フルール・ドゥ・フィーユ
舞台は中世欧州風の架空世界です。
ある日、奴隷の少女を引き取ることになった。
今日は奴隷の少女がやってくる日。
コン、コン、コン、とドアがノックされる。
「はーいっと」
ドアを開けると、馬車を止めた御者が立っていた。
「約束の荷物です」
「ご苦労様。これで足りるかな?」
御者に金貨を一枚渡す。
「奴隷運搬は銀貨三枚が相場ですが……よろしいので?」
「大切な"客人"をここまで連れてきてもらったんだ。構わないよ」
「で、ではありがたく頂戴します。私はこれで」
御者はそそくさと馬車を走らせていった。
「さて、と。はじめまして。今日から私が君の身元保証人だ。よろしく」
「…………」
奴隷の少女は何も話さない。ただ無言でこちらを睨みつけていた。
***
わたしは奴隷だ。
もともとは孤児で、幼いころから施設で育てられた。
施設は決して裕福ではなく、寝床や食べ物の取り合いは日常茶飯事だ。
そんなある日、孤児の中から数人を奴隷として売りに出されることになった。
施設を存続させるためのやむを得ない判断だろう。
そして、わたしはそれに選ばれた。
施設の人間を恨んだことはない。
生に対する執着もあまりなかったから、どうでもよかったのだ。
奴隷というのにはいくつか種類があるのだと聞いた。
一つは肉体的労働力として。一つは家庭内労働力として。一つは金持ちの道楽として。
肉体労働は男の仕事だと聞いていたので、他の何かになるのだと思う。
ほかに奴隷に選ばれたひとたちは金持ちの玩具にはなりたくないと言っていたが、わたしは特になんとも思わなかった。
鉄の首枷と足枷を付けられ、鎖で繋がれて馬車に乗せられる。
中にはすでに何人かの同じようなひとたちがいた。
皆一様に表情は暗かった。涙を流すものもいる。
馬車には窓もなく、ずっと真っ暗だった。
何時間か、あるいは何日か経ったとき、不意に馬車の扉が開かれた。
そこは、何度か盗みを働いたことのある街だった。
道端に並べられ、着ていた服を脱がされて水を掛けられる。
これから奴隷市場で競売に掛けられるらしく、少しでも見栄えをよくするためだと聞いた。
そのあと、ぼろ布を一枚纏ってしばらく歩かされた。
市場にはすでに他のところから連れてこられた奴隷と、多くの市民がいた。中には何人か裕福そうなひとも見受けられた。
競売がはじまる。
まずは男たちが競売に掛けられた。体つきの良いモノから順番に落札されていく。
次は女の番だ。容姿に優れた若い娘は高額で売られていく。
どうやらほとんどの市民はただの見物人で、実際に入札しているのはほんの一部の人だけだった。
女たちが次々と売られていくのを、わたしはただ黙って見ている。
そしてわたしの番がやってきた。
集められた奴隷の中で最後だった。
わたしも他の奴隷たちと同じように売られていくのだと、そう思っていたのだが、そうはならなかった。
上流階級の市民はすでに目当てのモノを買い終え、ただ見物しているだけで誰も声を上げようとはしない。
当然、普通の市民が入札するわけもない。
早い話、わたしは売れ残ったのだった。
その後、藁が敷かれ、簡素な鉄格子のはめられた部屋に連れていかれる。
たった今競売が終わったばかりなので、広い部屋にはわたししかいなかった。
あれから数日がたった。部屋には少しずつ奴隷が増えていった。
気まぐれで決して多くない食べ物が投げ込まれ、皆でそれを取り合う。
わたしは施設で慣れていたので、いつも上手く食事にありつけた。
病気になったり、食べ物にありつけないでやせ細っていった奴隷は毎日少しずつ間引かれていく。
部屋が窮屈になってきたころ、わたし達は全員外へ出された。
前と同じように水を掛けられ、鎖で繋がれて市場へ連れていかれる。
前と同じように競売が行われ、次々と入札されていく。
前と同じようにわたしの番は最後だった。新しい奴隷から先に売られていくらしい。
そして、前と同じように、またわたしは売れ残ったのだった。
民衆の一人が言っていた。
