それが貴女でよかった
婚約者が、魔獣討伐のために記憶喪失になった。
そう告げられたときのウィッカほどひどい顔をした者は世界がいくら広くてもなかなか見られるものではないだろう、とその場に居合わせた人々は一様にそう語ったという。
「アギナルド、どうして…?」
「ウィッカ」
とある屋敷の広間にて。静かにそう呟く少女の肩に、ぽんと手が置かれる。親しみを感じさせるその手を軽く振り払い、彼女は俯けていた顔をキッと上げた。
「ステュー、貴方は引っ込んでいてください!つべこべ言うのはおかあさまとおばあさまとおばさまとおねえさまと従姉妹のおねえさま方とメイドと侍女と友人の令嬢方だけでたくさん!」
「ほんとにたくさんだな…」
呆れた声でそう呟く青年に、ウィッカはそうよ!と力強くうなずいた。
「アギナルドが記憶を手放したと聞いてから私が毎日毎日どれだけの方々から気を落とすなの、怒るなの、言われ続けてきたことか!ステュー、貴方にならこの悔しさ分かって!?」
「あー、ご愁傷様。完全には分からねぇけど、少なくともつべこべ言う女性陣よりはもうちっと理解できてると思うぜ」
「ステュー…!」
うるうるとした瞳に縋るように見つめ、られるどころかよくぞ分かってくれたとばかりにがっしり両手を掴まれて、ステューことステュアート・ランブレン子爵令息は苦笑いした。幼馴染の令嬢、ウィッカ・リースティンが婚約者に忘れられたのだという噂が社交界を駆け巡ったのはつい先日のこと。傍目にも相思相愛であったウィッカがさぞ気落ちしているだろうと思って訪ねてみれば、この様である。忘れていた。てっきりこの状況で嘆かない令嬢などいないだろうとつい世間一般の基準に照らし合わせて慌てて訪問してしまったが、そういえばウィッカはそこらのか弱い令嬢たちとは一味も二味も違うのである。いや、ウィッカ個人というよりは――――
「あら、ステュアート様。ようこそいらっしゃいました」
「ステュー様!あら、ウィッカなんかに構っていないでわたくしたちのところに顔を出していただければ歓迎いたしますのに」
「今からでも遅くはございませんわ、いかが?わたくしたちとお茶でも飲みませんこと?」
「あなたたち、そんな風にお誘いしてはいけないと言っているでしょう」
「「「ですが、お姉さま…」」」
「殿方というものは、お誘いするのではなくてすきを見て一気に引きずり込むものなのです!」
「「「さすが、お姉さま!」」」
「お姉さま方!ステューは私を訪ねてきてくれたんです!」
「「「「それがどうかして?」」」」
「しないわけがありまして!?」
息も絶え絶えに突っ込んで、ウィッカは嘆くように首を振った。真っ黒な瞳がかすかに潤んでステュアートを見上げる。
「ごめんなさい、ステュー。よかったら私の部屋に来てくれないかしら」
「あ、ああ、そうさせてもらおうかな」
そう、強いのはウィッカではない。いや、ウィッカも世間一般の令嬢からしたらあり得ないほどに強いが、彼女はむしろこの家の中では誰よりも弱い存在である。主に戦闘力の面において。―――いや、何故令嬢に戦闘力がと思うかもしれないが、事実そうなのだ。リースティンの女は戦闘力が非常に高い。それはもう、並みの男では足元にも及ばないほどに。恐らくステュアートが本気で戦って勝てるのはこの家ではウィッカくらいのものだろう。―――とは言えウィッカもれっきとしたリースティンの女性、とっさに出てくる反応の一つ一つがそこらの令嬢とは全く違う。
冒頭に出てくるひどい顔というのも別に泣き顔でもなんでもなく、ただただ怒りのあまりとんでもない歪み顔になっただけなのである。
