第50話「傘」
放課後。昇降口の雨宿りゾーンにて、俺は飴宮さんから折りたたみ傘を受け取った。弱まるどころか勢いを増した土砂降りの雨。人間が及ぶことの出来ない、大自然の脅威。聴覚をハイジャックする絶え間ない土砂降りの音を聞いていると本能的な恐怖感すら覚えるが、それはさておき。
「いやホント悪い。飴宮さんが傘貸してくれなきゃ、今頃雨に打たれて帰る羽目になってたわ」
「そんなそんな。水くさいですよ、今さら」
飴宮さんは微笑して、天気予報を見て予め用意していたという黒い傘を広げた。雨だけにかよ、というツッコミが浮かんだが、感性を疑われそうな気がしたからお蔵入りだ。
昇降口の手前で折りたたみ傘をばさりと広げると、急に突風が吹いた。風に持ってかれそうなコウモリ傘を放すまいと握りしめると、ボキッという不穏な音が鳴った。
「……」
恐る恐る傘を広げる。風に揉まれた飴宮さんの折りたたみ傘は、あちこちの関節部分が砕けて、傘布と骨がグチャグチャになっていた。
「わ……悪い。わざとじゃないんだ。わざとじゃないんだがブッ壊してしまった。わざとじゃないんだが弁償させてくれ。まぁわざとじゃないんだが――」
「責めてませんから、落ち着いて下さい……いえ……元々この傘、中学生の頃から使っていた、ボロいやつなので……いずれこうなる日が来るとは思っていました。まして、あの強風では尚更、です」
「いや……だとしても壊したの俺だし」
「いいん、ですよ。それより、余計な気を使わせてしまって、すみません。傘なら――」
俺は鞄から取り出したコンビニ袋に傘の残骸を入れ、飴宮さんに差し出した。
「ほんと悪かった……じゃ」
俺は片手を上げて踵を返した。いつ止むか分からない雨を待ち続けていられるほど俺は悠長な人間ではない。俺はさっさと家に帰りたいのだ。傘なら駅に向かう途中のコンビニで買える。
「ま、待って下さい!」
鞄を頭に乗せて走るフォームを確認していたら、飴宮さんが引き止めた。
「か、傘、なら……」
頰を染めた飴宮さんは、そっぽを向いて自分が差していた傘を差し出した。
「……いいよ別に、無理しなくて」
「ず……ずぶ濡れで、で、電車なんかに乗ったら……周りのお客さん達の、ご迷惑でしょうが」
飴宮さんは半ば強引に自分の傘に俺を入れた。距離を一気に詰められる。薄いワイシャツを隔てて二の腕が一瞬触れ合い、ふわっと甘い匂いがする。
「い、いやいやいやいやいやいやいや」
いや近い! 距離が近い! 嫁入り前の娘がこんなことして許されるのかよ? 不純異性交遊で通報されない? 大丈夫なのコレ?
「……嫌、でしたか。やっぱり」
飴宮さんはしゅんと俯いた。いや、嫌じゃないけど、いやいや……。
「いや、そうではなく……飴宮さんが嫌じゃないなら、数分だけ厄介になるよ。駅前のコンビニまで頼む。ビニール傘買うから」
「了解、しました。なんだか、タクシーみたい、ですね」
「はは……」
そんなこんなで俺たちは昇降口を出発した。女ものの小さな傘に俺がお邪魔しているから、完全には雨をガードできず、はみ出た肩には冷たい雨が降りかかる。傘に入れてくれる時点でありがたいけど。スマホとかイヤホン濡れる心配しなくていいし。教科書? ほっときゃ乾くだろ。
……ってか。
同い年の女の子と相合い傘とか、そんなギャルゲーみたいなシチュエーション、俺の人生において全くもって想定外。マジかよ相合い傘って実在するイベントなのかよ。時間停止系AVくらいの非現実だと思ってたわ。
混乱気味な思考回路に、体温の急激な上昇を知覚する。心臓も、このまま胸を突き破って外に飛び出すんじゃないかと錯覚するほどに強く鼓動する。
「……孤羽くん、肩濡れてません、か?」
俺の内心など知るよしもない飴宮さんは、ちらっと覗きこむように視線を向けてきた。
「別に。こんなの濡れたうちに入らん」
「そういうのは、いいですから。ほら、詰めてください」
「いいんだよ、1人用の傘に2人も無理やり入ってるんだから」
これ以上詰めるのはちょっと心臓に悪いので、適当に理由をつけて断った。どんなお膳立てをされようと、真性ヘタレは伊達じゃない。ほんと俺ってばいくじなし。
「……」
飴宮さんは不服そうだったが、とはいえこれ以上俺と近づきたくないらしく、肩の件は不問にされた。
「……」
――わけでもなかった。突然、肩が雨に打たれる感覚が半分になったのだ。ちらっと横眼で隣を見るも、俺と飴宮さんとの距離は全く変わっていない。ということは……。
「……」
俺が濡れないように、飴宮さんは傘を俺の方に傾けていた。傘の守備範囲が移動した分、飴宮さんの肩も雨に打たれて、ベストが濡れてしみになっていた。痛み分けのつもりだろうか。ベスト着てなかったらワイシャツ透けて大変なことになってたぞ。
「自分の傘なのに、飴宮さんが気使ってどうすんだよ……」
俺は、傘の中棒を手の甲で押し返し、飴宮さんを安全地帯に入れた。肩には雨に打たれる感覚が戻り、飴宮さんは驚いたような顔で俺を見た。
「……」
飴宮さんはしゅんと下を向いた。それから間もなく、再び肩を打つ雨が遮られる。
「あのな――」
そんな風にされても、飴宮さんが雨に濡れてるんじゃ嬉しくもなんともない……と続くはずだった言葉が喉の奥で消滅した。
飴宮さんとの距離が縮んでいた。
ワイシャツ越しに形が分かる華奢な肩が、リンスの良い匂いがする艶のある黒髪が、耳まで赤くなった小さな顔が、何かの拍子に触れ合ってしまいそうなほどの至近距離に存在していた。数字にするとセンチ単位の僅かな差だが、その差は俺の脳から平常心を奪うには十分だった。
「コ……コンビニまでのあと1分……勘弁して、下さい」
「お、おう」
ドギマギしたまま返事をしてちょっと歩いたら、コンビニに着いた。はやい。1分はやい。矢の如くはやい。
「じゃ、この辺で」
入り口前の雨宿りスペースで、俺は飴宮さんの傘から離脱した。どの道この大雨じゃ、もし折りたたみ傘持ってても使いものにならなかっただろうし、と思わぬ出費を割り切る。
「では……また、明日」
飴宮さんは胸の前でひらひらと小さく手を振った。
「じゃ。あ……あの、アレ……ありがと」
面と向かって礼を言い、きまりが悪くなってしまい、ふへへと不恰好に照れ笑いしてしまった。あ、やばい。表情筋が硬い。多分今の俺笑ってない。変な顔の人になってる。
「――っ、こちらこそ!」
俺の笑顔もとい変顔をまじまじと見た飴宮さんは、顔を真っ赤にしてぺこりと会釈し、そのままくるりと背を向け駅へ走り去っていった。
* * *
「……」
コンビニでビニール傘を買った俺は、土砂降りの雨の中ひとりで傘を差して歩いた。人生最後の相合傘ならもっと味わっておけばよかったな。絶え間なく傘を打つ雨の音を聴きながら、やたら広く感じる傘の中で後悔する俺だった。