狼の眼を持つ女を買う奴なんて誰もいない、と。
意味はよく分からない。
わたしはまたひとりになった。
そんなことを何度か繰り返した。
あるとき、またわたしは競売に掛けられた。
今日売れ残ったら殺す、と奴隷商人に言われる。
いっそそうしてくれたほうが楽だった。
競売の最後、私の最低入札価格は一切れのパンと変わりなかった。
市民たちはどよめいたが、それでも誰も入札しようとはしない。
それならば、と太った貴族が手を挙げた。
脂っぽい顔で気持ちの悪い笑みを浮かべている。
しかしある人がそれを制し、金貨十枚、他の奴隷の三倍ほどの価格でわたしを落札した。
***
通りかかった奴隷市場に、その少女はいた。
琥珀色の瞳と、手入れのされていない白みがかった黒髪が野生の狼を彷彿とさせる。
ぼろ布一枚を身に纏い、鋭い視線で民衆を睨みつけていた。
気丈に振る舞ってはいるものの、その体躯はまだ幼さを残す少女そのものであった。
この少女はなんども競売に掛けられ、そのたびに売れ残っていたらしい。
基本的に奴隷は従順であるほど人気が高い。
昔は、貴族のような時間と金を持て余した人間が反抗的な奴隷を遊び道具として飼うこともあったようだが、税金が上がるばかりで景気の良くないこのご時世ではそんな物好きもほとんどいない。
そのうえ忌み嫌われている狼と同じ、琥珀色の眼をしているとあっては、この少女が売れないのも道理だった。
私は今までに奴隷を買ったことは一度もない。
だから、タダ同然で処分されかけていた少女を引き取ったのはほんの気まぐれだった。
扉を開けて家の中に入る。少女もそれについていく。
「待った。私は奴隷を家に入れるつもりはないよ」
少女は何も言わない。
「ちょっと待ってて」
一度家の中に入る。
目当てのものを探し出し、再び玄関へ戻る。
「こっち来て、後ろ向いて」
少女は言われたとおりにした。
「よし、できた。ようこそわが家へ」
はじめ、少女は信じられないといった表情で私を見ていた。
「一体、何をしている」
「何って、私はただ首輪と鎖を外しただけだよ。それより、ようやく話してくれたね」
「これは隷属の印じゃないのか」
「そうだよ? だからもうあなたは誰のモノでもない。一人のヒトとして生きていくんだ」
「今更そんなことを言われても困る。わたしには……居場所がないんだ」
「だから言ったでしょ? ようこそわが家へって。今日から私と二人で暮らすんだよ」
「…………」
「ほら、早く入りなよ」
少女は無言で私の後をついて来るのだった。
***
はじめ、何を言われているのか分からなかった。
破格の値段で買っておいて、奴隷身分から解放するなどと、到底信じられることではない。
わたしを買ったその人は決して着飾っているわけではないが、綺麗なシルクのシャツとショース姿だった。
体の線は細く、背の高い人だ。
中性的な顔立ちで、あまり長くはない濃いブロンドの髪を後ろで束ねている。
煌びやかな衣装に身を包んだ貴族とは違うようだが、お金持ちなのには変わりないだろう。
声色からたぶん女性だと思うけど、もしかしたら違うかもしれない。
その人はわたしを連れて屋敷の奥へ進んでいく。
「まずは服を……っと思ったけど、お風呂が先だね」
おふろ、とは何なのか。わたしには分からなかったが、黙って後をついていくことにした。
しばらく歩くと、壁に棚が並んだ部屋に着いた。
「お風呂って入ったことある?」
わたしは首を横に振った。
「そっか。じゃぁきっとびっくりするだろうね」
わたしはぼろ布を脱がされ、その人は奥へ続く扉を開けた。
「……!」
「どう? すごいでしょ」
扉の先には大きな人工の泉があった。驚くことに中はお湯で満たされているらしい。
「さ、入って入って」
いわれるがままに中へ入る。
「そこに座って。お湯、かけるよ」
小さなイスに座らせられ、その人は桶でお湯をすくった。
「っ!」
「あ、ごめん。痛かったよね。気を付けるね」
首輪と足枷をされていた箇所にお湯がしみる。
「痛かったら言ってね」
