第51話「夏みかん」
誰に起こされるでもなく、ぱちり、と眼が覚めた。リビングの天井と目が合う。どうやら、帰ってソファーに横になるなり寝てしまったらしい。夏の日差しは想像以上に体力を削られる。
ソファーに寝転がりながら壁の掛け時計に目を向けると、帰宅してから30分ほど経っていた。しかし久々の昼寝だ。学校で酷使して疲れ切った脳が嘘のようにすっきりだ。
リビングには俺ひとり。可愛い妹の双葉ちゃんはどこにいるんだろう。ぼんやりした頭で考えていると、隣の和室から衣擦れのような音が聞こえてきた。この時間は両親は家にいないから、双葉は和室にいることになる。リビングと和室はふすまで仕切られており、中の様子を見ることはできない。
何をしているんだろうと寝ながら聞き耳を立てていると、双葉の声が聞こえてきた。
「…………んっ……んっ……」
身をよじるような衣擦れの音に、時折漏れる何かに耐えるような上ずった声。
……何かの間違いだろう。寝ボケて幻聴を聴いているに違いない。
「……はぁっ……あっ……やば……んっ……ふぅ」
衣擦れの音と色っぽい息遣いが激しくなり、ため息とともにドサリ、と身体が倒れる音がした。
……聞かなかったことにしてあげよう。俺はずっと寝ていて何も聞いていなかった。双葉ちゃんもそういうお年頃なんだよね。
自分にそう強く言い聞かせていると、視線の先のふすまがガラリと開いた。双葉と思いっきり眼が合う。
「…………」
「……起きてたんだ」
ワンピースみたいに大きめの柄物Tシャツに短パンのラフな格好の双葉は、いつも通りぶっきらぼうに話しかけてきた。顔は平静を装っているが、ミディアムボブの黒髪からしっとり汗ばんだ首筋が覗く。何も言えない俺を置き去りにして、双葉は台所に消えた。あくまでも平静を装い続けるらしい。
「お兄ちゃん、夏みかん食べた?」
台所から戻ってきた双葉は、冷凍夏みかん片手に訊いてきた。へ、へぇ……夏みかん食べるんだ……よりによって素手でいくやつ……ふーん……。
「な……夏みかんなんかあったんだ。知らなかった」
「昨日お母さんが言ってたじゃん」
「俺は聞かされてない……」
「さすがお兄ちゃん。家の中でも立場がない」
双葉に軽くからかわれ、会話はそこで途切れた。……なにこれめっちゃ気まずい。どんな顔したらいいのかさっぱり分かんねーよ。なんなの双葉ちゃんは。もしや聞かれたこと気付いてないの?
「……」
俺も冷凍庫から夏みかんを取って、ダイニングチェアに座った。尻に親指をねじ込んで裸に剥く。卑猥とか言うな。大体、凍ってて固いから皮なんか全然剥けねーよ。霜が体温で溶けて指ビショビショだし。あーあ、テーブルこんなに濡らしちゃって、悪い子だ。さっきから何言ってんだよ。
「双葉……」
「……なに」
「さっき……いや何でもない」
「なに? いいから最後まで言ってよ」
双葉は夏みかんの皮を剥きながら答えた。俺の優しさを無為にするなよ……察してくれよ……。
「いや……和室で、何してたのかなーと。いや別にどうでもいいんだけど――」
「何って? 筋トレだけど?」
「なんだ筋トレか! あーびびった、てっきりオ――」
「お?」
「オ……オニ退治のシミュレーションかと」
「なにそれ。寝ボケてんの?」
フッと双葉は微笑した。なんだ筋トレか。双葉バスケ部だし、筋トレくらいするよな。ただれていたのは俺の方だったのか……なんであれ一件落着。
「……全然皮剥けないな」
「ある程度解凍させないとね」
安心したから口が軽くなる。双葉は、みかんを首やらおでこに当てて解凍していた。筋トレ後の夏みかん。爽やかで美味そうだな。
数分間の格闘の末、俺は夏みかんを口にした。爽やかな香りが鼻から抜け、口の中が冷たくて少し歯にしみる。シャーベット状のシャリシャリした食感と、冷凍されて際立ったみかんの濃厚な甘み。
「うめえ」
小難しい食レポは心の中に留めて、俺は率直な感想を口にした。
「……剥くのもっと楽ならいいのに」
「あのもどかしい時間があってこその夏みかんだと俺は思う。カップ麺もあれ3分より早く作れる麺を作る技術自体はあるけど、待ち時間で焦らすことによって、消費者がより美味しく頂けるようにするためにあえて3分待つ設定にしてるらしいぞ」
「3分も待ってられない人のために『秒でカップ麺』とかあってもよさそうだけどね」
「そう考えたどっかの会社が1分カップ麺を販売したけど、結局不人気で今は販売停止してる。てかそういうせっかちな人は普通のカップ麺3分待たずに食べるんじゃないか。親父も1分くらいで食べてるし」
夏みかんを食べながら適当に答えると、双葉は感心したようで呆れたような、微妙な顔をした。
「お兄ちゃん、ほんとくだらない知識だけは豊富だよね」
「くだらなくても雑談のネタくらいにはなっただろ」
「ん……ま、そうだけど。オタクのお兄ちゃんと話す共通の話題なんか双葉にはないからね。別に話したくもないけど」
「そのお兄ちゃんとさっきまで楽しそうに話してたのはどこのどいつなんですかね……」
「はぁ⁉︎ べっ、別に楽しくないけど! そんな、ひさびさにお兄ちゃんと喋れて嬉しいとか全然思ってないから! 変なこと言うのやめてくれる?」
双葉は顔を真っ赤にして否定した。ただのツンデレなのか怒りで頰が紅潮しているのか、なんとも判別しがたい。思春期の女子中学生が考えてることなんか分かんねーよ。そんなことが分かっていたら、俺の中学生活はもっとマシなものになっていた。
「はいはい」
「て、適当にあしらうなっ! お兄ちゃんの分際で!」
ぎゃーぎゃーやかましい双葉を見ていたら、夏の暑さも相まってミンミンゼミを連想した。もう夏なんだなーと改めて実感し、飴宮さんと会ったあの日から随分と時間が経ったものだな、と過去の記憶に思いを馳せた。