第86話「曇天」
雨でも降りそうな曇り空。湿気を多く孕んだ空気を吸い込み、雨の匂いが嫌いではない俺はいくばくかの清涼感を得る。先の見えない灰色の空は、これから始まる祭りの行く末を暗示しているようだった。
「――では、自由曲の第一候補は『COSMOS』、第二候補は……」
土曜日4限のロングホームルームの時間。多数決の結果が書かれた黒板の前に立った餅月さんは、自由曲の候補の最終決定を報告した。クラスの大半の奴らは特に興味がないというような適当なリアクション。この取り決めが終われば帰れるので、心ここにあらずといった感じだ。
そう、合唱祭が来てしまったのだ。
「いやはや、もう合唱祭の時期ですか……」
隣の席の飴宮さんが、重い息をつくように言葉を吐き出した。声のトーンから、合唱祭を心待ちにしているわけではないことは分かった。
「朝練放課後練地獄の始まりだな……」
「朝練は正直キツいです……学校まで片道2時間かかるし、お弁当作る時間もあるので……」
「……いや、そんなん言われたら俺なんも文句言えないわ。マジ頑張ってね。コンビニ弁当に頼ってもいいんだよ」
「えへへ……合唱祭はちょっと苦手で……歌声を誰かに聞かれるのが、すごく恥ずかしくて、目立たないように、囁くように歌っているのですが、声が出ていないといつも怒られてしまうので……」
飴宮さんは罰が悪そうに告白した。文化祭のときの熱量とはえらい違いだ。
「いや、分かる分かる。パート練で声聞こえた奴から抜けていって声出さない奴あぶり出すあの練習嫌いすぎるよな。でも、サボる男子に怒る女子の構図で男女間に亀裂が走ったり、リーダーの女子が泣いたときのヒリついた空気は面白くて好き」
「うわぁ……関係ないですけど合唱祭といえば、孤羽くん、中学生の頃は歌わないのがカッコいいとか思って反抗してそうですよね」
「適切に黒歴史をえぐりに来るな……何を見てそう思ったんだ?」
「なにもかもです」
* * *
「あーあ……くそだりー……」
ホームルームが終わり、帰りの廊下をひとり歩きながら、近い将来起こる憂鬱に悪態をついた。
「――聞こえてるぞっ」
背後からそんな声が聞こえたと思うと、鞄が軽く叩かれる感覚がした。振り返ると、餅月さんがいたずらっぽい目でこっちを見ていた。まとめ役の餅月さんに聞かれていたとなると決まりが悪い。
「や、つい口が滑って。お疲れ」
「お疲れ。合唱祭頑張ろうね、私たち今年が最後の合唱祭なんだから」
そういえばそうだ。来年の今ごろ、俺たちは受験真っ只中。つまり、俺たちにとって今年は最後の合唱祭なのだ。
「私、合唱祭で1位取れたことないからさ、最後くらいは、みんなで頑張って優勝して、良い思い出にしたいなぁ」
「茨の道だな。まぁ悔いのないように頑張りたまえよ」
「孤羽くんも頑張るの。……いや、ほんとは、私がもっとリーダーとしてちゃんとしてたら良かったんだけど……」
餅月さんは珍しく自信なさそうな顔で俯いた。
「軍隊みたいに無理やり押さえつければ、みんな練習してくれるかもしれないけど、私はみんながいないと何もできないちんちくりんだから、そういうやり方はできない」
餅月さんは上に立って力で言うことを聞かすタイプではなく、みんなに慕われて、愛されるタイプのリーダーなのだ。彼女の言った軍隊方式は彼女の能力的にも性格的にも適切とはいえない。
「それに、無理やりとかじゃなくて、みんなで楽しく歌って、優勝したい。だって、今年は高校生活どころか人生最後の合唱祭だもん」
「……」
それは限りなく綺麗事だし、軍隊だろうと無理やり統制させたクラスの方が結果的に優勝する確率が高いことも、餅月さんは経験的に知っているだろう。でも、最後くらいは、その綺麗事を実現したいと、餅月さんはそう言っているのだ。高校生になって反抗するばかりでなく理性や打算を身につけたクラスメイトや、根拠のない青春の奇跡とやらに賭けているのかもしれない。
「だから、練習始まったら、孤羽くんも協力してくれると嬉しいなぁ」
「……善処するよ」
「やった! 協力してくれるんだね!」
「いや、善処って……」
餅月さんは職員室にこれから予定があるらしく、真っ直ぐ帰るだけの俺と別れた。
何やら餅月さんは忙しく働いているが、俺の記憶が確かなら、うちのクラスの合唱祭実行委員は餅月さんではなかった気がする。
校舎の外に出た。厚い雲がかかった不穏な空を見上げる。
「……」
ひと雨降りそうだ。