何故そんなにも戦闘力が高いのか。それには彼女の家柄が深く関わってくる。リースティンは辺境伯の家柄だ。辺境伯と言えばごつい体つきの男伯爵を思い浮かべるのが普通だろうが、ここもリースティン家にかかると世間一般とはまるで違う伯爵家が出来上がる。当代のリースティン伯は女性だ。ウィッカの実の母、ローラ・リースティン伯が指揮するこの北の辺境は、ウィッカやステュアートが生まれてこの方実に17年もの間、一度たりとも敵をその領地内に立ち入らせたことはない。押し返した、でも食い止めた、でもなくただただひたすら立ち入らせない。どんな大きな攻撃だろうが、どんな小さな斥候集団だろうがけっしてリースティンの領地に足を踏み入れることはできないのである。
ちなみに先代リースティン伯も女、先々代もまた女。系図をさかのぼっていくと男伯爵よりはるかに女伯爵の方が多いことが分かる。今のリースティンに男子はいないので、次代も勇敢な女伯爵が立つだろう。典型的な女系一族なのだ。
「お姉さまたちがごめんなさい…」
自室へと足を運びながら、ウィッカが困ったように眉じりを下げる。勝手知ったる様子でその横を歩きながら、ステュアートは苦笑した。
「いや、いつものことだしな」
「いつものことをいい年してやめられない姉様たちが悪いのよ…!恥ずかしいわ、身内としてお詫びします」
いつものこと、というのは冗談ではない。しっかり本音だ。事実、幼いころから今に至るまでステュアートがリースティン令嬢たちに言い寄られなかったことはない。まあ彼女らにしてみれば冗談半分の遊びなのだが、何分年上の覇気というものがある。幼いころ何度となく迫られたステュアートはその度に残り半分の本気を感じ取って震えていたものだ。
綺麗に整頓された部屋に入って、ウィッカは紅茶を淹れだした。その辺にかけて、という声に従って華奢な椅子に腰かける。さて、問題はここからだ。今から起こることを悟っていたステュアートはきたるお怒りに備えて一度深呼吸した。
「…………それでね!聞いて、ステュー!」
予想通り。なれた仕草で紅茶を淹れ、とんっと軽い音を立ててテーブルの上にカップを置いたウィッカは、そこで堰を切ったように猛然と話し始める。お茶を淹れる、というのは彼女にとって最低限のマナーらしい。そこまですれば令嬢としての義務は果たしたでしょう?と言わんばかりにそれまでの楚々とした振る舞いをかなぐり捨てて話し出すのも、まあいつものことと言えばいつものことだ。アギナルドとウィッカの婚約が決まってから極力二人きりにならないようにしてきたステュアートにとってはそんな彼女の態度も懐かしく、思わずくすりと笑ってしまう。ああ、この子は変わっていない。三人で馬鹿みたいに遊びまわっていたあの頃と、本質的には同じままなのだ。
「あ、なにがおかしいのよ?」
「いやなにも」
「嘘ばっかり!」
憤慨したようにそう言いながらも、彼女はそれ以上を追及したりはしない。自身で入れた紅茶をぐびっと一気飲みして、憤懣やるかたないといった様子で乱暴にソーサーに戻す。高級なティーカップが立ててはいけない音にステュアートはますます苦笑を深めた。
そう、婚約者に自分を忘れられたこの悲劇の令嬢は、悲嘆にくれて呆然としているような性格ではない。
「アギナルド、ほんっとうに信じられない!」
彼女は、怒っていた。猛烈に。婚約者にして最愛のはずのアギナルドに対して。それはもう、カップとソーサーのみならずテーブルまでもが怯えたような音を立てるほどに、怒髪天を突いていた。
