クロの瞳の異邦人 「7」
修道院から街道まで、掛かる時間はおよそ十分足らず。アリサはそう記憶している。
しかし、この森林地帯全体で見るのならば街道に出ても全体の五分の一程度。
アリサが目指している駅はともかく、ルウシェたちの故郷へもまだ相当量の距離がある。
何事もなく歩き続けていれば、途中休憩を挟んでも夜が明けると同時ぐらいには森を抜けられるかもしれないが、この激しい雨脚と往く手を阻む濃厚が過ぎる夜闇は、まだ小さな二人にとっては最大級の障壁に他ならない。
アリサは二人と付かず離れずの距離を維持しながら、それでもなお歩幅を狭めながらゆっくりと進んでいく。
夜の闇が圧し掛かった泥濘の上を、アリサのブーツが踏みしめる。
そうやって出来たアリサの足跡にランタンの明かりを当てながら、それを踏み重ねるようにしてルウシェとスウェンも足取りを進める。
「あ、アリサさん……前、見えてます、か?」
さして長くない距離とはいえ、道標も無しに進んでいくアリサの後ろ姿に幾ばくかの不安を覚えたのだろう。
雨の音に消されそうな細いスウェンの声にアリサは手を振って返す。
「夜は慣れてる、問題ないよ」
「……お、おねえさんのめ……くろかったよね? おねえさん、いほーじん……なの?」
「ん……?」
そんなルウシェの言葉に驚いて、アリサは思わず足を止めて振り返る。
大きな傘の下にいるルウシェはランタンをぬいぐるみかのように大事に掴んでいて、その大きな丸い瞳に温かな炎の色が差し込んでいた。言葉の意味もさして理解していない、本当に素朴な疑問なのだろう。
「……そんな言葉、何処で?」
「まえに、おとうさんがおきゃくさんとはなしてて。くろいめのひとは、いほーじん……って」
「いほうじん……? って、何ですか?」
「めがくろいと、よるでもよくみえるんですか?」
「や、流石にそんなコトはないけど……」
『はは、簡単さ。アリサが夜でも見えるのはそういう訓練をしてるから。で、異邦人っていうのは、この世界の人間じゃないってことサ』
頼みもしないパンドラの解説に、傘の下でスウェンとルウシェがどう反応していいのか混乱していると、ただでさえ遅い歩調のアリサの足がピタリと止まった。
二人と違って一切の雨具を身に付けていないアリサは当然ずぶ濡れで、気に入っている金色の髪も項垂れている。
ふっ、とアリサは半身を捻って後ろに振り返る。
そんなアンニュイな前髪の奥、アリサを異邦人たらしめるその黒い瞳の視線が濃密な闇の向こうへ吸い込まれていく。
近づいてくる。
修道院の方角から、真っ直ぐに。
雨の中に獣の殺気が紛れ込んで、微風のようにアリサの肌を刺激してくる。
「……? おねえさん……?」
「思ったより、早かったね」
「な、何の話ですか……? まさか……」
軽く辺りを見回して、他より一回りほど大きな木を見つけると、アリサは黙って二人を根元へと誘導してしゃがませる。
「諸々終わるまで、ここでじっとしてて。寒いし、怖いかもしれないけど……我慢して」
「う、うん」
「それから……パンドラを、預かってて」
ずい、と差し出された旅行鞄を、スウェンがどうにか受け取るとアリサは立ち上がる。
「いざとなったら、後は頼むよ。パンドラ」
『あいよー』
「お、おねえさんもかくれれば」
ルウシェからしてみれば、ほとんど無関係のアリサがバケモノを相手する道理はないと見えるかもしれない。
アリサは首を振って、否定の意を示す。
「……アレは、子供欲しさに邪魔なオトナだけを狙うんだ。だから、アタシが隠れても意味がない」
「大人……? で、でも……」
「それに、コレはアタシの生業で……あ、えっと、生業っていうのは、仕事みたいな意味で」
獣の気配がぐんと加速してより一層近づいてくる。
これ以上問答を続けていれば、ルウシェたちをも危険に晒してしまう。
アリサは素早く駆け出すと、距離を取るべく街道とは別方向に向かって移動する。
あの人狼を少しでも誘導して、最低限の安全は確保しなくてはいけない。都合、自分で巻き込んだが故の責任が多少なりとある。
アリサの誘導に、件のバケモノは一切の躊躇もなく突っ込んでくれた。
背筋に迫り来る地響き、接敵の時は間近。
ある程度距離を稼いだところでアリサは足を止め、振り返り、待ち構える。
グァアアアアアアアア!!