スポンジに何か液体をつけたかと思うと、泡立ち始めた。どうやらそれで体を洗うらしい。
「ん……」
「大丈夫?」
「ちょっと……くすぐったかっただけ」
傷のある場所を避けて全身を泡まみれにされる。
他人に身体を洗われるということは初めてだが、存外悪くないものだ。
「流すよ。目つむってね」
再びお湯をかけられ、泡を流される。
「ほら、キレイになった。どう?」
その人が目の前の壁をこすった。どうやら大きな鏡が埋め込まれていたらしい。
大きな鏡、というのにも驚いたが、鏡の中のわたしは汚れをすっかり落とされ、まるで別人のようだった。
「肌、キレイだね」
「…………」
きれいだなんて、初めて言われた。
少し、照れくさくて顔をそらす。
「さて、次は服を着替えようか」
浴室からさっきの部屋へ戻る。
一度その部屋を出て、もう一つ隣の部屋へ入った。
施設では毎日同じ服を着ていた。水浴びをすることはあっても、温かいお湯を浴びたのは初めてだった。
その部屋には、毎日着替えても無くならないんじゃないかと思うほどの服が並べてある。
「好きな服を選んで。私はちょっと離れるけど、着替えてもここでまっててね」
そう言うとその人はどこかへ行ってしまった。
わたしは、渡されたタオルで身体を拭き、服を選んだ。
服を選ぶ、という行為はなんだか不思議な感覚だった。
「お待たせーって……」
あの人が戻ってきた。なぜかわたしの姿を見て固まっている。
「好きにしてとは言ったけどさ……裸にローブだけっていうのは…………」
なにか、おかしかっただろうか。必要最小限のものは身に纏っているつもりだ。
「ちょっと待ってて。うーん、どんなのがいいかな~? とりあえず、はい。下着」
「?」
はい、と言って渡されたのは小さな布。これをどうすれば良いのだろうか。
「あー、ほら、片足上げて? 次反対ね」
言われるとおりにする。布はズボン……のようなものらしかった。
こんなものを履いたのは初めてなので、少し落ち着かない。
「これなんかどうかな?」
そして取り出されたのは、街で上流市民の子供が着ているような服だった。
「それをわたしが着るのか……?」
「そうだよ? 気に入らない?」
服は高価なものだ。それを恵んでもらえるというのは大変ありがたいことなのだが、今までまともに服と呼べるような服を着たことがないがために躊躇してしまう。
「どんなのがいい?」
「いや、今のままで十分なのだけど」
纏う布など、寒さがしのげればそれで十分なものだ。つまりこの屋敷ではあまり必要ではない。
「それはだめ。希望がないなら勝手に選んじゃうよ?」
「だったら……できるだけ、高価じゃないものがいい」
「もう。そんなの気にしなくていいのに……じゃぁこれは?」
「…………」
私が良いとも悪いとも言えないでいると、結局その人と同じようなブラウスを着ることになった。
「それじゃ、行こっか」
わたしは後を付いていった。
しばらく歩いてついたのは、大きな部屋だった。
中央にはテーブルとイスが並べられ、テーブルの上には料理が置いてある。
「さて、それじゃぁパーティーをはじめようか。といっても私たち二人だけだけどね」
「パーティー?」
「君の歓迎会。ささ、座って」
木製の椅子にはところどころに金の細工がしてある。
着せられた服も、今いるこの部屋も、落ち着かないことばかりだった。
「おなか一杯になるまで食べてね」
テーブルに並べられた料理はどれも食べたことのないものばかりだった。
今までの施設での食事といえば、固いパンに水みたいなスープだけ。
奴隷として施設から出てからは野菜のクズやなんかを食べていた。
「食べて……いいのか?」
「そう言ってるでしょ?」
試しにかごに入れられたパンを手に持ってみる。
今まで触ったどのパンよりも柔らかかった。
黄金色のスープにはクズではない野菜が浮かび、鳥や魚を焼いたものや、鮮やかな果実なんかもあった。
「フォークとナイフを~って、聞こえてないか」
今までの空腹もあり、わたしは一心不乱に食べた。
苦しくて、でも幸せで。
満腹、という感覚は初めてだった。