「ステュー、なんでアギナルドが私のこと忘れてしまったのか知ってる?知ってるわよね、あれだけ噂になってるんですもの」
「知ってるけど、あれだけってまさかおまえ直接聞きに行ったりとか」
「ええ、偽名使って顔隠して、ここ数日開かれてる夜会には全部出席したわ。みんな言いたい放題言ってくれるからグラスがいくつか尊い犠牲になったわよ」
「さ、すがの行動力だな…」
「女系辺境伯家なめんなってとこかしら。あー、思い出すだけでむかむかする駄目だとりあえず私のことを不細工呼ばわりした侯爵家とアギナルド愛想尽かした説を得意げに騙ってた第三王子、あの人たちには機を見て復讐」
「待て待て待て待て!思い出すな、侯爵家と第三王子!?なに喧嘩売る気満々になってるんだよ、相手と時と場所を考えてってのがリースティンの家訓じゃないのか!」
「だから喧嘩売る日を手ぐすね引いて待ってるのよ」
「違う、時と場所を考えたから褒めてって顔するな!まず相手を考えろいくら最強でも辺境伯と王族がまともにやりあえるわけないだろう!」
「だから待ってるんだって、第三王子は素行も悪いし凡才だからもう何年かすれば子爵辺りまで一気に落とされるはず。そこを狙って仕掛ければほら!何の問題もないでしょう?」
「イイ笑顔で言うなそんなこと―――!」
間違いではないが激しく何かが違う彼女の論理にステュアートは必死でツッコむ。おかしい、怒りすぎて話が違う方向に言ってるではないか。アギナルドふざけるなだったはずなのに、一体何がどうして第三王子抹殺計画に飛躍したのやら。
「そんなのほっとけ、どうせおまえ中央にはほとんど行かないんだから関わりもないだろ!それよりほら、アギナルドの話聞かせてくれよ!」
軌道修正に全力を注ぐステュアートに、ウィッカはしばし目を瞬いてからにっこり笑った。
「…………ええ、そうね」
その目が笑っていないという事実は第三王子とは無関係のはずのステュアートにも十分な恐怖を与えたが。再び丁寧な手つきで紅茶を淹れなおしてから豪快に一息で飲み干して、がちゃんとソーサーに戻す。一連の流れを終えるころには、ソーサーとカップの尊い犠牲のおかげでウィッカの据わった目はだいぶんましになっていた。
「アギナルドの話、ね。…知っていると思うけど、彼は今回の戦で英雄になった」
そう。アギナルド・オールは英雄だ。誰にも倒せないと言われていた魔物を見事に討伐して帰ってきた。相打ちにすらできずに数多の強者が死んでいったことを考えれば、彼が五体満足で帰ってきたという事実は奇跡以外の何物でもない。王が直々に感謝の言葉を述べ、民の間では一躍アギナルドの名が高まり。そうして彼はあれよあれよという間に英雄に祭り上げられた。
彼はウィッカとステュアートの幼馴染で、普通の伯爵令息で騎士で、誰よりウィッカを愛している点以外においては普通の青年だった。もちろん文武ともに優秀ではあったが、そんなのは秀才の域を出るものではなかったはずだ。英雄と呼ばれるほどの力はなかったし、普通に考えれば魔物にやられてしまっていたはずだ。
「私、英雄なんてどうでもよかったのよ」
ウィッカがぽつんと呟く。そうだろうな、とステュアートは思う。彼女の気持ちに同意していることを示すために軽く頷いて、紅茶を一口含んだ。口の中に広がる芳醇な香りに思わず頬を緩め、次いで先ほどのウィッカの飲み方を思い出して苦い顔つきになる。茶葉も水も、淹れる人の技量もすべてが一級の紅茶をまるで安い酒か何かのようにぐびぐびと。
