第59話「プール」
「……」
暑い日差しが照りつける中、俺はレジャープールの開場待ちの行列に並んでいた。子連れママ友グループやイチャついてるカップル(爆ぜろ)、暇してる学生の群れにナンパ師やらが並んでいて、入り口が見えない長蛇の列。
「そろそろ、ですね」
隣に居るのは飴宮さん。大きなトートバッグを肩に提げ、白黒ギンガムチェックのワンピースに、紫外線対策の麦わら帽子。足下はクロックスと涼しげ。長い前髪で右眼を隠すいつものセットで、後ろにゆるく結えた髪が風に揺れる。飴宮さんは5秒おきに腕時計を確認してそわそわしている。
飴宮さんとふたりでプール。なぜこんな奇妙奇天烈リア充的状況になってしまったのか。それを説明するには、昨日に遡る必要がある――
* * *
午前零時少し前のこと。いつものように部屋にこもってソシャゲをしていたら、急にLINE電話がかかってきた。送信者は「YUZU」。当てはまる人物がパッと出てこないが、LINE電話で間違い電話はないだろうし、一応通話モードにする。
「やほー、孤羽?」
スピーカーから流れる逸部の声。そうだった、こいつのフルネームは逸部 柚子だった。
「……いや、なんで俺のLINE知ってんだよ」
「その話は後で。それよりさ、ちょっとお願いしてもいい、かな?」
俺の質問は後回しにされてしまったが、逸部の声にいつものキレがあまりなかった。何かあったんだろうか。
「なんだよ……」
「あたし、明日飴宮ちゃんとプール行く約束したんだけど……夏カゼひいたみたいでさ、行けないかもなんだ」
様子が違うのはそれが原因か。たしかに、電話越しにも声がかすれている気がする。ちなみにあーちゃんのアクセントは永ちゃんと同じだ。
「だから、あたしの代わりに孤羽が行ってくれない?」
思わず椅子からずり落ちそうになる。
「いや……いやいやいやいや。なぜそうなる。カゼひいたから行けなくなりました、って飴宮さんに言えばいいだろ」
「言えないよ……あーちゃんさ、ホントに楽しみにしてたみたいで、何持っていったらいいかとか訊いてきたり、明日のために新しく水着買ったとか嬉しそうに報告してくるのよ……頼むよ、あーちゃんを悲しませないであげて」
「別に俺である必要なくないか……餅月さんとか」
「ムリだって。家族で旅行行ってるから」
「じゃあ、後は……後は……俺しかいないのか。飴宮さん友達いないから。なら、まぁ……行くしかないな! 仕方ない!」
「すごい分かりやすく喜ぶねアンタ……まぁ、そういうことだからよろしく。場所は後で地図送る。あぁ、あと――もし、あたしのあーちゃんに変な真似したら、殺すよ。じゃね」
あらぬ偏見でいらぬ宣言をされ、通話は終了した。
* * *
「やれやれ……」
プールの入場を果たし更衣室を出た俺は、そこらへんに佇み飴宮さんを待っていた。
レジャープールに着ていくような水着なんか持っていない俺は、父が若い頃履いていたズボンと、さっき売店で買ってきた半袖パーカーという即席コーデ。普段着みたいな格好でもちゃんと水着。パーカー水着ってすごい発明だな。ド派手な花柄なのが玉に瑕だけどな!
そのぶん財布は軽くなったが、まぁ……友達とはいえ、女子とプールに行くとかいう非リアの俺にとって奇跡にも近い超絶激レアイベントなのでチャラだ。
と、後ろから「孤羽くん……」と声をかけられた。飴宮さんの水着姿を見るという現実離れしたシチュエーションに直面して急に心臓が高鳴る。なんだよ急に。なに意識してんだよ。
俺は覚悟を決めてゆっくり振り返った。
「お、お待たせ……」
恥ずかしそうに頰を赤く染めて、飴宮さんは片手を上げた。空色の生地に花柄模様の裾長の長袖パーカーに、同じ模様の極短ホットパンツから、透き通るように白くてほっそりした生脚が伸びる。頭には麦わら帽子。正しい着用法なのか飴宮さんなりの冒険なのか、胸元のファスナーが1センチだけ下がっておりとてもけしからん。
「……」
やばい、一瞬理性飛びかけた。エロ無法地帯のネット上でHENTAIの英才教育を日夜受けている百戦錬磨のこの俺が、この程度の露出で正気を失うとは。やはり俺は童貞だった。童貞とは穢れを知らない無垢な男の称号。童貞も護れない奴に何が護れるんだよ。
「花柄パーカー……お、おそろい、ですね。孤羽くん、意外と派手な花柄、似合いますね」
「……そうか?」
「割と……」
やけにそわそわしている飴宮さんに、俺はぎこちなく言葉を返す。今日のために水着を新調した、という逸部の言葉を思い出した。飴宮さんは新しい水着の評価を聞きたいんだろう。こういうときは「似合ってるよ」とか「可愛いね」とか形だけでも言っておけばいいんだろうが、急に恥ずかしくなって何も言えなくなった。
「や……やっぱり、変、ですかね? 私みたいなのが、こんな格好したら……」
何も言えずにフリーズしていると、飴宮さんは不安げに胸の前で指を組んだ。飴宮さんは、可愛いくせに自己評価が異常に低いからすぐに自信を失くしてしまう。
「なに……更衣室の鏡全部割れてたの?」
「?」
「いや、アレ……似合ってるってことだよ……」
