第70話「who am i?」
気づけば、戦場を走っていた。
俺は、粗末な鎧に鈍刀を差した江戸時代の芋侍だった。周りには、俺と同じ格好をした侍が見渡す限り大勢居て、その全員がへのへのもへじの仮面を被っていた。異様な光景だが、恐怖感など感じている余裕はない。俺は周りの侍たちと一緒に全速力で走っていた。
「クソッ! 何だよこの状況!」
後ろから迫りくる火を噴く大怪獣から、侍の波の一部分となり逃げ惑っている最中だ。こうも満員電車のように人に囲まれていると自分で走る方向も決められず、まるで荒波に呑み込まれたかのように身体の自由がきかないのだ。波に逆らって転ばされないためには、ひたすら同じ方向に走るしかない。
そして、進行方向に道はなかった。落ちたら死ぬような崖が待ち構えているだけだった。だが、全速力で同じ方向に走る人間どもに囲まれているこの状況では、方向転換なんてできやしない。このままじゃダメなのは分かっているが、全速前進するしかない。そう考えている間にも崖との差は着々と縮まっていく。
「!」
前方からばさっ、という音がした。人混みの中から何かが空に飛び出した、と思ったら、背中から翼が生えた男だった。人混みを逃れて鳥のように悠然と空を飛んでいる。堕天使のような、大きくて黒い翼。
影が俺に覆い被さり、頭上のそいつと目が合う。
「――!」
そいつは、俺の顔をしていた。
思わず自分の顔を触るが、いつの間にか仮面が付いていた。外そうとしても、皮膚の一部のように固くくっついたままで、外れない。
崖っぷち目指して全速力で走り続け、足場が消えて奈落の底に落ちていった。
* * *
「!」
地面に激突する寸前、夢から醒めた。照明の消えた真っ暗なリビング。あの後、ソファに座ったまま寝落ちしてしまったらしい。時刻は深夜2,3時といったところか。
しかしひどい夢だったな。ここまで鮮明に内容を覚えている夢は久しぶりだ。なんだよあれ、没個性の暗示か何か?
――なーんか、お兄ちゃんじゃないみたい。
またしても、双葉の言葉が脳裏に蘇る。俺が誰かなんて、考えるまでもない簡単な質問だ。俺は、日々を自堕落に生きる無気力高二病ぼっち――
「……」
条件反射的に浮かんだ言葉が、飴宮さんの顔を思い出して途切れる。少なくともぼっちじゃないな。
「……」
そして、昨日の文化祭を普通に楽しんだ時点で無気力高二病を名乗る資格もない。気づけば、俺を構成していた個性はことごとく飴宮さんという存在に消されてしまっていた。冷静に考えてみれば、今の俺は、飴宮さんと会う前とはかけ離れた姿をしている。自分でも気づかないくらいゆっくりと、それを日常と錯覚するほど自然に、俺という人間は狂わされていたのだ。
一般的にはそれを「角が取れた」と言うんだろう。だが、角が取れてツンが消えた高感度100%のツンデレに何の魅力も感じないように、俺も今の自分に魅力を感じられない。辛いからといってカレーのスパイスを全て取り除いたら、それはカレーではない。
……カレー食いてえな。
「……」
思えばずっと、無意識のうちに、自分の個性を「ぼっち」であることに縋っていたのかもしれない。他人に胸を張れるような得意なことや、1日中没頭できる好きなもの、夢も希望も壮絶な過去も何もない俺でも、ぼっちで居るだけで、クラスにひとり居るか居ないかの希少なキャラになれた。つまらない日常も、俺が主人公の学園ものラノベの世界の話だと妄想すると気が紛れた。カーストランクはギルド未所属でランクゼロ。下手にダサい奴とつるんで自分の価値を決定されずに済んだ。
人生という名の物語の主人公になりたかった。そこら辺のモブで終わりたくなかった。
いつまでも中二病みたいに自意識過剰で、それでいてどこまでも痛い。そんなこと分かってる。でも、そうでもしないと、自分がどこにでも居る何のとりえもないつまらない人間だと思い知らされてしまう気がした。
ぼっちじゃないし高二病でもない。暗いリビングで目を見開いても真っ暗闇。自分の存在が、闇に溶けて消えてしまったような感覚に陥る。
飴宮さんを恨む気はもちろんない。ただ、明日、学校に行って、飴宮さんと会うと、ぼっちですらない、主人公じゃない無個性な自分を嫌でも自覚してしまうだろう。それが、ほんの少しだけ憂鬱だ。