けれど、彼女がそうせずにはいられなかった理由も十分すぎるくらいに分かっていたから、ステュアートは何も言わずに黙って続きを促した。
「政略結婚じゃないんだもの、最初から好き合って結婚の約束してるのよ。これ以上強くなってほしいとか、英雄になってほしいとか、そんなことちっとも思っていなかったのに」
「…知ってるよ」
「無事で帰ってきてくれれば、それでよかったの」
なのに、と彼女の整った面差しがゆがむ。ゆっくりとその顔が俯いて言って。
「――――なのに、あの男!魔物に勝つためにって、あっさり私の記憶を手放したのよ!?」
次の瞬間、ものすごい勢いで上がったウィッカの顔にステュアートは思わずびくりと背筋を伸ばした。悲しみなんかじゃない、それはそれは怒り狂った瞳がぎらぎらと光っている。
「私の記憶を消してまで、魔物に勝ちたかったわけ!?」
「…いや、ウィッカ」
「なに!」
殺気に気圧されながらもステュアートは必死に首を振って見せた。気分はクマを目の前にした新米登山家だ。よーしよしよし、怖くないよー。背中見せないよー。はい、じりじり下がりましょー。
アギナルドが記憶を手放した理由は、名剣と名高い剣を使いこなすためだという。人外の能力を使用者にもたらすその剣は、その力と引き換えに最も大切なものの記憶を奪うのだ。その力無しに魔物を倒すことはできなかったのだろうから、彼が無事に帰ってこれたのはひとえに名剣の力によるものである。確かに記憶を手放された方からしたらたまったもんじゃないだろうが、アギナルドが生きて帰ってくるにはそれしかなかったのもまた事実で。
「勝たなきゃ死ぬんだから、その、仕方ないとは言わないけど不可抗力なんじゃあ」
「ちがーう!」
カシャーンッとカップがソーサーに叩きつけられる。―――ああウィッカよ、ソーサーとカップは優雅にティータイムを楽しむためのものであって全くそういう風に感情を表す目的では作られていないんだよ。
遠い目をするステュアートの視界にはカタカタと揺れるティーセットがある。なんだろう、無機物のはずのそれらがまるで恐怖に震えているように見える気がするのはステュアートだけだろうか。
しかし、これだけ乱雑に扱われても未だ罅の一つも入らないというのはさすがは伯爵家といったところか。今度工房教えてもらおう、と半ば現実逃避のようにそんなことを考えていたステュアートの耳に、「分かってるわよ」という力無い声が届いた。
「ウィッカ…?」
「分かってるわ、そんなことくらい。アギナルドが帰ってきてくれたことはうれしい、心の底から嬉しい。私のこと忘れてしまっていたって、彼が無事ならいいと思う」
ぽろりとこぼれた弱々しい本音に気を取られた瞬間。
「…だけど」
低くなった声に、ステュアートはまたまたひっと背筋を伸ばした。どうしてだ、今これ以上ないほどに令嬢らしかったのになぜ彼女は一瞬でこうも変貌する!?
「だけどね!聞いて、ステュアートッ!」
「はいいっ!なんですか!」
やけくそ気味に叫んだステュアートよりもさらに大きな声で、ウィッカは不満の丈をぶちまけた。
「アギナルド、記憶を手放すときによかったって言ったのよ!」
「…は?」
「だから、よかったって言ったの!しかも、他の記憶を奪われるんだったらかなり困るけど、ウィッカのことなら問題ないってはっきりそこまで言ったの!」
「…………はぁ?」
愛らしい口から飛び出てきた言葉に、ステュアートはぽかんと目を見開いた。
よかった?アギナルドが?あの、ウィッカ一筋過ぎてあり得ないくらい他のことに疎いアギナルドが?
