クロの瞳の異邦人 「5」
談話室から伸びる廊下を真っすぐ突き当り。
そこに、ネームプレートも何もない、他の子供たちが寝室として使っている扉とは明らかに様子の違う古びた扉があった。ここが、本日のアリサの宿。
先の談話室の凡そ三分の一といった広さの部屋で、小さな天窓には今も強い雨脚がビートを刻んでいる。
見回してみれば、足の折れた脚立や工具箱のようなモノが適当に詰め込まれた戸棚など、ガラクタの見本市のような光景でどこからどう見ても倉庫以外の何物でもない。
多少なりと片付けられた小さなスペースに目を付け、アリサはアーニーから借りた毛布を敷いていく。
『カビくっさ』
アリサが寝床の準備を終えると、パンドラは開口一番にコレ。
アリサとて同意見なのだがわざわざ口にはせず、むしろ急ごしらえにしては部屋は最低限片付けられているので何も文句はない。風呂を借りられて、食事が出て、屋根のある場所で寝られる。これが如何に幸運なことか。
「……パンドラ」
『あいよー』
アリサが名前を呼ぶと、パンドラの口がカチリと音を立てて開く。
蹴ろうが叩こうが投げようが、咄嗟に盾にしようが、いくら無駄口を叩いても決してこの鞄がうっかり口を開くことはないのだが、アリサが意を込めて名前を呼んだ時だけ、初めてその鞄は『鞄』としての役目を果たす。
徐にその口を開き、アリサは普段そうしているように荷物を改めながら、奥の小さなサイドポケットから小さな懐中時計を取り出す。
「……」
飾り気の全く無い、シンプルが過ぎる金色の懐中時計の針は7時19分を指している。
細い秒針は、前に、後ろに、前に、後ろにと震えこそすれ、長針と短針は凍りついているかのように微動だにせず、一向に時を刻む気配はない。
火を見るよりも明らか、これは壊れて使い物にならない時計。
しかし、アリサにとってこの時刻は忘れられない時刻であり、そして壊れた秒針の震えは、アリサにとって狩るべき『獲物』の存在を告げる何よりの証左。
『所謂、マッチポンプってヤツだよね』
「……ん」
突拍子もないパンドラの言葉だが、アリサは首を小さく動かして頷く。
『筋書きとしてはこんな感じかな? 森の中の街道を進もうとする人に、人狼のバケモノをけしかける。この際、特に親御連れを重点的に狙って攻撃させる。両親はキッチリ殺害して子供だけを孤立させ、敢えて森の中を逃げるように仕向ける。逃げ回る子供は、シスター・カリャンナが頃合いを見て現れて、颯爽と人狼を追い払って助ける。この繰り返し。年端もいかない子供からしてみればシスターは文字通りヒーローで、森の中に隔離されたこの環境において依存させやすく、結果としてここが自動的に唯一の楽園になる。まぁ、どうして子供を狙うのかは……わかんないケド』
「……他人の悪夢なんて、知らなくてもいい」
『そうだね。アリサが余計に悩んじゃうもんね』
鞄の癖にくつくつと笑うパンドラに、アリサは多少なりとムッとなって、デニムのポケットに時計をねじ込んでから感情的に鞄を閉じる。
『さてこっからがお仕事のハナシ。問題はどーやって、化けの皮を剥ぐかってトコだよねぇ。このままシスターを、シスターのまんまぶった切ったりなんてしちゃったら、アリサは見事狂った殺人鬼の仲間入り』
「どーにかして、人狼の姿を晒させる必要がある」
『どーやって?』
「……」
ここでアリサが修道院を発てば、彼女らはアリサを見送ってそれっきり。
アリサは何事もなく街道を抜けて目的地へと辿り着き、ハナシはこれで終わりとなる。だが、この惨劇にカーテンは下りてくれない。
『いっそ、街道のバケモノはシスターたちの仕業ですよ~とか言ってみる?』
「……馬鹿」
修道院の子供たちが、そんな笑えもしない与太話を信じるわけがない。
今までを見るに、彼女らは子供たちから絶大な信用を得ている。
微塵も疑う余地のないシスターをバケモノと糾弾すれば、アリサだけが非難轟々の嵐に呑まれるだけで解決には程遠い。
とはいえ、この一連の事件に始末をつけることが、子供たちにとって本当の幸せに繋がるのかと思うと……
「……?」
ふと、アリサの視線がドアの方に向けられる。
扉の向こう側に動く気配が二つ。ルウシェとスウェンか。
「入っていいよ」
アリサの声から一拍ほど遅れて、おずおずといった風で扉を開けたのはスウェンだった。