「どうだった?」
「おいし……かった。でも…………」
「手も服も汚れちゃったね」
「ごめんなさい……」
せっかく恵んでもらった服を汚してしまった。
「大丈夫。着替えて洗濯すればいいだけだし。もしダメになったとしても、服なんかいっぱいあるしね」
庶民は、一着の服を一生着まわすことだって珍しくないのに。
この人は、わたしなんかとはきっと、住んでいる世界が違うのだろう。
「さて。ようやくゆっくり話せるね。今更だけど、私の名前はルクス。よろしくね」
「ルクス……おとこ?」
ルクスは男性名だ。声色から女性かと思っていたが、そうではないらしい。
「よく言われる。でも私は女だよ。君の名前は?」
「名前……?」
親のいない孤児に名前なんてものはない。施設でつけられることもなかった。
「じゃぁ、私がつけてもいいかな?」
「うん……」
断る理由はなかった。
「そうだな…………シエルってのはどう?」
わたしは無言でうなずいた。
「よろしくね、シエル」
名前で呼ばれるというのは、なんだか不思議な感じだった。
「シエル?」
ろうそくの炎と、ルクスの声にそこはかとない安心感を覚え、加えておなかがいっぱいになったことで強い眠気を感じる。
「ベッドに……」
ルクスの声は、最後まで聞こえなかった。
---
「ん? やぁ、目が覚めたみたいだね。おはよう」
目が覚めると、昨日の部屋のソファの上だった。
「朝食……って時間でもないけど、何か食べる?」
「いや、大丈夫……」
窓から見える太陽はかなり高い位置にある。
ルクスは机に向かい、羽ペンを走らせていた。
「わたしは……何をしたらいい」
「これが終わったら街に出かけようと思ってるから、一緒に来て。それまでは好きにしてていいよ」
そう言うなり再びルクスは羽ペンを走らせる。
施設にいたときも、牢屋にいたときも、食べ物を取り合うとき以外は無駄な体力を使ってお腹が空かないようにただじっとしていた。
だから、好きにしててと言われても何をすればいいのか分からない。
結局、ずっとソファに座ってルクスを見ていた。
日差しも落ち着いた昼下がり。
ルクスはまだ手を休めないでいた。
「うーん、キリのいいところまでって思ったんだけど……シエル、私の代わりに買い物に行ってきてくれない?」
「買い物?」
「近くの街の市場で今日の夕食を買ってきてほしいんだ」
そう言って机の引き出しから小さな布の袋を取り出す。
「お金は……このぐらいで足りるかな。何か好きなもの買っておいで」
受け取った袋には、施設で一か月は暮らせるだろうかという額のお金が入っていた。もし私一人だけなら半年は持つだろう。
「いいのか? わたしなんかにこんな大金を渡して。わたしは、その……盗みをしたこともあるんだぞ」
街で盗みを働いていたのは、施設にいてもろくな食べ物にありつけなかった時。
生きるために仕方がなかったとは思っている。それでも、少しは後ろめたい気持ちもあった。
「それぐらいだったら持ち逃げされても惜しくないからね。それに、今のシエルはもうそんなことしないでしょ?」
「それは……そうかもしれないけど」
ルクスがどうしてわたしを買ったのかはよく分からないが、食事も着るものも寝床も与えてくれる今、積極的にここから離れる理由はなかった。
それになぜだか、他人に信頼されているということが嬉しくもあった。
「わかった。行ってくる」
「着替えてからね」
そういえば、昨晩の食事で服を汚してしまっていた。
「はい、これ。同じような服だけど」
ルクスが、今わたしが着ているのと同じような服を差し出す。わたしはそれを受け取って着替えた。
「あと、これもね」
ルクスが持っていたのは細長い薄い布だった。
「これは?」
「首に巻くの。ほら……まだ、跡が残ってるから」
首輪の跡のことだろうか。自分では見えないところなので分からないが、ルクスが言うのだからまだ残っているのだろう。それも受け取り、首に巻く。
「よし。じゃぁお願いね」
そうして、施設を出てから初めて一人で外へ出た。
