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第52話「蚊」

 

 帰りのホームルームが終わり、クラスが解散した。俺も、配布されたプリント類を鞄にしまいながら帰り支度をこなす。やれやれ、こんな日に限って配布物が多い。


「……!」


 突然視界の隅で、隣の席の飴宮さんが頭をひゅん、と下げた。何その謎挙動……狙撃銃で狙われてる感覚でもした? それとも見えない敵に襲われた?


「……」


 俺のしらーっとした横眼に気付いた飴宮さん。


「蚊が……います」


「そうなのか? 俺、イヤホン難聴だからモスキート音全然聞こえないんだよな」


「少しだけ、うらやましい、です……蚊の羽音、世界で一番嫌いな音、なので……っ」


 飴宮さんはびくっと肩を震わせた。蚊が耳元を飛んだんだろう。


「うぅ……ほんと、嫌いです……血ならあげるから、飛ばないでほしいです」


「そんなにビビるか? 確かにうざいとは思うけど」


「もう、人を不快にさせる為だけに、作られたような音、ですよ……こっちがビビってると、むこうも調子に乗ってプンプン煽ってきますし……分かりますか? 虫にナメられる感覚」


「考えすぎだろ……」


 怒りと怯えで手をぷるぷるさせる飴宮さんに、俺はフンとため息を吐いた。漫然と震える手を見ていると、飴宮さんは「ゔっ」と呻いた。ピタリと手の震えが止まる。


 飴宮さんは右腕を凝視したまま硬直していた。白い手首に黒い点が……蚊に止まられたらしい。残念ながら俺にはどうすることも出来ない。


「――ッ!」


 恐怖が爆発してパニックを起こした飴宮さんは、無言でひたすら手をバタバタと振った。眼を大きく見開き、恐怖に歪む顔には鬼気迫るものがあり、正直ちょっと面白い。


 必死な飴宮さんに対して全く動じない蚊。大きめの蚊をあんまり触りたくないのは分かる。なんか怖い。


「……息、ふーってやったら?」


 飴宮さんがやたら困っているから、俺は隣からアドバイスを送った。幼稚園児並みの語彙力を晒してちょっと恥ずかしい俺をよそに、飴宮さんはその手があったか! という顔をし、右手首の蚊にふーっと息を吹きかけた。蚊は吹き飛ばされてどこかに飛んでいった。


「ほわぁ……」


 手首をさすり、飴宮さんは安堵のため息を吐いた。何が「ほわぁ」だ。萌えるだろ。


「アドバイス、どうも……ふーってしたら、飛んでいきました……」


「よかったな」


 蚊の攻略法を学んだ飴宮さん、ニコニコである。それから何度か、蚊は飴宮さんに挑んでいったようだが、ふー攻撃でことごとく撃退していた。だから何だよふー攻撃ってよ。このままだとふーで定着しちゃうよこれ。ガストブローとかカッコいい名前考えないと。


「楽じゃない、ですね。最近のJKみたいな格好も」


「まだ言ってんのか」


 飴宮さんはあの日以来、長袖のボタンを開けて軽く腕まくりしたいわゆる『最近のJKスタイル』で生活している。隠し続けていた左手首には白いバンドのアナログ腕時計が巻かれている。俺は気にしないと言ったが、そう簡単な話でもないらしい。


「いいんでしょうか、ね。私なんかが、こんな格好して。痛くない、ですかね」


「何だその学生役でドラマ出演した30代女優みたいな悩みは。いいんだよ飴宮さんはそれで。垢抜けてて、結構か……蚊に狙われやすくなってる」


「……私、蚊嫌いなんですけど」


「好きな奴なんかいてたまるかよ……」


 視線を窓の外に戻し、俺はふわーと欠伸を垂れた。むにゃむにゃしながら帰り支度を再開させると、飴宮さんは再び周囲をキョロキョロと警戒するような素振りを見せる。また蚊が来たらしい。……なに? 飴宮さんずっと俺の横顔見てるけど。俺の顔になんか付いてる?




「――ふーっ」




 ――右耳に息を吹きかけられた。


「……あっ間違えた。ごめんなさい」


「べ、別に……」


「あ、あの、ほんと、ごめんなさい。耳に、蚊が止まってたので、つい、反射的に……気分悪い、ですよね。あ、あんなこと、され……て……なに赤くなってるんですか」


「はぁ⁉︎ 別になってねーよ」


「冗談、です……ふふ」


「なに笑ってんだよ」


 飴宮さんにいたずらっぽく微笑まれる。……いや本当に赤くなってないから。顔熱いのはこの教室が暑いからだから。クーラー仕事しろよ。


「……ところで、今日、終業式でしたね」


 ぽつりと、飴宮さんは独り言のように事実確認をしてきた。


「そうだな」


「夏休みですよ、明日から」


「楽しみだな」


「まぁ……休みは、普通に嬉しい、ですけど、孤羽くんに会えないと思うと、少し……寂しい、です」


「寝言言ってんなよ……」


 照れ隠しにちょっと辛辣な言葉を返すと、飴宮さんはどこか寂しげにふふ……と微笑した。


「あのときも、放課後でしたね。あのとき、孤羽くんに、友達になってください、って勇気を出して言わなかったら、今こうしていなかったかも、と考えると、あの分岐イベントは、正しい選択でした……」


「人生をギャルゲー感覚で振り返られても……俺は攻略対象かよ」


 冗談混じりに適当に返すと、飴宮さんは顔を赤くしてわたわたと取り乱した。


「べっ、別に! そ、そういう意味で言ったわけでは……言葉の綾と言うかなんと言いますかその……」


「分かってるよ。何もそんな必死で否定しなくてもいいだろ……」


 帰り支度を済ませた俺は、鞄を持って飴宮さんに「じゃ」と短く挨拶した。くるりと踵を返すと、飴宮さんも鞄を持って付いてきた。


「……一緒に、帰りませんか? 孤羽くん、いつもすぐ帰っちゃうから、たまには……なんて……」


「帰りの電車逆方向だから、実質駅までだけどな。まぁ、たまには学校早抜けレースもサボっていいか」


「なんですかそれ、ふふ。さ、行きましょ」


「はいはい」


 かくして俺たちは教室を後にした。駅までの帰り道、きっと俺たちは取り止めのない話で盛り上がるのだろう。今日も、そして、これからも。願わくば、隣の席に飴宮さんがいる日常がずっと続けば良いのにな、と考えてしまう俺だった。


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