリーンだ。販売機の画面を操作すると、座席はひとつも埋まっていない。たとえ小さかったとしても、スクリーンを独占できるなんて随分贅沢だ。
そして、購入ボタンを押そうとしたその瞬間――背後から声が響いた。
「――あの、すみません」
低く通る私の声とは似ても似つかない高めの声。
振り返るとそこには、黒のキャップを目深にかぶった茶髪の女性が立っていた。
反射的に言葉を返せず、まじまじと見つめていると、小柄な彼女は少し申し訳なさそうに紙切れを差し出す。
「約束していた知人の都合が急遽悪くなっちゃって……1枚無料チケット余っているので、もしよろしければ、どうぞ」
ボルドーとゴールドのネイルカラーで鮮やかに彩られた指先に一瞬見惚れ――そして彼女の言葉の意味を理解し、我に返った。
「……えっ、いいんですか?」
「はい。どうせ無駄になってしまうので、是非もらってください」
小柄な彼女がこちらを見上げると、自然と上目遣いになってしまう。同性の自分でも「可愛らしいな」と思う仕種と、滲み出る寂しげなオーラに、思わず無料チケットを受け取る。
「それでは、遠慮なく。ありがとうございます。
――代わりに、フードとドリンクは私にごちそうさせてください」
そう告げると、今度は彼女が「えっ」と声を上げた。
さすがに初対面の相手に、もらいっぱなしは気が引ける。
そんな私の心情を察したのか、彼女は「それではこちらも、遠慮なく。ありがとうございます」と頭を下げた。
***
そして、今何故か私達は、ふたりでポップコーンを挟んで隣同士で座っている。
普段ドリンクしか買わない私は、こんなにポップコーンが大きいとは知らなかった。それは隣に座る彼女も同じだったようで、リクエストした当の本人であるにも関わらず、その大きさに目を丸くして――その後に、こう言った。
「――あの、ごちそう頂いておいて申し訳ないんですが、一緒に食べませんか?」
予告編が流れる中、私達はポップコーンをつまみながらスクリーンを眺めている。
久々に食べたポップコーンは、記憶の中の味よりも少しだけ美味しかった。ひとりでは食べようと思えないけれど、いつか誰かと来ることがあれば、また頼んでもいい――そう思えるくらいには。
劇場の中は、結局私と彼女のふたりだけだ。チケット売り場にちらほらといた客達は、今流行りのアニメか、ハリウッドの超大作をお目当てに来ていたらしい。
ビデオカメラを頭にかぶったキャラクターが画面上で踊っているのを流し見しつつ、ちらりとポップコーンの先の様子を窺う。
キャップを外した彼女は、いつの間にか眼鏡を着けていた。ストローを咥えた口唇がスクリーンから放たれた光を反射して、艶やかに光る。平凡な会社務めの自分とは違って、画になる女性だと思った。
彼女が約束していた相手は、男性だろうか。
仕事で急遽来られなくなったのか、振られてしまったのか、それとも――。
普段はそんなに他人に興味もないのに、何故か不躾な想像が頭を駆け巡る。それは、隣に座る彼女が、物語を感じさせるような匂いを纏っていたからかも知れない。
――画面が切り替わる感覚を肌で感じて、私は視線をスクリーンに戻した。
目の前で、四角く切り取られた世界が目を覚ます。
ここから2時間、私はこの作品の中にじっくりと浸るのだ。
特別ではないはずなのに、何故だか心惹かれる風景。
整った顔でありつつ、どこかあどけなさを残した主演女優。
そんな彼女の心を揺らす、バイプレイヤー達。
まるで彼女の人生を俯瞰するような、そして時に彼女自身の中に入り込むかのようなカメラアングル。
作品世界を優しく包み込むような音楽。
――そして、目の前で丁寧に紡がれていく、穏やかな物語。
不思議だ。私は映画館にいて、ただそれを観ているだけなのに。
何故だか、私は自身とは似ても似つかない彼女と、いつの間にか一体となっている。
彼女が笑えば口元が緩み、彼女が俯けば心が曇る。
彼女の双眸から涙が零れた時、私の頬もまた濡れていた。
――ああ、今日この作品を選んで、本当によかった。