わざわざ大木を薙ぎ倒し、いつか耳にした咆哮で大気を震わせながら件の人狼がアリサの前に躍り出る。
漆黒の毛並みは雨に濡れて鈍い光沢を放ち、さながら鋼鉄の鎧のよう。
アリサを威嚇する、そのぎらついた牙や爪は鋭利で獰猛で残酷。触れれば何であれバラバラにしてしまう迫力がある。
人狼の左手を見、その手の平にアリサがつけた生傷が未だ癒えていないのを確認する。
「……アタシ相手に、バケモノアピールする意味」
アリサの独り言。
それが聞こえたかどうかは問題ではなく、黒い人狼はアリサに向かって一直線に飛び掛かってくる。
言ってみればトラックが体当たりしてくるようなもので、マトモに当たれば人間なんて生き物はあっという間にミンチのような結末を辿るだろう。まぁ、そんなものに当たるほどアリサも弱いつもりはないのだが。
力押しばかりの攻撃方法に飽き飽きしたアリサは回避する刹那の一瞬に、ブーツの踵で人狼の左手の――もっと言えば、掌の傷を思い切り踏み付けてやる。
「どんな『夢』を見たら、子供だけを攫おうだなんて考えつくの」
人狼の反撃、その爪が引き裂くのは夜の闇に霞んでいくアリサの影ばかり。
普段なら、この爪や牙が目標を違えることなんて一度たりとも無かった。
爪を振るえば間違いなくその柔肌を斬り裂き、噴水かのように吹き出す血飛沫がこの身を彩るのに。
牙で喰らいつけば、その骨は砂糖菓子かのようにいとも容易く砕けるというのに。
当たらない。
当てられない。
渾身の攻撃が空振る度に、人狼の胸中に焦燥が溜まっていって圧迫してくる。所謂、ストレス。
それが募れば募るほど人狼の攻撃の精度は落ちていく一方で、アリサは未だハチェットを手に取ることすらしていなかった。
「……ね、アーニーさん」
呼ばれるはずのない名前を呼ばれ、人狼の手がピクリと震えて止まる。
血走った獣の瞳の奥に、アリサは彼女の灯火のような小さな理性を垣間見る。
「最初にアタシが負わせた、その左手の傷。アーニーさんの左手の、真新しい包帯に滲んでたあの赤いシミと血の臭い。普通の子供か、普通のオトナぐらいなら誤魔化せたかもだけど、直前に戦ったアタシ相手じゃね」
それは、自らが『普通』ではないという空しい誇示。
アリサの言葉をどう受け止めたのか、彼我の距離には雨音と沈黙とが挟まって、それはそれは奇妙な寂寞が漂い始める。
「ハナシ、出来ないほど『夢』に蝕まれてるっていうなら……もういいケド」
「……驚イタ。ヤケニ、頭ノキレル、旅人ジャアナイカ」
潰れた喉で、無理矢理に捻り出したかのような、辛うじて声と表現できる耳障りな人狼の言葉。
「夢……アタシノ夢ハ、姉サンノ夢。姉サンノ夢ハ、アタシノ夢。ソレヲ叶エルタメニ、アタシハコノ姿ヲ、コノ力ヲ、使ッテイルッテダケサ」
「……カリャンナさんの『夢』」
その言葉の真意に触れる間もなく、人狼と化したアーニーが地面が爆ぜる程の踏み込みでアリサへと肉薄。
アリサの一瞬の虚を、勢いを乗せた剛腕から放つ右ストレートが貫き、アリサを真一文字に吹き飛ばす。
直撃したアリサの身体は大木に、まるで磔にされたかのように背中からめり込んだ。
間髪入れずにアーニーが飛び掛かり、その大木諸共にアリサを叩き潰す。
メキメキと樹皮が裂け、砕け、朽ちていくその音が森全体に響いて、木陰で隠れているスウェンとルウシェの耳朶にまで震えて伝う。
人狼は、高く嗤っていた。
「礼ヲ、言ワナキャイケナイネェ。芝居ヲ演ジル、手間ガ省ケタンダ。後ハ、姉サンガ来テクレレバ」
「スウェンとルウシェが、修道院に帰ってくる」
勝利を手にした人狼の耳元で、アリサが囁く。