---
「おかえり、早かったね。何買ってきたの?」
ルクスは相変わらずペンを走らせていた。
わたしは買ってきたものをルクスに渡す。
「……黒パンが二つ、か」
なぜかルクスは苦笑いしていた。なにかおかしかったのだろうか。
「よし、こんなものかな。シエル、ちょっと付き合ってくれる?」
ルクスに促され、もう一度街へ出かけることになった。
「シエルはさ、何か食べてみたいものとかないの?」
「空腹が凌げればなんだっていい。でも……昨日の、あれは美味しかった」
「どれ?」
「全部、食べたことなかったけど、白いスープみたいなやつ」
「ラグーかな? また今度作ってあげるね。今日は別なものにしよっか」
「……うん」
カビの生えたパンだろうが腐りかけの野菜だろうが、なんだって食べていた。そうしなければ、飢えを凌げなかったから。だから、口に入れられるものであれば何だって良かった。
でも、あんなに美味しいものがあることを知った。ただ空腹を満たすためだけではない、いわば娯楽ともいえるような食事。
きっと、私の知らない食べ物はもっとたくさんあるのだろう。興味がないといえば嘘になる。
「そうだな……フリカデッレって食べたことある?」
わたしは首を横に振った。
「じゃぁそれにしようか」
市場の精肉店でひき肉を購入する。
ソレは肉で作るらしい。
「あとは玉ねぎと…………」
ルクスが足を止めた。
「ちょっと寄り道しよっか」
「これと、これと……あとこんなのなんてどうかな?」
ルクスが立ち寄ったのは服飾店だった。
「服は、たくさんあるだろ」
「ほとんど大きさが合わないでしょ? 今着ているそれだって大きいし」
ルクスはわたしより頭一半つほど背が高い。なので、ルクスの服を着ると裾が余るのだが、着られるのだからこれでいいと思う。
「ほら、試着してみて」
促されるままにルクスが選んだ服、タイツにスカート、絹のインナーにケープを着る。
「なんだか……街の子供みたいだな」
孤児で薄汚れていた自分とは似ても似つかない恰好だった。
「シエルだって子どもだよ」
「…………」
子供。ルクスから見れば、確かに自分は子供なのだろう。
「あれ? 怒った?」
「……別に。ただ、そんなこと考えたこともなかった」
施設にいたとはいえ、ほとんどの時間を一人で過ごし、一人で生きてきた。
そこでは、大人だとか子供だとかは関係なかった。ただ毎日を生きることに必死だった。
「似合ってるよ?」
「いや、良くわからないけど、似合ってはないような気がする」
「可愛いのに」
前に街に来たとき、みすぼらしいと言われたことはあるが、かわいいなんて言葉、初めて言われた。
そもそも、かわいいってなんなのだろう。
良くわからないけど、わたしはかわいいじゃない気がする。
「じゃあどんなのがいいの?」
「今のままでいい。これだって大事な服だ」
「だめ。何か買わないと帰らないよ?」
「どうして必要ないのにお金を使うんだ……」
お金が無くて困ったことはいくらでもあったが、お金を使わなければいけなくて困るのは初めてだった。
「それが女の子ってものだよ」
やっぱり、良くわからなかった。ただ、何か服を買わないと帰らないつもりらしい。
「じゃぁ……」
私はできるだけ装飾の少ないものを選んだ。
「チュニック……はいいんだけど、ちょっと地味じゃない? もっと飾りのついたやつとか色のついたやつもあるのに」
「これでも十分すぎるぐらいだ」
「まぁ、シエルがそれが良いって言うならいっか。ああそうだ。いつまでも裸足なのもなんだし、靴も選んでね」
「まだ買うのか……」
結局、店を出るころには全身の衣服を揃えることになっていた。
---
そのあと、野菜やなんかを買ってから屋敷に戻った。
すでに西の空はうっすらと紅い。
「すぐつくるからね」
「わたしは……何をしたらいい?」
「うーん、じゃぁちょっと手伝って貰おうかな。ついてきて」
私は、食材を持って歩くルクスの後についていった。
少し歩いてついたのは、キッチンだった。
「そっちに水場があるから、野菜についた泥を落としてくれるかな」
