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SS 落葉、ひつじ雲、泡ぶく、春の匂い

作者: 鳴海 淡

朝起きたときから、そんな予感はしていたのだ。

ベランダに出た僕はそう思った。

僕は羽毛布団とブランケットの二枚体制で冬の夜に挑んでいるのだが、年が明けてからは未だ一度も勝利できていなかった(『勝利する』とは、夜中や朝方に寒さで目が覚めないことを意味する。部屋が北側なのに加えて、冬場の澄んだ空気を好む僕は、何時も小窓を少し開けている。敗北の原因は十中八九それだろう。改善する気は無い)。

その日は八時にアラームが鳴って目が覚めた。時間に余裕のある日だったので二度寝をして、次に目が覚めたのは十時だった。つまり僕は、今年初めての勝利を収めたのだった。

鼻をすんと鳴らして、空気を吸い込む。

春のあたたかな匂いがして、だけどその奥には未だ、冬の凛とした匂いが残っていた。

冬を待つ人は夜を待つ人に似ている。

僕にとってそのふたつが象徴するのは生だ。冬は何時か移ろって春になるし、夜は何時か明けて朝になる。そう信じられる人だけが、冬を、夜を、待つことが出来るからだ。

おなじように、夕暮れを待つ人は秋を待つ人に似ているけど、真昼を待つ人は夏を待つ人には似ていない。

ずっと昔から、夏という季節は一日のどの時間にも当てはまらないような気がしていた。

それは僕にとって夏が特別な理由の一つだ。


見上げれば、水色の空に雲が流れている。

今は未だ一月で、本格的に春が来るまではあと二ヶ月くらいある。

春の匂いは雲に乗って、明日には遠くにいってしまうのだろう。

それでも、いい。

だって、夜は何時か明けるし、春は何時か来るのだから。

僕たちがそんな風に信じることのできる、世界の秩序が途方も無く美しい。

信じる人間は、きっとおなじくらい美しい。

そのとき優しく風が吹いて、茶色に染めた僕の髪がふわりと浮かんだ。

色の抜け出した毛先がきらきらと光る。

眼下の常緑樹からは、葉が一枚落ちた。

はらり。

聴こえないはずの音が聴こえるのも、たぶん春の魔法なのだ。

君はこの魔法さえも自分のものだと言うだろうか。


何時の間にか、流れていた小さな雲も落ちた一枚の葉もきえていた。

視界の端で揺れる僕の髪が、ほんの一瞬、君のおくれ毛にみえて、それもまた直ぐにきえる。

泡ぶくのようだ、と思った。

遠くにまた雲がみえたから、僕は右手を空に突き出して、握った。手が冷えていないのは久々で、なんだかおかしかった。

手をひらくと、中は空っぽだった。

雲がきえていなくても、やっぱり僕一人では掴めないのだ。

それがどうにも寂しくて、あの夏よく歌った歌を口ずさんだけど、君のおくれ毛はもうみえなかった。

代わりに、右上にみえる太陽の近くで泡ぶくが一つはじけたから、首にかけていたカメラを構えて、シャッターを切った。

泡ぶくも、太陽の周りから広がる蝶の羽みたいなとうめいな光も、春の匂いも、画面には写っていない。

そうだ。お前はずっとそれでいいんだと思ったとき、また泡ぶくがはじけて、きえた。

とても綺麗だと思った。


ベランダは春の匂いがしている。

窓は薄ら開いていて、部屋の中からは加湿器が蒸気を吐き出す音が聞こえる。

僕は、小さく息を吸った。

冬と春の隙間は孤独で、あたたかい。

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