今まさにこの手が潰したはずのアリサの身体が、気づけばアーニーの肩の上で平然としている。
「そうだね、アタシがここで死ねば、二人はまたカリャンナさんに助けられて万々歳。連れ出そうとしたアタシを後でボロクソにでも言ってでもして、もう二度と修道院から出ようだなんて妄想を抱かせずに済む」
それは、ある種の正当な方法として。
「……どんな『夢』を見て、そこまで狂ったの」
驚愕と同時に振り回した右腕は空を掴み、暴れ、やがては目の前でふらりと宙を舞う。
自分の腕が宙を舞うという、その光景の意味を理解したのは、自分の斬られた右腕が泥濘の中に落ちた時だった。人生で一度たりとも経験のないような、烈火に呑まれたかのような激痛が腕から全身に駆け巡り、人狼は身悶えする。
「ギゥアッ……アァ、ァアア!? ナ、何ダ!? オマエ、今、一体……!?」
「……」
くるり、くるり。
アリサの指先で赤いハチェットが小さく踊る。
ハチェットの刃が風を切る音、アリサの頬に触れる雨の感触、濡れた森の匂い、血の臭い、殺気――そういった、この場に蟠る音や気配、感覚や雰囲気がアリサの神経を鋭利に研ぎ澄ましていって、己の中に眠っている感覚を呼び起こしていく。
アリサのその黒い瞳に、蒼い光が薄っすらと帯びる。
薄蒼い眼光に据えた漆黒の獣がアリサに急襲すべく、残った左腕を振りかざして飛び掛かってくる。
直後、まるで戦車砲が城壁に直撃したかのような凄まじい轟音が響く。
両者の間から生じた、この森林地帯一帯を震わすほどの衝撃波。
生身の人間が当たればどうなるか――なんて、考えるだけ徒労に思えるほどの傍若無人の暴力。
「……!? ンナ……ニッ……ィ!?」
獣の瞳でなくとも、そんな光景を目の当たりにすれば誰であれ驚愕に見開かれていくだろう。
アリサはソレを、ハチェットを握りしめていない、か細く白い左手で容易く受け止めて見せた。
それは実に自然体で、まるで男同士でじゃれて飛び出たパンチを受け止めるかのような、しかし今アリサが受け止めているのはそんなヤワな代物では決して無い。
予想だにしない事態に陥り、アーニーの思考が数秒ほど凍りつく。
その刹那を、アリサの瞳は実に事務的に捉える。
「……ごめんなさい」
アリサは手の平を離し、小さく跳躍すると同時にハチェットを直上から一閃。
ハチェットから繰り出された斬撃は人狼の脳天からその体を真っ二つに、剰え、その余波が背後にあった大木を、ひとつ、またひとつ、さらにひとつと、瞬く間に両断してしまった。
それは、どう転がっても人智の及ばない、余りにも荒唐無稽の過ぎる圧倒的な一撃。
ハチェットを軽く振って血を払うと、両断された人狼の身体がぐらりと崩れて泥の中に沈む。
今際の際の声すら出せずに絶命した亡骸を、アリサは無言で見下ろしていた。
「……驚きました。まさか貴方のような少女が、音に聞く『夢狩』だなんて」
そんな声が聞こえて、アリサの視線が微かに持ち上がる。
いつの間に現れたのかアリサの正面には、柔和な表情を湛え、猟銃を手にしたカリャンナが立っていた。
「アーニーさんの夢は、カリャンナさんの夢。さっき、そう聞いたけど」
「えぇ、えぇそうですとも。私たちの『夢』は、師父から受け継いだこのヴェーンヘイム修道院を絶やさないこと」
妙に悦に入った様子のカリャンナが自らの身の上を、そしてその『夢』ついて語り出す。
かつて、名も無いスラムで生まれ、住む場所と両親とを一緒くたに失い、たった一人残された肉親と共にアテもなく放浪した果てに辿り着いたのがヴェーンヘイム修道院。
