第91話「不可逆リプレイス」
今日の放課後練も終わって、下校すべく廊下を歩くと俺と餅月さん。
「いやー今日もお疲れさま! 一時はどうなるかと思ったけど、なんとか順調だね! きょーちゃんも最近頑張ってくれてるし」
きょーちゃんとは実行委員の女子のあだ名で、下の名前の京子からきている……と、餅月さんとの交流を通して着々と女子の下の名前に詳しくなっていく今日この頃。
「ようやくスタートラインに立ったんだ。後は優勝目指して練習するだけだな」
「明日リハーサルの予定だから、頑張らないと」
「……それより、喉は、大丈夫なのか?」
俺が訊くと、餅月さんはいつもの人を安心させる笑顔で「大丈夫だよ」と言うが、いつもより明らかに声がかすれていた。ひとりでクラスをまとめて指示を出して、自ら先頭立って声を出して歌う、喉を酷使する生活がかなり続いてしまっている。
「孤羽くんのおかげで、みんな集まっていい感じだから……今年こそは、優勝したいから……」
餅月さんは言葉を詰まらせ、2、3度咳払いをする。俺はそんな彼女を見ていたたまれない気分になり、ポケットからキャンディを取り出した。
「よければ、これ……アメちゃん」
俺にできるのはこれくらいしかない。不甲斐ない自分に苛立ちが募るが、餅月さんは微笑みながら受け取ってくれた。
「ありがとう」
「……」
悪い予感ほどよく当たる。翌日、餅月さんは風邪で欠席した。
今日の放課後練は、教室の机を下げて、入退場やひな段の並び順を本番通りに全体で合わせる大切な練習。だが、絶対的なリーダーだった餅月さんのいない教室は、なんとなく緊張感が欠けて、みんな練習そっちのけでだらだらと喋っている。実行委員の女子がふにゃふにゃと何やら言っているが、誰も聞く耳を持たず、もうグダグダだ。
「めんどくさ」
「これいつ始まんの?」
「だる」
教室の空気はヒリヒリとささくれ立ち、崩壊寸前だった。やる気を起こさせるよりも体裁を繕うことを優先した今までの俺のやり方が、最悪の場面で裏目に出てしまった。
「……」
餅月さんが身を削って守ってきたものを、こんなところで、俺のせいで台無しにしていいはずがない。そう思い立つと、俺は鞄を持って教室のドアに手をかけていた。
「ちょ、ちょっと、孤羽? どこ行くの?」
実行委員の女子が慌てて引き止めてくる。なんとかしようと焦っているのはわかるが、なんというか彼女には、泥の中に自ら手を突っ込むような、吹っ切れた積極性が欠けていた。世話焼きの餅月さんが上手く回してくれていたからといって受け身を取り続けてきた結果だろう。
だから、俺が泥の中に突き落とす。
「時間の無駄だから帰るんだよ。どうせお前、餅月さんがいないとなんにもできないんだろ?」
クラス全員の前で、彼女がおそらく一番気にしているであろうことを言ってやると、彼女はかあっと頰を紅潮させた。俺の顔を睨みつけた両目からは見る間に涙が溢れていく。
「っ……わ、私だって……私だって、自分がダメなやつだってことくらい、わかってるよ……だから、今日こそは、って、思ったのに……ぐすっ、そ、そこまで言わなくても……」
それ以上は言葉が出て来ず、彼女は顔を両手で覆ってしまう。教室は水を打ったように静まり返り、クラスの奴らは俺と彼女を食い入るように見つめている。彼女の嗚咽だけが響く重苦しい教室。その空気を跳ね除けるように、ひとりの男が俺の前に姿を現した。
「――帰れよ。練習の邪魔だ」
それは、つい1分にも満たない前に友人とバカみたいに騒いでいた名ばかりの実行委員の本田だった。今までなにひとつ仕事をせずに餅月さんに過度の負担をかけていた張本人が、何の疑問も持たずに、この俺にゴミでも見るような目を向けてくる。
「笑えるな。今まで練習サボってた奴が、今更偉そうに実行委員ヅラですか? カッコつけがしゃしゃってんじゃねえよ」
口を歪めて笑うと、顔面に握り拳が飛んできた。骨と骨がぶつかる鈍い音と、女子の甲高い悲鳴が上がる。
「しゃしゃってんのはどっちだ?」
自分のことは棚に上げて、青春ドラマのヒーロー役でも演じているんだろう。顔に唾でも吐いてやりたいが、そこまでこいつの人生に彩りを加える義理もないので、そのまま教室から出ていった。
「見損なった」
教室に背を向けると、氷みたいに冷たい声が俺の心を突き刺した。振り返ると、逸部が遠くの方を睨みながら口元を震わせていた。目も合わせてくれないってか。悲しいねぇ。
「……」
そんな逸部の奥で、こちらを見ている飴宮さんと目が合った。失望や軽蔑からではなく、俺がこんなことをする人間ではないとでも言いたげな、不安そうな目をしていた。殺していた心が一瞬だけ息を吹き返し、頰の痛みがじわりと響く。
視線を戻し、俺は教室を離れた。誰にどう思われようと関係ない。俺はただ、合唱祭を成功させたいという餅月さんの希望を守るだけだ。
* * *
朝練を休み、ひさびさに遅刻寸前の時間に登校する。
「……」
教室に足を踏み入れた瞬間、普段なら俺を認識すらしないくせに、クラスの連中が一斉に視線を向けてきて、物言わぬ圧力で俺の侵入を拒んだ気がした。
「……おはよ」
「おはよ……ございます」
それに構わず席につき、隣の席の飴宮さんと普段と変わらぬ挨拶を交わす。
「は、迫真の演技でしたね、昨日。助演男優賞ものですよ」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
やっぱり飴宮さんにはバレていたか。俺はうやうやしい口調で礼を言い、「それより」と話を変える。
「今日の朝練はどうだった? 実行委員のやつらは」
「それはもう、ふたりとも人が変わったみたいに真面目になって……今日も餅月さん来なかったけど、問題なくクラスをまとめてました」
「そりゃよかった」
「よくないですよ……」
俺のせりふに被せるように、飴宮さんは食い気味に否定してきた。机の上で小さな拳を握りしめ、薄い唇を血が出そうなほど強く噛んでいる。
「こんなの……こんなの、おかしいじゃないですか。ずっと適当にやってた実行委員の人たちが、人並みに動いただけで手放しで褒められて、誰よりも真面目にやってきた孤羽くんが、こんな扱いを受けるなんて……」
「いいんだよ。別に」
「でも……」
納得できない様子の飴宮さん。続く言葉を待っていると、飴宮さんは糸が切れたようにかくりとうなだれた。
「悔しいんです。クラスの人たちが、孤羽くんのこと誤解してるのは」
「そんな誤解、解いてどうなるよ。昨日のが、実行委員を覚醒させるための茶番だってバラすようなもんだ」
「それは……」
「そういうことだから」
この話は終わり、と話をしめたが、飴宮さんは「でも」と呟いた。
「私は、ちゃんと知ってますからね。孤羽くんが頑張ってきたこと」
「……」
あぁ、そういうことか。他のやつらにどう思われようと、いくら白い目で見られようと、俺が平気でいられるのは、飴宮さんが分かっていてくれているからだ。
「そうは言っても実際問題、練習参加するのくっそ気まずいなぁ……」
「逃げた分だけ、戻りづらくなりますよ。放課後練は、ちゃんと来てください」