「分かった」
わたしが野菜を洗っている間、ルクスはナイフやなんかを準備していた。
「終わった」
「じゃぁ、皮むき、できるかな?」
「やってみる」
ルクスから小さなナイフを受け取る。
「っ!」
「大丈夫!?」
「指先を少し切っただけ。大したことない」
ルクスが戸棚の救急箱から包帯を取り出し、指に巻いてくれた。
「もっと練習しないとね」
「……うん」
残りの野菜をルクスが切る。
わたしはやることがなくなり、ひき肉をこねて焼いているルクスを眺めていた。
「これ潰すの手伝ってくれる?」
肉を焼いている間に、茹でたイモを潰したり、サラダを皿に盛り付けたりする。
「できた。それじゃあ持っていこうか」
ルクスと二人、両手いっぱいのお皿を運ぶ。
いつもの大きな部屋のテーブルに作った料理を並べた。
「よし、食べようか」
ルクスが作った、肉をこねて焼いたものを食べる。
まともな肉を口にしたのはいつ以来だろうか。
少なくとも、こんなに美味しいものを食べたのはこれが初めてだ。昨日の食事も良かったが、それ以上かもしれない。
「それは……何を飲んでるの?」
「葡萄酒だよ。飲んでみる?」
無言で頷く。
「どう?」
「おいしい、けど、ちょっと変な味」
辛いような、渋いような。
「腐ってるみたいな……」
本来なら好んでは食べたくないはずのモノなのに、それすらもちょっと美味しいと思ってしまう。変な飲み物だった。
「まぁお酒だからね。シエルにはまだちょっと早かったかも」
歳を取るとこういうのが美味しく感じるようになるのだろうか。
と言っても、ルクスもそんなに歳を取っているようには見えないけど。
「どう? おなか一杯になった?」
「うん。美味しかった」
「片付けたらお風呂入ろっか」
「昨日入っただろ」
「毎日入ってもいいんだよ? それに、昨日は浴槽にはつかってないでしょ?」
「毎日は、いい。でも、お湯には入ってみたい」
「じゃぁまずは片付け、手伝ってね」
「うん」
食器を洗い、戸棚に片付けた。
ここにはいったいどれだけの食器があるのだろうか。
「ゆっくり入ってきてね。着替えは置いておくから」
「ルクスは入らないの?」
「まだちょっと仕事が残っててね」
「そう」
ルクスが行ってしまったので、一人であの部屋へ向かう。
服を脱ぎ、籠に入れる。
扉を開けると、暖かい湯気が身体を包む。
まずは前にしてもらったように、見様見真似で身体を洗う。
それが終わると湯船につかった。
まずはつま先からゆっくりと。
入っても大丈夫な熱さだと確認してから、全身。
「ふぅ……」
全身をお湯に包まれるのが心地いい。
このまま眠ってしまいそうな…………
「ケホッ」
お湯が口の中に入る。本当に眠ってしまったらしい。
少しフラフラとしながらも浴室を出る。
籠には着替えが用意されていた。いつのまにかルクスが入れておいてくれたようだ。
「ずいぶん長かったね。もしかして寝ちゃってた?」
「…………うん」
「あはは、気持ちいいもんね」
頭がぼーっとして話が入ってこない。鼓動も早い気がする。
「あれ、もしかしてのぼせちゃった? こっちおいで」
ルクスに手招きされて窓際へ移動する。
「夜風が気持ちいいでしょ? ちょっと待ってて。今お水持ってくるから。そこ座ってていいよ」
言われるがままにいつもルクスが座っているイスに座る。
「はい、お水」
しばらくするとシエルがガラス瓶に入った水とコップをもって戻ってきた。
「ん……」
水が注がれたコップを受け取り、一気に飲み干す。
「しばらくソファで横になるといいよ」
窓から入る冷たい風が肌を撫でる。
お湯につかったときとはまた違った心地よさがあった。
そして、そのまま、またわたしはここで眠ってしまったのだった。
---
「やぁ、おはよう。ちょうど朝食の用意ができたところだよ」
気が付くと、窓から日の光が差し込んでいた。
ルクスの言う通り、机の上には料理が置いてある。
「これもルクスが作ったのか?」