ステュアートとウィッカとアギナルドは3人ともに小さいころから面識がある。親同士の利害で知り合ったのが始まりだが、それから十数年たった今もこうして茶飲み話ができる程度には本当に仲がいい間柄だ。貴族にありがちな友好関係を築くのは三人が三人、そろって不得手だったため友人であるというのはまず間違いない。何故なら、同時期に知り合ったはずの他の「ユウジン」たちの顔も名前も今となってはよく覚えていないのだ。貴族の子息としてはかなり致命的な性分だったが、その分仲良くなった三人の結びつきは強かった。もちろんアギナルドとウィッカが婚約してからはステュアートがそこに混じることは少なくなったものの、アギナルドと二人でならここ一年のうちに限っても何度となく飲み明かしている。
なにしろ英雄になる一月前にも、アギナルドには魔物退治に行かなければならないから、もしもの時には絶対にウィッカを守ってやってくれとまで言われたのだ。絶対に自分は戻るが、それまでの間にウィッカに変な虫がつかないようにどんな手を使ってでも守れと。
もしも、というのが死ではなくすぐに戻れない状態を指していた時点で、アギナルドにウィッカを手放す気は全くない。当然だが彼女のことを愛していないわけもない。というかアギナルドのウィッカ愛はそこんじょそこらの人々には理解できないほどに深いのだ。どの程度かというと、夜会で踊る令嬢全てに手をぎりぎりのところで浮かしてリードし(最早リードになっていないというツッコみは誰もがしたくてたまらない)、ウィッカに近寄ろうとするものは公爵だろうが構わず排除の構えを見せている。…こうしてみると、ウィッカとアギナルドはすごくお似合いなのかもしれない。主に攻撃的という点において。
「…………なんかの誤解じゃないのか」
「と、私も思いたかった」
でも違うのよ、と血走った目でウィッカは言う。紅茶しか飲んでいないはずなのになんだか場末の酔っぱらい感が凄いが、気圧されたステュアートには黙って聞く以外選択肢はない。
「アギナルドの側仕えが、そう言ってるの。彼が一番信頼してた人よ、私も会ったことあるけど、嘘をつくような人じゃないと思う」
「いや、欲に目がくらんだら人間変わるもんだけどな…」
「その人、私に話してくれた時ものすごく困った顔してた。話していいんだろうか、駄目な気がするって言うから無理やり聞き出したんだもの」
それに彼は天涯孤独でアギナルド一筋だから、裏切るような相手もいないはずだとウィッカは言う。
「…いや、でもアギナルドが?あのアギナルドがウィッカのこと忘れられてよかったって?」
ないだろう。真顔でステュアートは言い切った。実際あるわけがないのだ、だって相手はウィッカ以外のほぼ全てをどうだっていいと言い張る男、アギナルド。正直なところ長年親友やっているはずのステュアートですら時々「本当にこいつは俺のことを友として認識しているのか?」と思ったりもするくらいで、要するにアギナルドにとって世界はウィッカとその他雑草としてしか区別されていないのだ。ステュアートの位置づけはたぶん、上等な雑草。その程度。
「…………」
自分で考えてなんだか悲しくなってきたステュアートに、ウィッカはぶんぶん首を振る。
「嘘つく理由なんてないんだもの、やっぱりアギナルドは私のことなんて本当はどうでもいいんだわ」
「いやいや、ないって。本当にそう言ったんだとしたら絶対なんか他の理由があるんだよ」
強がって虚勢を張ったとか、ウィッカのことを忘れない自信があったとか。
「でも実際忘れられたのよ!」
「それは、そうだよなぁ」
怒り心頭といった叫びに思わずうなずいてしまう。そう、アギナルドは英雄となる代わりにウィッカを忘れた。婚約者の顔も名前も、そもそも婚約者がいたという事実もすべてきれいさっぱり。討伐から帰ってきて婚約者に会いたいだろうと言われた彼は、間髪入れずに「婚約者などいない」と答えて祝勝の雰囲気をぶち壊したのだとかなんだとか。その噂は瞬く間に社交界を駆け巡り、何が起きたのかを知ったウィッカがこうしてブチ切れて今にいたるわけである。
「もう、もうアギナルドなんて知らないんだから!向こうが知らないって言うならこっちだってしらないわよ、そうよ、あんな男忘れてしまうのが一番よね!」
「いや待て、まだアギナルドに直接会ったわけでもないのに」
「知らない相手に会ってどうしようっていうのよ」
ぷりぷりとまた紅茶を呷って、ウィッカは「そうだ」と呟いた。何やら据わった目がじろりとステュアートを上から下まで眺めまわす。
「な、なに」
「ステューと婚約しようかな」
「何!?」
投下された爆弾に、ステュアートは日ごろから叩き込まれている礼儀作法も忘れて勢い良く立ち上がった。ティーセットががちゃんとぶつかって痛い音をたてるが、そんなことに構ってはいられない。