当時修道院を管理していた師父に命を救われ、初めて触れた人の温もりに涙し、姉妹はその多大な恩に報いるべく修道女になる道を選んだ。字も読めない、言葉すらあやふやだった彼女たちに師父は懇切丁寧に教鞭を振り、ほとんど親子のような間柄になっていた。
森を横断する旅人や商人たちと交友を深め、その日々は実に安寧で平穏なもの。
しかしそれは、師父の死をきっかけに唐突に瓦解していった。
ひとり、またひとりと減っていく修道院の人々。
ある者は故郷へ、ある者は旅へ、師父を慕って共に生きていた人間が次々と二人の元を離れていく。
もちろん、姉妹にもお誘いが掛かっていた。
けれど、二人はそれを拒否した。むしろ、批難した。
師父の愛したこの修道院を、そんな容易く捨てるだなんて。
「ここは、この場所は、私たちにとって大切な聖域。決して絶やしてはいけない、場所なのですよ」
「……だから、子供を攫ってた?」
人狼をけしかけて子供を奪い、あの環境に依存させて、修道院を無理矢理に維持しようという支離滅裂な目論見。
「攫うダなんて、心外ですワ。私たちは、困っている子供たちを保護しているに、過ぎまセんノに」
理を以てして考えれば誰であれ気づく。
気づかないわけがない。
その思想は、余りにも歪んでいる。
これが、これこそが。
この『世界』に蔓延する『流行り病』の症状。
「……」
生き物は、誰しも夢を見る。
良い夢も、悪い夢も。
その『流行り病』は悪夢だけを蝕み、デタラメな異形となって、現実に溢れ出る。
現実に溢れ出た悪夢は当事者の深層心理に隠された記憶、恐怖や欲望といったマイナスに偏った感情などを好き勝手に投影して醜悪な姿を象り、その衝動のままに暴走する。
歪んでしまったその『夢』を、健気に、歪んだままに、叶えようと。
「……」
悪夢が現実に目を醒ます奇病――『夢起病』。
『修道院を存続させたい』という悪い夢に苛まれたカリャンナは、アリサの目の前で、妹と同じように漆黒の人狼へとその姿を変貌させていく。
しかし、変異したカリャンナのその姿はアーニーに比べれば一回り――や、二回りほど大きい。
森の木々を悠々と超える身の丈から繰り出された両腕に、アリサは無抵抗にアッサリと捉えられてしまった。
ゴワゴワとした獣の体毛がアリサの頬を逆撫でする。
「フフ、コウシテシマエバ、自慢ノ斧モ、振レマセンネ」
「…………」
ギリギリと全身を締め付けられ、圧迫され、アリサは何を言うこともしない。
もはや人間の理を離れ、獣臭い息を吐き出しながら、狂ったカリャンナはアリサの苦悶の表情を見てやろうとその腕を高らかに掲げる。
スポットライトが差し込むかのような、絶妙なタイミングで稲光が閃いて、アリサの表情を照らす。
それを見たカリャンナは、呻いた。
「……もう、いい?」
苦悶の表情なんて、微塵も浮かべてはいない。
カリャンナの両手で握りしめられているアリサは、ただただ平然と、むしろ気だるげな視線をカリャンナに落としていた。
これがただの人間相手なら――全身のありとあらゆる骨が砕け、潰れ、臓腑をありったけ撒き散らせることだろう。
でも、アリサはただの人間ではない。
重々承知していたはずなのに、そんなアリサを捕らえたという一時の高揚に気が紛れてしまっていて、今の今になるまでその手の平の違和感にカリャンナは気付けなかった。
潰れていない、いや、潰せていない。
いくら力を込めても、どう見ても小枝のようなアリサの華奢な体から発せられる尋常ならざる力で抵抗され、カリャンナは潰すことが出来ない。
「……ッ!? アァ……イ、アアアアッ!!」
何処か悲鳴にも似たカリャンナの咆哮。
潰せないなら、いっそ地面に叩きつけてしまおうと判断したその矢先、アリサを握りしめていた手の平が強烈に抉じ開けられ、獣となった腕の上を一気に駆け上がる。
