第88話「メランコリック」
それは昼休みのこと。
「うぇーいあーちゃんハッピーバレンタイーン! チョコ交換しよーぜー!」
まったり読書していたら、隣の席の飴宮さんにアホの逸部が絡んできた。飴宮さんは前もってそんな約束をしていたようで、戸惑う訳でもなく鞄から小さな袋を取り出して逸部のものと交換していた。
「わぁ。逸部さん、器用なんですね、意外と」
「あーちゃんも、これ作るの大変だったでしょ? いやーすごいなー」
「いえいえ、私なんて見た目を整えるセンスがなくてどうも……」
「それを言ったらあたしのもツイッターとかインスタのおしゃれなやつ真似したただけなんだけどね。そうそう、インスタといえば――」
互いのチョコをつまみにしてガールズトークが始まってしまった。てか、蚊帳の外のこっちにも甘い匂いが漂ってくる……ふたりが作ったチョコってどんなのだろう。なんとなく興味がある。
それとなく隣の席に視線を向けると、偶然逸部と目が合った。
「は? 何その物欲しそうな眼は。おめーのチョコねーから!」
「……」
バレンタインなんて、糞食らえ。
* * *
それからは特に何もなく放課後を迎えた。特に何もなく、放課後を、迎えてしまった。
「……」
「……」
合唱祭の放課後練が終わり、帰り支度をする俺たち。今年も何もなく、バレンタインが、終わる。
残念じゃないといえば嘘になる。そりゃ俺だって何かを期待しちゃうよ。飴宮さんなら「一回やってみたかったんです」って言って友チョコくれると思ったんだけどな……。今年は、妹の失敗作のチョコしかもらったことがない負け組から抜け出す千載一遇のチャンスだったのだ。一切の感情がこもっていない義理チョコだろうと、バレンタインを経験したいという飴宮さんの自己満足的な欲望のはけ口にされようと、クラスの女の子にチョコをもらったという事実が揺らぐ訳ではない。
揺らぐ訳ではないんだよチョコくれよ! などと昭和のアニメキャラみたいに駄々をこねられるほど俺は素直な性格ではない。
このままでは諦めきれず、飴宮さんと帰り道の廊下を歩いていた。
「と、ところでさ」
「?」
「や、別になんでもない」
渡すタイミングを逃したのかもしれないからそれとなく話をバレンタインに誘導するつもりだったが、この俺にそんな気の利いたことできるはずもなかった。
「男子は、餅月さんからのチョコ目当てで朝練頑張っていたらしいですが、結局もらえたんですか? 私たち今日は廊下で練習してたので、分からなくて」
俺が何をするまでもなく、飴宮さんの方からバレンタインの話題にしてくれた。
「ほろ苦いブラウニーだった。餅月さんが机の上で店広げてなんかスーパーの試食会みたいになってて思ってたのと違ったけど、木藻男が鼻血出して気絶してて本当にビビった」
「……へぇ」
飴宮さんはどこか嬉しそうに話を聞いていた。
「まぁ俺は別に――」
「あ、あのっ」
飴宮さんは俺の言葉を遮り、鞄に手を突っ込む。
「こ、これ……」
そして、リボンのついた小さな袋を差し出してきた。
頭の中が、真っ白になった。
「……」
目の前に差し出された包みと、目をぎゅっと閉じた飴宮さんの赤面した顔を見ているうちに、心臓が胸を突き破りそうなほど強く、速く鼓動し、血液がギュルギュルと身体中をせわしなく駆けめぐって顔に集まってくる感覚がした。飴宮さんが目を閉じていなければ、彼女に負けず劣らず赤面した顔を晒してしまうところだった。
俺に……それをくれるというのか?
目の前の現実を理解すると、全身の神経がびりびりと痺れて、身体が空に浮き上がってどこまでも飛んでいってしまいそうな高揚感に包まれた。
「ありがとさん」
平静を装って受け取ると、飴宮さんはぱちりと目を開け、照れ隠しのように前髪をいじった。
「……頑張って作ってみました。孤羽くんは、甘いのが好きなんですよね」
「分かってんじゃん」
ニッと片頬を上げると、飴宮さんもほっとしたような、満面の笑みで応えてくれた。俺の嗜好に合わせて作ってくれたというのがなんか、こう、いいな。胸がじーんときちゃう。
「いや、よかった。今日一日、何かしらのアクションどころか話題にすら上がらなかったから、俺のことなんてなんとも思ってないんじゃないか、って思いかけてたから」
「……本当になんとも思ってなかったら、今の今まで渡しそびれたりなんてしませんよ。席、隣なのに」
「それって――」
薄々勘付いてはいた。
互いに惹かれ合っていながら、この関係が変わるのが怖くて、心地よい日常を壊したくなくて、気づかないふりをしていた。
何の進展も成長もせずにぬるま湯に浸かる俺たちは、どうしようもなく愛に飢えていて、そして怠惰だ。でも、このぬるま湯を味わえなくなるくらいなら、その先のものなんていらない。怠惰が罪なら、その十字架を背負うまでのこと。
友達以上恋人未満の、曖昧な関係だからこそ、ここまで長続きしてきた。
「……」
ここから先を言ったら、飴宮さんを苦しめてしまう。
「ごめんなさい……こうなって、孤羽くんを苦しめてしまうことは、分かっていたのに……でも……」
飴宮さんは、すがるような儚げな眼を向けてくる。
「今だけは……あなたの優しさに甘えても、いいですか……?」
手を伸ばせば届くのに。たった一言かければ、世界一可愛い女の子を自分のものにできるのに。
ただ見ているだけしかできないなんて、残酷すぎる。これではまるで生殺しだ。
「……また、明日」
飴宮さんがそう言っていなくなってからどれだけ経っただろう。気づけば、ずっとひとりで立ち尽くしていた。
ひとり残された廊下で、俺はラッピングを開封して立方体の小さなチョコレートを取り出し、口に入れ、噛み砕いた。
「バレンタインなんて……糞食らえだ……」
ビターな現実を中和するように、飴宮さんのホワイトチョコはとても甘かった。