「やめろばか、俺がアギナルドに殺されるだろうが!」
「知らない人を殺すなんていくらアギナルドでもしないわよ」
「いやそれにしたっておまえ、どっからどう転んでも友人ポジションから動きようのない俺に婚約打診するってなにごとだよ!?ていうかそもそもまだおまえとアギナルドは婚約中だろう!」
慌てるあまり猛烈な勢いでまくしたてるスチュアートをまじまじと見つめて、ウィッカは小首をかしげた。
「それが?」
「それが!?」
ステュアートの声は最早悲鳴である。
「確かにまだアギナルドとは婚約中だけど、破棄の前に次の婚約者を決めておくのはよくあることよ。それにそもそも貴族の結婚なんて政略結婚がほとんどなんだから、だったら友情がある相手のほうがずっといいと思わない?」
「思わない!アギナルドとの友情も大事だ!」
「頑固ねぇ」
「お前が柔軟すぎるんだよ!」
完全にウィッカのペースに呑まれたステュアートは、これ以上ここにいるとまずいと告げる本能のままに紅茶を飲み干して踵を返した。うだうだやってるとこの無駄に行動力論破力に満ち溢れた令嬢にやり込められてしまう。ここはやっぱり三十六計逃げるになんたら。
「ステュー?」
「帰る、お前も俺もいったん頭冷やしたほうがいい。アギナルドは少なくともお前にぞっこんだし、そうそう簡単に裏切るような性格でもない。あとのこと考えるのは、一回あって話してみてからでも遅くないだろう」
「ステュー!」
「ウィッカ、」
なおも呼び止めようとする彼女の方をくるりと振り向いて、ステュアートは唇を噛みしめた。大股で近づいて、その華奢な肩を両手で掴む。ぎゅうっと込められた力に戸惑う彼女のほうに身を倒して、耳元で囁いた。
「―――俺は、お前の友人だ。それで、アギナルドの友人だ。幸せなお前らの横で笑うことが、俺の夢なんだよ」
その夢を、どうか叶えてくれ。
絞り出すようにそう言いおいて、ステュアートは今度こそ振り向かず、リースティン家を後にしたのだった。残されたウィッカが顔を覆ったことは、想像していたけれど気づかないふりをして。
★
そして今。
「…………ああ、ウィッカだ。遅くなってごめんね」
「アギ、ナルド…!」
記憶を失ったはずの英雄は、彼の婚約者の姿に目を止めた次の瞬間、愛おしそうに笑って頬をなでた。周囲に群がる令嬢たちが唖然として見守る中、当の本人はいたって平然とウィッカを引き寄せて抱きしめる。記憶喪失ではなかったのか。いや、そんなはずはない。だって先ほどまで婚約者に会うことを拒否し続けていた様を誰もが目撃している。自分には婚約者などいない、と言っていたアギナルドはけれど、ウィッカを見るなり端整な無表情から一転してとろけるような笑みを浮かべた。
「ウィッカ、ただいま。帰ってきたよ」
「アギナルド、どうして…?」
誰より愛おしい婚約者の、記憶を失ったと伝えられていた彼の笑顔に抱きしめられて。ウィッカは信じられないように目を見張った。
「あなた、記憶をなくしたんじゃ」
「うん、なくしたよ」
一方のアギナルドはにこにこと笑って頷く。それまで国王のねぎらいにも令嬢たちの賛辞にも眉一つ動かさなかった英雄の笑み崩れた姿に、周囲からどよめきが起きた。そんなことにも全く興味がないとばかりにアギナルドはウィッカの瞳だけを見つめて微笑む。
「ウィッカのことなら何回消されたってどんなに忘れさせられたって、絶対に見れば思い出すよ。僕がウィッカのことを思い出せなくなるなんてありえない」
「わた、しでよかったっていうのは、じゃあ」
「うん、正直他のことを消されたら思い出せないかもしれないから。ウィッカのことならいくら消されようと消し切れるわけがないからね」
英雄はそう言って笑う。
―――――彼女でよかったとそう言った理由は、ウィッカを忘れることがあり得なかったからだと。つまり記憶を消されるということ自体、ことウィッカに関してならアギナルドには痛くも痒くもなかったのだ。関心の薄いその他のことを消される方が彼にとってはよほど困ることだったのだろう。まあそれもそうだ、対して興味もない事柄を思い出せるわけもない。
そんなことがあるのか、とは思うものの現に今記憶をなくしたはずの彼は嬉しそうに婚約者を抱きしめて、その名前を呼んでいる。何処からどう見てもその表情は愛おしい者だけに向けられるものに違いはない。
ウィッカを動揺させた発言の真実は、紐解いてみればそんな呆気ないものだったのだ。
初めは呆然としていた周囲も、次第に理解が追い付いてじわじわと笑顔になっていく。そこにいるのは、彼らが英雄と、その愛を以って彼に失われた記憶を取り戻させた婚約者。なんとめでたい、なんと素晴らしい!