腕から顔面までなんて、文字通り一呼吸。あっという間だった。
「アタシのこの感覚は、生憎と加減が出来ないんだ。だから」
それは、アリサがカリャンナの最期に贈る、死刑宣告以外の何物でもない言葉。
ハチェットを握りしめる右拳に、目の前のバケモノを殺すには余りあるほどの過剰な力が集束していく。
アリサへと伸びるカリャンナの腕だが、それはどうしようもなく遅過ぎた。
「……さようなら」
小さな別れの言葉と同時に、アリサはハチェットを水平に薙ぎ払う。
瞬間、嵐のような暴風がカリャンナの顔面で吹き荒ぶ。
それはただの風ではなく、アリサがハチェットで放った斬撃の嵐。
荒れ狂った旋風のような剣閃は、カリャンナの顔面を容赦なくズタズタに切り裂いていく。
堅い皮膚は薄っぺらな紙切れのように、膨張した肉はチーズでも刻むかのように、歪んで出来上がった骨格も、もはや臓腑を守る役目すら忘れてしまったかのように。
怒涛の剣閃は破壊の限りを尽くし、森林地帯を震え上がらせ、やがて怖気が立つほどの静寂に飲み込まれる。
自由落下していくアリサの瞳の中で、カリャンナの首が細切れに崩れていくのが見えた。
バケモノと言えど生き物であり、大抵は頭を破壊してしまえば死んでくれる。それは、もしかしたら一種の僥倖なのだろうか。
「……」
終わった。
中空で身体を捻るようにして姿勢を整えながら、アリサは泥濘の上に転がるようにして着地する。気に入ってるジャケットが汚れてしまったが、この雨と血と泥とで、今更気にしても詮無い話。
念のために軽く周囲を見回して一先ずの安全を確認すると、アリサは木陰で隠れていたスウェンとルウシェの方へと向かった。
「お、おねえさん……!」
木の洞から飛び出してきたルウシェが泥まみれのアリサに抱き着いてきた。
あんまりくっつくとルウシェの顔に泥がついてしまうので、適度なところで離してやる。
パンドラを抱えたスウェンは、何処となく神妙な面持ちでアリサを見つめていた。
「ご……ご無事で、何よりです。あの……アリサさん」
「……何?」
「あの、あのバケモノが、修道院の……シスターだったっていうのは……じゃあ……」
「……今日のことは、全部忘れてって」
「う、嘘だ……」
止みかけの雨の中に、弱く響く少年の声。
振り返ると、ヒニアスが大樹を支えに呆然と立ち尽くしていた。
揺れ動く虚ろな瞳には、彼にとって親同然の存在だったアーニーとカリャンナの成れの果てが映り込んでいる。
「ひ、ヒニアス……くん……」
「そんな、シスターが、街道のバケモノだったなんて、そんな、そんなはず……は……」
ふらふらした足取りは吸い込まれるようにして二人の亡骸の方へと向かって、泥水の中に力なくぺたりと崩れ落ちる。
漏れる嗚咽に、しかしスウェンとルウシェは寄り添うべきなのかどうなのかと躊躇してしまっている。
彼らからしてみれば二人のシスターは親の仇も同然。
でも、シスターの側で泣き崩れる彼は知り合ったばかりの小さな友人。
こうも複雑であれば、大人だってそうそう割り切れるような間柄ではない。
「…………」
彼の、あんまりにも小さな背中を見て、アリサは小さく顔を歪める。
もし、アリサが街道で二人の悲鳴を聞かなかったら。
もし、アリサがルウシェの手を拒否して旅路を急いでいたら。
少なくとも、彼にとっては、歪んでこそあれ幸せな時間を過ごせていたのではないだろうか。
この凶刃を振るうと決めても、アリサはどうしても、そうやって考えてしまう。
「……」
無言で、アリサは黒い空を見上げる。
この夜は、まだ明けてくれそうにない。