第72話「壊」
「まったく、感心しませんね。遅刻なんて」
「すいませんね……」
「そんなに罪悪感のない『すいません』を言えるのは、ある意味才能、ですよ……」
飴宮さんと軽く言葉を交わす。そのやり取りは、クラスのあらゆる場所で発生しているようなありふれたものだった。分かってはいたが、やはり俺はそこらへんのモブだったんだな、と心の奥が冷えるような感覚がする。
「……」
それはさておき、飴宮さん、なんか雰囲気が変わったような……何かは分からないけど、なんか変わった気がする。うーむ、この違和感は何だ?
「……」
先ほどの仄暗い感情などすっかり忘れて間違い探しに夢中になる。不自然に空いた間に飴宮さんがそわそわと困惑するが、じっくり10秒ほど考えて原因を探し出す。
「……髪、切った?」
100万円がかかったクイズ番組か何かのような緊張感の中、口を開く。若干キメ顔になってしまって恥ずかしい。
飴宮さんは少し照れ臭そうな顔をしてうなずいた。
「き、気づきます、よね……伸びてきたので、バッサリ切ってもらおうとしたら、やりすぎました……自分でもちょっと、違和感が……」
恥ずかしそうに言いよどみ、飴宮さんは両手で顔ごと前髪を覆い隠してしまう。だが、正直、いつも隣で彼女を見ている俺ですら見落とすレベルの微差だ。まぁ、飴宮さんは前髪で眼を隠しているから、長さに関して神経質になる気持ちも分からなくはないけど。
「髪切りたての頃は、慣れるまで違和感すごいからな……こういうのって『新しく始まる戦隊モノは最初はこんなの認めねェみたいになっているが最終回の頃には離れたくなくなっている現象』と近いものを感じるよな」
「なんですか、その、銀魂のサブタイトルみたいな現象名は……しかしまぁ、的を射た表現ではあります」
「変化を受け入れるのには時間が必要なのよな……関係ないけど、『的を射た』が正しいんだっけ。『的を得た』が誤用なんだっけ」
「え、む、昔読んだ本にはそう書いてあったような……紛らわしい日本語、なんていってよく取り上げられていますけど、誤用の方ばかりが頭に残ってしまうし、的確な覚え方を教えてくれないから、なんだか、不親切ですよね」
「そうそう。『力不足』と『役不足』は、両方の意味を知っていれば字面でなんとなく区別つくけど」
「『気のおけない仲』や、『取りつく島もない』も、誤用が有名になりすぎて、結局どっちが本当か分からない言葉、ですよね」
「いや。ゆーて飴宮さん本読んでるから日本語はちゃんと理解してるでしょ」
「私なんて、まだまだ知らないことだらけ、ですよ」
「知らないことのレベルが俺たちとは違うんだよなぁ……」
適当に喋りつつ、切った髪に飴宮さんが早く慣れるといいな、と勝手にお節介を焼くのだった。
* * *
放課後。遅刻者ペナルティの教室掃除を狼月とこなしていた。お互いさっさと帰りたいので、適当にこなして仕上げにかかる。
「……夢?」
ちり取りにゴミを入れながら、狼月は俺の発言を聞き返す。
「あぁ……なんか、ここ最近、没個性の暗示みたいな変な夢ばっかり見て寝不足なのよ」
「没個性て……お前が無個性な人間なら、この世界から個性的な人間はいなくなるぞ」
狼月は呆れたように苦笑する。コイツ何も分かってないな。
「そういうんじゃないんだって。俺からぼっちを取ったら何が残るんだ、って考えてな……」
「ぼっちを個性だと思ってるあたり、感性が普通じゃねーんだよなぁ……」
「お世辞でも嬉しいわ」
「褒めてねーよ……」
狼月はため息を吐き、つーか、と話題を転換する。
「そんなにぼっちが好きなら、何でお前飴宮さんと友達になってんだよ」
「いや、不可抗力的に……? 別に、自分からなりたいと思って友達になった訳じゃないからな……」
「飴宮さんがコミュ症で可哀想だから付き合ってやってたけど、今になって邪魔になった、ってか? 飴宮さんが聞いたら泣くぞ」
「そんなんじゃないけど……常に隣に誰かが居ることを、無意識のうちに窮屈に感じてたのかもしれない。誰かと一緒に居るには、俺は孤独に慣れすぎた」
狼月から視線を外す。とはいえ飴宮さんと過ごすのも楽しいんだよな、と付け加えようとした。
「!」
忘れ物でも取りに来たんだろう。教室の出入り口に立っていた飴宮さんと眼が合った。見てはいけないものを見てしまった後のような、今まで信じてきたものが音を立てて崩れ去ってしまったような、そんな顔をしていた。
友情を踏みにじられた、昔の俺の姿が重なった。
「待っ――」
咄嗟に呼び止めるが、飴宮さんは唇をキュッと噛み、脱兎の如く走り去っていってしまった。
ほうきを狼月に押し付けて廊下に繰り出した。考えるより先に、反射的に身体が動いていた。はるか前方を走っている今にも見失いそうな飴宮さんを必死で追いかける。
最悪だ。
あの時の俺と同じだ。
違う。
そういう意味で言ったんじゃない。俺はアイツと同じじゃない。
そんなわけないだろ。
俺はただ飴宮さんに笑っていてほしかっただけなのに。
こんな結末誰も望んじゃいないだろ。
「クソ……」
無限に湧き上がる自責の念に身を焦されながら悪態をつく。
なんでこうなったんだよ。