後ろにはルウシェがコーヒーの入ったカップを持って立っていて、ノックをする前に招かれたことに目を真ん丸くして驚いている様子だった。
「こ、こんばんは……僕たちだって、分かったんですか……?」
「なんで……?」
「……何となく。あぁ、それはコイツの上にでも乗せて」
荷物の整理を終えたパンドラを閉じ、即席のテーブルとして前に差し出す。
ルウシェがぷるぷる震える手元で無事にコーヒーを置いてどうにか一息。
『砂糖もミルクも入ってないとみた』
「ご、ごめんなさい。そういうのないって、いわれて」
「別に、問題ないよ」
どうして乗せただけで砂糖やミルクの有無がわかるんだろう、みたいな顔したスウェンを他所にアリサは遠慮なくコーヒーを一口。……めっちゃ苦。
舌にしつこく絡んでくる苦みに悪戦苦闘しながら、アリサは渋面のままで二人に訊ねた。
「……何か用?」
「あの……その、アリサさんにお願いがあって来たんです」
「お願い?」
「わたしたち、おうちにかえりたいんです」
初対面の時とは打って変わって、スウェンとルウシェは落ち着いた調子でアリサにその旨を吐露していく。
二人の実家は、森を抜けた先の小さな町で酒造業を営んでいるとのこと。
数日前に南方の町からの注文で商品を届けることとなり、今回たまたま仕事の手伝いということで両親と一緒に配達に行くことになった。
元々、狼街道のウワサ自体は聞き及んでいて、行きも帰りもに東側の迂回路を進むつもりだったのだが、生憎と帰りは落石の影響とやらで通行不可。急げば心配いらないだろうと父親が狼街道への進路を取り、結果として今に至る。
『よくあるハナシだよねー。急がば回れって言葉を知らないのかね』
まだコーヒーの入ったソーサーを左手で少し持ち上げ、右手に拳を作ってパンドラを叩きつける、そしてソーサーを戻す。
苦悶と怨嗟が混じったような声が聞こえるのだが、素知らぬ顔でアリサは頬杖を突く。
「それで…………あの、お父さんとお母さんのことを、家で待ってる叔父さんに……報せ……ない、と……」
「……う、ぅ、ぇええ……ん」
目の前で両親が殺され、逃げて、アリサとシスターに助けられて、修道院の子供たちに絆されて。
ジェットコースターもかくやといった目まぐるしい状況の変遷に感覚がマヒしていたが、今ここでようやっと二人は現実を理解し、受け入れた。
受け入れて、許容量を超えて溢れてきた、無垢で大きな雫。
そう、彼らは目の前で両親を殺されたのだ。
すすり泣く二人の頭に、アリサはぽんとそっけなく手を乗せる。
「……わかった。アタシも『駅』に向かってるから方向は同じだし、途中まで護衛しながら一緒に行こうか」
「あ、ありがとう、ございます……!」
『いいのー? アリサ仕事が』
「いいの」
「おねえさん、『えき』にいくの? じゃあ、『まち』にいくの?」
「……ん」
中央市街に、赤い頭巾のババアがいるってハナシを聞いたな。
それは、以前アリサが立ち寄った村で聞いた彼女に関する唯一の手掛かりだった。
道すがらに得た情報としては『赤い頭巾』という明確なキーワードが印象的で、あの瞬間にアリサの目的地が中央市街へと決定された。
とはいえ、中央市街という場所は現在地から見てもかなり遠く、どうしても大陸を縦横無尽に駆ける自動列車の力に頼らざるを得ない。
自動列車の駅はこの森を抜けたさらに先にあり、アリサは少しでも早く辿り着けるよう、迂回路ではなく、多少の危険を承知で件の街道へと進路を取った。……あれ。
『こりゃ人のコト言えねーなー』
空になったカップとソーサーを床に退けて、右手に握り拳を作って、意を込めて叩きつける。
建物が揺れたかのような衝撃と拳大のクレーターがパンドラの横っ腹に出来上がる。
『八つ当たりすんな!?』
「……ふふ」
そんなやり取りを見てか、ルウシェが小さく微笑する。
隣のスウェンも、当初抱いていたようなパンドラへの抵抗感も薄まったようで、アリサとしても気楽でいい。
「じゃ……そうだね、何も言わずに出て行くのもアレだから、シスターに少し話してみようか」
「うん」
「はい、お願いします」
せっかく広げた毛布を畳み、いくらか片付けを済ませてからアリサはパンドラを引っ掴む。
『アリサ』
「……なに?」
『相変わらず、フクザツそーな顔してる』
「……」
何も言わず、アリサは部屋から出て行った。