「え、えへへ……ありがとう、ございます。相変わらず、回りくどいですね、ふふ」
顔を真っ赤にしながら微笑んだ飴宮さんは、照れ隠しに麦わら帽子を目深に被った。……なんだよその反応。
「さ、さて、行きましょうか。レジャーシートを敷ける穴場スポット、逸部さんに教わってきた、ので」
「そうなの? 助かるわ。さっき見たけどシート席って意外と金かかるんだよな」
「ふふふ。ありとあらゆる下準備を重ねてきたこの私に、ぬかりはありませんよ。この施設の地図は、すべて頭に入っています。何かあったら、なんでも聞いてください、ね」
頼もしい飴宮さんに先導され、途中で浮き輪に空気を入れつつ、俺たちは施設の中を移動した。行く先々のプール内や有料シートはどこも人で溢れていて、こんなんで本当にレジャーシート敷ける場所なんかあるのかしら、と思いつつ、まぁ遊び慣れてる逸部の情報なら間違いないなと妙に楽観してしまう。
「ここです」
賑やかなゾーンから離れた、すみっこの辺りに着いた。施設を訪れる大半がこんなへんぴな場所に穴場があるとは思っていないのか、プールや売店、トイレまでのアクセスが絶望的に悪いためか、レジャーシートを敷いている先客はまばらで風通しが良い。背の高い観葉植物が木陰を作っていて、暑い日差しに晒されることもない。まさにオアシス。
「すげー……完璧な穴場だ」
飴宮さん持参のブルーシートを敷いて陣地を確保した。シートが飛ばされないように荷物を置いていく。着替えプラスアルファが入った俺の手荷物。飴宮さんの大きなトートバッグ。その中から出てきた小さめバッグ。重ねられた浮き輪。スキンケア用品が詰まった防水仕様のポーチ。シートに座って脚に日焼け止めを塗る飴宮さん。
「……日焼け止め、持ってきてないんですか?」
俺の視線に気づいた飴宮さんは、使っていた日焼け止めのボトルを俺に差し出す。
「いや持ってるからいい……」
俺たちが最初に向かったのは波のプール。入り口は白い砂浜風で、奥に行くほど水深が深くなる、海をイメージしたデザインで、人工的に造られた波に身を任せてたゆたう感覚を楽しむ。上から見ると人がゴミのように浮いている様子を観察できるだろう。
「つめてぇ……」
プールに入水し、人口密度が比較的低い奥の方に泳ぐ。水深が増すにつれて水温も下がっていき、ひやりとした水の心地よさを感じる。
「懐かしいです。小さい頃、家族で行ったきり、なので」
浮き輪に身体を預けて、気持ち良さそうにたゆたっている飴宮さん。
「ほんと懐かしいな……何年振りだろ。まさか飴宮さんと来ることになるとは思わなかったわ」
「ふふ。同感、です。そうそう、懐かしいと言えば――」
波に揺られて雑談していると、奥の方にいたのにいつのまにか沖に漂着していた。水深がほぼないので、ちびっこが親と一緒に押し寄せる波とたわむれるエリア。ここらが潮時か。波のプールだけに。うわくだらね。
「ここらが潮時、ですね。波のプールだけに」
「飴宮さん、ほんとくだらんダジャレ好きだよな」
波のプールを出て、次に向かうのは流れるプール。大きな楕円形のサーキット型のプールで、水流によって流される感覚を楽しむ。色とりどりの浮き輪にしがみついた人間どもが流されていくさまは、夏祭りのスーパーボールすくいの屋台か、量産型の商品をベルトコンベアで移動させている作業風景か何かに見えることだろう。
「いや、人多いな」
プールサイドに立った俺は率直な感想を口にする。やはり流れるプールは定番なのか、波のプールとは比にならない人混みである。もう満員なんじゃないのこれ。自分を持たずに周囲に流されて生きている日本人らしいといえばらしい、とちょっとだけ皮肉ってみる。まぁ俺も今から流されるんですけどね。
「さ、行きましょうか」
人が少ないタイミングを見計らい、俺たちは流れるプールに入った。水深はそこそこだが、水流が思いのほか強くて立っているのがやっとだ。
「飴宮さ――」
飴宮さんの名を呼び振り返るも、そこに飴宮さんはいなかった。このひどい混みようだ。一瞬眼を離した隙にはぐれたらしい。
「くそ……」
流されながら飴宮さんを探すことにした。だが捜索はそう簡単には行かず、流れるプールの水流と人混みで思うように動けない。何より人混みで視界が悪い。飴宮さんが変な輩に絡まれていないか心配だ。
「……!」
一瞬、前方の人混みの中に、不安げに周囲をきょろきょろ見回している空色花柄の水着を着た女の子の後ろ姿が見えた。一瞬のことだったが、常日頃飴宮さんと接している俺は、背格好や挙動から飴宮さんだと確信する。水流の中で人混みをかき分けるのにも慣れてきた。水をかき分け人をかき分け、やっとの思いで飴宮さんを射程距離内に捕らえる。泳ぎ疲れたので水流に任せて飴宮さんの隣につける。
「俺から逃げられると思うなよ」
「こ、孤羽くん……」
いつの間にか隣に来て話しかけた俺に驚きつつ、飴宮さんは母親と再会した迷子の子供みたいな表情をした。若干、涙眼になっている。
「もう、上がりましょうか……そろそろ、お昼です」
飴宮さんはプールサイドにそびえ立つ時計を指して言った。プールから上がるまで、飴宮さんはずっと俺の上着の裾をそっと掴んでいた。