141 お風呂
風呂場はまさに銭湯って感じだった。番台は無かったけど…。
男湯と女湯に分かれており、入口には色違いの暖簾までかかっていたよ(男湯が紺色で、女湯が紅色だった)。
入ってすぐが脱衣所で、奥の扉を開けると大浴場と洗い場が広がっていた。ただし、残念ながら壁に富士山の絵は無かったな。
俺はまず洗い場で髪を洗い、全身の垢を石鹸の付いたタオルで擦り上げ、サッパリとした気分になった。それからゆっくりと浴槽に身を沈め、お湯の感触を味わった。
「あぁぁぁ…」
思わずおっさん臭い声も出るってものだ。気持ち良すぎる。
日本にいたときはシャワーで済ませることが多かった俺だけど、久しぶりの入浴はやはり格別だな。ナナもきっと喜んでいることだろう。
イザベラお嬢様には本当に感謝しかない。
俺が風呂に入ったときには無人だったんだけど、ほどなくして数人ほど医官の人たちがやってきた。
「お、ツキオカ殿じゃねぇか。さっきぶりだな。どうだ、この宿の風呂ってやつは?俺はこいつがあるからなんとか頑張ってこれたようなもんだぜ」
「グレッグさん、どうも。ええ、本当に気持ち良いですね。生き返ります」
「はは、『生き返る』たぁ言い得て妙だな。うむ、まさに死人も生き返る心地良さだぜ」
グレッグ医官と他愛もない雑談をしながら、数か月ぶりの風呂を満喫する俺だった。
・・・
各人に割り当てられた部屋は畳敷きの和室…ではなく、普通にベッドがあるだけの殺風景な部屋だった。これは元々の宿屋の設備をそのまま流用しているみたいなので仕方ないね。
夕食もお座敷で…とはいかず、1階の大食堂で摂る形式だ。
「お兄ちゃん、お風呂どうだった?」
ナナの頬がほんのりと上気して、ちょっと色っぽくなってるよ。アンナさんやサリー、オーレリーちゃんも同様だけどね。
夕食の席にはアリスさんも同席していて、六人で一つのテーブルを囲んでいる。
「お兄さん、君はルナーク商会と仕事上の付き合いでもあるのかね?」
「いえ、副商会長とちょっとした知り合いなんですよ。ただそれだけの関係です」
アリスさんの質問に曖昧に答えていたら、背後から女性の声が聞こえてきた。
「おいおい、つれないことを言うなよ。私は君の将来のお嫁さんだぞ」
は?
おそるおそる振り返ると、そこにいたのはイザベラお嬢様だった。
怒ってる風ではなく笑顔だったので、きっと冗談だったのだろう。
「イザベラお嬢様、お久しぶりです。こちらのアリスさんが本気にしたらまずいですから、ご冗談はほどほどに」
「くっくっく、まぁ良かろう。ん?アリス?アリス・オコーナーか?準男爵家の…」
アリスさんが目を丸くして驚いていた。
「あ、イザベラ・ハウゼン侯爵令嬢でございますか?オコーナー家のアリスと申します。あれ?そう言えばハウゼン侯爵家はお取り潰しになったような…」
「ああ、その通り。馬鹿兄貴たちのせいでな。だから今の私は貴族でも何でもないぞ。ルナーク商会の副商会長という一介の商人でしかない」
「は、はぁ。左様でございましたか。でも連座で罪に問われず、ようございました」
「うむ、このツキオカ殿の尽力によって家族全員が助かったのだよ。本当に感謝してもしきれない」
またもやアリスさんから驚きの目で見られたよ。もはや何度目か分からない…。
「そんなことはともかく、イザベラお嬢様はどうしてこちらに?」
「うむ、セレンから緊急連絡を貰ってな。馬車を飛ばして急いでやってきたのだ」
セレンとは、さっき会った仲居頭である元・侍女長さんの名前だそうだ。余談だけど、セレンさんって見た目は20代後半くらいなんだけど、実はアラフォーらしい。日本で言えば美魔女ってやつだな。
「何か緊急事態でも?」
「ん?いや、君たちがうちの宿に泊まるというから来ただけだが…」
なんか話が噛み合わないな。つまり、俺たちがこの宿屋に宿泊するからわざわざやってきたってこと?
詳しい事情を聞いてみると、単に『風呂を自慢したかった』ってだけのようだ。
もちろん、俺もナナもここの風呂場を褒めちぎったのは言うまでもない。




