第95話「夢十夜」
街の大きな本屋に来ていた。英語の参考書がずらっと並んだ巨大な本棚の前で、俺は腕組みしながら背表紙のタイトルを右から左に確認していく。ネットで見たお目当ての一冊を見つけ、手に取り中身をパラパラと眺める。ふーん、ま、いいんじゃないの。
参考書を小脇にぷらぷらと店内を見回っていると、ラノベコーナーにて青春ラブコメの最新刊が大々的に陳列されていた。懐かしい。ラノベは高校で卒業した。
「……」
高校時代といえば、俺の高校2年は青春ラブコメにも劣らない毎日だった。あれからもう丸2年経ったのか。隣の席の女の子……飴宮 薄荷さんと会った日から。
退屈な日常から俺を解き放ち、俺の高校2年をかけがえのない思い出にしてくれた。俺の人生において間違いなく一番の友人だった。あの頃の記憶は思い出を超えて軽い自慢だ。彼女、今なにしてるんだろうか。
3年のクラス替えで違うクラスになり、受験に追われる日々の中でだんだんと疎遠になっていった。何かしらの行事や集会で顔を見る機会はあったが、特に何か話すこともなく、彼女の進路すら聞けずに卒業してしまった。今ではもう、顔を思い出そうと記憶を遡っても低画質の動画でも見てるみたいにもやがかかってしまう。時の無常と俺の薄情が嫌になる。
本当に今なにしてるんだろう。大学に通っているのだろうか。もしそうなら、餅月さんや逸部みたいな友達はできただろうか。可愛げのある童顔で、素直で性格が良いから、彼氏のひとりでもいるかもしれない……。
「……」
いーや俺はそんなの認めないぞ! と、俺の中の子煩悩お父さんが声を上げるが、生憎俺は飴宮さんのお父さんではないし、元彼でも今彼でもない。友達以上恋人未満の曖昧な関係を壊したくなくて、どっちつかずのままでいたら、気づけば疎遠になっていった。惜しいことをしたな、と色恋とはとんと縁がない生活を送る今となっては思うが、もしあの頃に戻れたとしても俺は全く同じ道を辿ると思う。
こうして昔のことを取りとめもなく思い出していると、胸が締めつけられるような甘酸っぱいノスタルジーに襲われる。それくらい特別な思い出だし、俺のような人間には訪れるはずがなく、また二度と訪れない時間だったということを、なんとなく悟っていた。
「……」
若年男性向け流行雑誌を手に取り、参考書と一緒に抱えてレジの列に並ぶ。いつか彼女と街でばったり再会することがあれば、そのときはなるべく格好の良い姿でありたい。慣れない若年男性向け……わかったよメンズノンノだよ、とにかくそのノンノちゃんでファッションを勉強するのが新しい習慣になっていた。
「……」
さて緊張の瞬間。ここの本屋は順番待ちの列が1本に対してレジが複数あるので、レジの人の手際やタイミングによって、どこのレジに割り当てられるか直前まで分からないのだ。エロ本買いに来た童貞じゃないが、レジカウンターの若い店員が「うっわこいつこんなの買ってやんの」とか内心馬鹿にしてんじゃないかと思うと、やっぱり店員は50歳くらいのオッさんがいいなと思うのである。
店員ガチャに気をもんでいると、レジの順番がやってきた。一番奥のレジが空いているのでそこに向かう。
……ぬああ。
同世代くらいのバイトっぽい女の子。一番苦手なタイプだった。全身から変な汗が出てくるのを感じつつ、なるべく目を合わせないようにしながら本を差し出した。
会計が終わり、本を受け取るのを待っていると、……本がいつまで経っても店員から俺の手に渡らない。
なにしてんだと顔を上げると、店員の女の子は目を丸くして俺の顔を見つめていた。
「――孤羽、くん?」
毎日のように聞いていた、柔らかくて心地よい、忘れるはずもない声。その声をきっかけに、2年前の記憶が走馬灯のように蘇った。
「飴宮さん?」
* * *
