警察と雅人
生徒指導室で話を聞かれている間のことは何も覚えていない。
俺は誰とも話さず、目も合わせず、帰路についた。
たった一人での帰宅はいつぶりだろうか。
いつもは有希が隣にいる。
家が隣と言って、いつも俺を誘って下校してくれていた。
前回有希が風邪を引いてる学校を休んだ時以来だから、半年ぶりくらいなのか。
独りが沁みる。
玄関の扉が限りなく重い。
幸い親は二人とも海外出張で家にいなかった。
俺はベッドでうずくまり、何もする気が起きなかった。
17時になってもピアノの音は聞こえなかった。
いつもならこの時間には美しいピアノの音色が隣の家から聞こえてくるのに。
雨の日も風の日も、地震で停電した次の日も、音が聞こえない日はなかったのに。
俺は有希のピアノの音色が大好きだった。
初めのうちは全く興味なんかなかったのに、いつのまにか惹き込まれていたのだった。
ピアノが聞こえないのは外の土砂降りのせいではないだろうか。
そんな期待も虚しいまま、視界はぼやけ始め、寝巻きのTシャツは濡れていた。
風呂も食事も忘れ、不貞腐れるように目を閉じた。
翌日、俺は学校に行かなかった。
鳴り響く電話は学校からだろう。
昨日にも増して強く降る雨音で、電話は聞こえない。
1時過ぎ。
流石に腹の減った俺は買いだめてあったカップ麺を食べていた。
「ピンポーン」
インターホンに出る気は起きなかった。
「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ドンドンドン」
しつこい音に苛立った俺はドアを開けた。
「私、成田と申します。少しお話し伺わせていただけませんでしょうか」
開かれた警察手帳は、とても威圧的だった。
「え、なんですか」
「昨日の件で、あなたのことで学校から連絡がありまして」
「俺は何もしてないです!」
「いや、とりあえず話聞くだけだから。任意同行だけど、署で話を聞かせてもらえませんか?」
ほぼ強制的な任意同行で、パトカーに乗せられた。
車内の無言の15分はとても長かった。
警察署の裏口から入ってすぐの部屋につれた。
数分後、優しい表情のおじさんと、お茶を持った女性が入ってきた。
首には『今田』と書かれた名札がかかっている。
「実は今回君にきてもらったのは井上雅人、そしてその父親、和正の話なんだ」
「え?」
予想外のことで弱々しい声が出てしまった。
「学校からの話を聞いて不審なところがあってな」
「俺はやってないんです。雅人のやつにはめられて!有希がストーカーされてるんです!」
「うん、聞いたよ。実はアイツがストーカー行為をするのって初めてじゃないんだ」
「えっ、そうなんですか」
「君は一般人だから井上親子の話をしてはいけないんだが、事情が事情だ。外部に漏らさないでほしいのだが」
「わかりました」
腑に落ちないまま俺は頷いてしまった。
「アイツは去年、一人の女性をストーカーしていたんだ。それこそ初めは今回のように盗撮や下着を盗むなどだった。それがだんだんエスカレートしていって、盗聴や夜道で襲いかかるなど…。そして警察に被害届が受理された数日後、彼女は遺体となって見つかった」
俺は言葉が出なかった。
「しかし証拠はなく、雅人のアリバイなどを調べている時に父親からの大金がその事件の捜査官長に送られたんだ。そのまま『事故』として処理されてしまった…」
俺は何も言えなかった。
「今回不審に思ったのはそういう訳なんだ」
「っていうことは有希が危ない!!」
「まぁそうかもしれないが、焦るな」
「っでもっ」
「君がいる限りはしばらく大丈夫だろう」
「わ、分かりました」
「あと、君は夜道に気をつけた方がいい。雅人の父親がどんな人物なのか知っているか?」
「冷凍食品会社の井上グループの社長ですよね?」
「表の顔はそうだ。だが、裏ではヤクザと大麻の大型取引を行なっている」
「えっ」
「私は20年以上前から探っているのだがなかなか証拠が見つけられていない」
「つまり俺なんかいつでもヤクザを使って消すことができるということですか!?」
俺はふと思い出した。
同じクラスになって一週間後くらいのことだった。
『親父が大麻のでっかい取引成功してマンション買ってもらったんだよ〜』
これは雅人が言っていたセリフだ。
あれがイキってる発言じゃなくて、本当のことだったとしたら…
全身に鳥肌が立ち、動けなくなってしまった。
「どうかしたのかい?」
「いえ、雅人が言っていたことを思い出してしまって」
俺はあの話を伝えた。
「それが本当だとしたら大きな結果が出る可能性がある!」
今田さんが声を荒げた。
「君はもう少し雅人の様子を見ていてくれないか」
「俺にできることがあれば」
「ありがとう。このまま家まで送っていこう」
俺は今田さんの自家用車で家まで送ってもらった。
俺電話番号だけ交換して頭を下げた。
家に帰り、俺は今日聞いたことでいっぱいいっぱいになり、そのままベッドに潜り込んだ。
今日もピアノの音は聞こえなかった。