澄み切った青空を映したラストシーンから続くように、キャストとスタッフの名前が、穏やかなスピードで流れては消えていく。
この作品ひとつを創り上げるのに、どれだけ多くの人々の力が注がれたのだろうか。それを確認する上でも、エンドロールは私にとってなくてはならないものだった。
『監督 佐倉 祐子』
監督の名前がスクリーンの中央でぴたりと止まり、エンドロールは終わりを告げた。その文字が静かに消えると、ふっと劇場に明かりが戻る。現実の世界に意識を引き戻され、私は小さく息を吐いた。
――そういえば、隣の彼女はどうしているだろう。
ふと我に返って右隣に視線を向けると、彼女はまだまっすぐに前を向いていた。
その瞳にうっすらと涙の膜が張っているように見えて――私は小さく息を呑む。
別の人間が同じ作品に心を動かされたというその奇跡に、人知れず胸が高鳴った。
彼女がゆっくりとこちらに顔を向ける。私は慌てて視線を逸らし、ポップコーンの容器を手に取った。
「――すごく、よかったですね。置かれた境遇も性格も全然違うのに、まるで自分を観ているような気持ちになっちゃった」
そう言いながら、残ったポップコーンを口に入れる。「食べます?」と彼女に容器を差し出すと、彼女は頷いてポップコーンに手を伸ばした。ちらりと表情を窺うと、その瞳に涙の色はない。
ポップコーンを音もなく咀嚼した後、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「――あなたと一緒に、この作品を観ることができてよかった。ありがとうございました」
***
――それにしても、不思議な夜だった。
私は湯舟に浸かりながら、今夜の思い出を反芻する。
初対面の女性と、十数年振りにポップコーンを食べながら、レイトショーをふたりきりで観て涙する――これだけでも何かの物語になりそうだ。
映画も本当によかった。自分にフィットする作品と出逢えるのは幸運なことだ。
いい映画を観た後は、心がぽかぽかとあたたまっている気がする。
余韻に浸りながら歩いた帰り道では、外気の冷たさと胸中の温度差ですら心地良く感じた。
胸の高鳴りを鎮めながら、私は防水ケースに入れたスマホを手に取る。
毎回定番のお楽しみ、レビュー巡りだ。自分で書いたことはないが、他の観客がどんな風に感じたのかを知ると、より作品を深く味わえる気がする。
作品名を検索すると、キャストやスタッフの名前や写真が画面上に映し出されていく。
レビューが表示される画面下部までスクロールしようとして――私の指は、はたと止まった。
『監督 佐倉 祐子』
――そこには、つい1時間前までポップコーンを分け合った顔が映し出されていた。
『――あなたと一緒に、この作品を観ることができてよかった』
彼女と交わされた些細なやりとりが、脳裏によみがえる。
キャップの下から覗く、可憐な容貌。
チケットを差し出す、鮮やかに整えられた指先。
ポップコーンを前に、大きく見開かれた瞳。
エンドロールに向けられる、想いのこもった眼差し。
――そして、最後に見せた嬉しそうな笑顔。
少しの逡巡の後に、私は意を決してレビュー投稿欄を開く。
『この作品に出逢えて、本当によかった』
このシンプルな感動が、沢山のひとに伝わればいい。
そして――願わくば、彼女の元にまで、届けることができれば。
――この作品を創ってくれて、本当にありがとうと。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
家の近くに映画館があるのでよく映画を観に行くのですが、その中でもレイトショーを観に行くのが好きで、このような作品になりました。
(ちなみに昨日も映画観に行きました。珍しくレイトショーじゃないですが……)
ポップコーンは長らく食べていませんが、何となく映画館ではコーラを飲んでしまいます。たまにチュロスも食べたり。
映画館で観る映画っていいですよね。
気軽にできる非日常体験……おすすめです(´ω`*)