本屋の近くの喫茶店に待ち合わせた。窓際のテーブルで適当に本を読んで待っていると、じきに飴宮さんが入店してきた。入り口のあたりで俺を探してきょろきょろしているので、軽く手を振ってアピールするとほっとした様子で手を振り返してきた。笑った顔は昔のままだ。
「髪……切ったんだ」
少しよそよそしい挨拶と互いの近況報告も終え、俺は雑談の口火を切った。昔は後ろで結んでいた髪はおろされ、流行りの若手女優みたいな肩にかかる自然なミディアムヘアーになっていた。かつての彼女の象徴だった長い前髪は両目の上で切り揃えられ、ヘアアイロンでつやっと巻いていた。なんというか、ごく普通の美人。俺がこんな美人と知り合いだなんて、なんだか不思議な感覚になる。
「えへへ、大学デビュー、です……なんて、懐かしいね。孤羽くんと話すとつい敬語になっちゃう。もうコミュ症は克服したのに」
「克服したんだ」
「ちょっとずつだけど、なんとか。おかげさまで、大学で友達もできた」
「そりゃよかった。ちょっと見ないうちに立派になっちゃって」
親戚のオッさんみたいな感想を口にすると、飴宮さんも「それはお互いさま……」と、何かを探るように、テーブルの上に置かれた両手をもぞもぞさせた。
「や、やっぱりあれなんですか? あの孤羽くんがファッションに気を使うなんて、その、か、彼女さんの影響を……」
指を組んでうじうじしながら、飴宮さんはそっと俺の顔を見上げた。あまりに的外れな推理に、思わず声を出して笑ってしまう。
「ちょっと見ないうちに冗談まで上手くなったな」
「え、いないんですか? 彼女さん」
「いるわけないだろ。理系学部なんて男だらけだよ」
「そう、なんだ……」
飴宮さんはほっとしたように微笑した。その微笑みに、何か深い意味を感じずにはいられなかった。都合の良い妄想をしてアルコールが入ったみたいにふわついた頭で、俺は思い切った質問をする。
「それより、そっちは? そんなに垢抜けちゃって」
そう訊くと、飴宮さんは目を逸らして頰を染めた。
「これは……ある人と会うときのために、なるべく可愛い姿でありたいと、思って」
そう言い、彼女は俺の知らない顔ではにかむ。空白の2年間でどこか遠くに行ってしまったような大人びた表情に、いつまでも過去の彼女に縋っていた俺は一抹の寂しさを覚えた。
「そっか……そう、だよな。うん。飴宮さんにもそういう人くらいいるよな……」
納得したように頷きながら、未練を残したように声のトーンが尻すぼみに下がってしまう。いかんいかん、せっかくの再会なのにダサいな俺。
「――相変わらず、現代文が苦手なんですね」
飴宮さんは昔の調子でいたずらっぽく言った。その言葉の意味を問おうとする前に、彼女はテーブルに投げ出された俺の手を取った。
「なっ」
「孤羽くんのために、決まってるでしょ――」
* * *
がばっ。
「……」
身体を起こすと、布団の中にいた。目覚まし時計を見るともう朝だった。
「……」
あくびをして布団から出る。ずいぶん昔の夢を見てしまった。リビングに向かうと、何かを炒める音がする台所から声がした。
「おはよう、あなた」
「あぁ、おはよ」
エプロン姿でフライパンを振る彼女に短く返事をする。隣の席どころか、つい先日同じ籍に――
「……ん?」
ふと我に帰り、寝ぼけ眼に映る視界がぐらりと揺らぐ――
* * *
「!」
今度こそ目が覚める。夢から覚めた夢を見てしまったようだ。目覚まし時計を見ようとしたら、枕元の青春ラブコメ小説が目に入ってきた。妙な夢を見たのはこれのせいか。
「変な夢見せてくれちゃって」
あくびをこきながらぼやき、僕は再び布団に包まった。
いつも読んでくれてありがとうございます。となりの席の飴宮さんを投稿して1年が経ちました。時が経つのは早いものですね。