一気に祝いの場へと変貌を遂げたその場所で、アギナルドとウィッカは誰よりも幸せそうに笑っていた。
―――――その、人込みの隅に。一人の青年が立っていた。
「―――よかったな、アギナルド。…ウィッカ」
ステュアートはぽつりとつぶやく。誰に聞かせるでもなく、ただ自身に言い聞かせるかのように。これでよかったんだと、幸せな二人を祝福するように。
「ほんとに、よかった」
二人が幸せそうに笑っていて、自分はきっとこれからもそんな二人の親友でいられて。それだけでもう、十分だ。この胸にある痛みなど、二人の幸せに比べればなんということもない。だって本当にステュアートは嬉しかったのだ。最高の友であるアギナルドが無事に帰ってきて。そして、最愛の友であるウィッカが幸せそうで。
「…なーにが婚約者に、なんだか」
アギナルドに抱き着いて嬉し涙を流しだしたウィッカを見て、ほろ苦く笑う。きっと彼女は知らないだろう。婚約者にならないかと、全く恋愛感情を持っていないことが分かる状態でそんな風に問われて、それでもそのことでどれだけ自分が舞い上がったかなんて。自分がずっと幼いころから抱えていた思いなんて、きっとウィッカは生涯知らずに過ごしていくのだろう。それでいい、そうあるべきだと心から思っている。友人として側にいられるだけでいいのだと、そう本気で思っている。
だけど、それでもステュアートは。
「ウィッカの奴…」
幸せそうな花嫁の横には、幸せそうな花婿がいて。二人が手をそろえて、一人を招く。苦笑しながらその隣に並び立った一人の青年は幸せそうな二人に心からの祝いを述べた。
「―――結婚、おめでとう」
祝われた二人は嬉しそうに笑って、そろって頷いた。
「ありがとう、ステュー」
「また今度飲みに行こうな」
「はは、しばらくはやめとくよ、新婚の邪魔はしたくないもんでね」
「なんでよ、一緒に呑みに行けばいいじゃない」
「いやウィッカ…」
そんなやり取りを交わしながらもステュアートの親友たちはそっと手をつないだままで、気づかれないようにその手に視線を落として彼はふっと笑った。
そう、これでいい。ずっとこれを、願っていた。その向こうに透けて見える都合のいい未来を望んだことも、ほんの少しだけあったけれど。でもやっぱり今こうしてみると、これ以上に自分が願っていたことはないのだと思う。例え己の想いが実らずとも、それでも二人の幸せを。
どうか幸せに。二人が幸せであることが、彼の幸せだったから。
祝福を告げて一歩下がった位置に立つ。英雄の結婚を祝う人々に向けて笑う彼らを見ながら、彼らの親友は苦く切なく、それでも飛び切り幸福そうに、静かな笑みを浮かべていた。
お読みいただきありがとうございました!よろしければ感想お聞かせください。
追記 たくさんのポイント評価とブックマークありがとうございます!感想も本当に嬉しく読ませていただいています、感謝の気持ちでいっぱいです。