「まぁね。作ったって言ってもスープとスクランブルエッグだけだけど。パンは昨日シエルが買ってきてくれたやつだよ」
ソファから起き上がり、席に着く。
「飲む?」
ルクスが差し出したグラスには深い紫色の液体。
「葡萄酒?」
「ううん。葡萄ジュースだよ。仕事もあるし、朝からは飲まないよ」
口に含んでみる。昨日のような不思議な味ではなく、新鮮ですっきりとした甘さ。
「どう? 絞りたてだよ」
「……おいしい」
卵も、スープもおいしかった。パンは、少し硬かった。
「さて、今日は少し出かける用事があるんだ。留守番お願いね」
「ん」
「それじゃ、行ってきます」
朝食後、支度を終えたルクスが出かけて行った。
何時間かはソファに座っていた。
施設にいたときは、無駄な体力を使ってお腹がすかないように一日中一人でじっとしていることも多かった。
でも、ここ数日はずっとルクスと一緒にいる。ルクスはいろいろなものを見せてくれた。いろいろ話してくれた。
だからだろうか。はじめて退屈だと思うようになった。
そもそも、わたしは奴隷として売られたのに、こんなことをしていていいのだろうか。
ルクスはわたしを自由にしてくれた。恩人、というのかもしれない。
だからこそ、余計に何もしなくてもいいのだろうかと不安になる。
普通、奴隷というのは労働をするものだと聞いた。
だったら、私もなにか働けば良いのだろうか。
でも、働くといっても何をしたらいいのかわからない。
部屋を見渡してみる。
ふと、壁際に立てかけられていた箒が目に入る。
施設では時々子供達があれで掃除をしていた。
わたしはやったことがなかったけれど、あれもきっと労働なのだろう。
わたしは箒を手に取り、掃除を始めた。
部屋の塵を集めると、次は廊下に出てみる。
そもそもが綺麗なので、ほとんど掃除の必要は無かった。
長い廊下の左右にはいくつもの扉があった。こんなに多くの部屋を一体何に使うのだろうか。
廊下の隅から隅まで掃いてみたが、砂埃もほとんど舞い上がらなかった。
そういえば、朝食の片付けはルクスがやっていたが、もう皿は洗ったのだろうか。
わたしはキッチンへ向かった。
皿はすでに水洗いされていたが、まだ濡れたまま置かれている。
前にシエルがやっていたように、綺麗な白い布で水気をふき取り、棚へ直してみた。
扉付きの棚には皿だけで何十枚も置いてあった。皿だけでなく、ティーカップにグラス。ナイフやフォークも所狭しと何種類も並べられている。
わたしにはその違いはよく分からない。
すべて片付けたかと思いキッチンを見渡してみると、隅の小さなテーブルにまだグラスが残っている。
昨夜ルクスが葡萄酒を飲むのに使っていたものだった。
グラスは食器とは別の棚にしまってあった。
片付けようと、グラスを手にとる。
こんなに薄いガラスは初めて見た。
持ち手の部分に金の細工までしてある。
きっと、想像もつかないほど高価なものなのだろう。
なのに。
「っ!」
棚にしまおうとした、その時。
グラスは私の手を離れ、床へと落ちた。
薄いガラスは、いとも簡単に、粉々になっていた。
---
「ただいまー」
「お、おかえり、なさい」
「お出迎えなんて嬉しいな。ん? 顔色が悪いみたいだけど、大丈夫?」
「その……ごめん、なさい。大事な、グラス。割ってしまって…………」
わたしは拾い集めた破片を見せた。
すると、ルクスは表情を険しくして手に持っていたカバンを置く。
ぶたれると思い、目をつぶる。
「その手、血が出てるじゃないか」
「……え?」
「ダメだよ。割れたガラスを素手で触っちゃ。破片なんていいから、ほら、こっちおいで」
「え、あ……」
いつもの部屋で、ルクスは私の手に清潔な布を巻いてくれた。
「それで? どうしたの?」
「あの、ルクスがいない間、掃除、してて」
「うん」
「それで、食器も、片付けてたら、グラス、落として」
「そっか」
「ごめんなさい。鞭打ちでも、なんでも。罰は、受けるから」
施設にもガラスの容器はいくつかあったが、あんなに綺麗なグラスは見たことがない。
きっと、わたしがどれだけ働いても買うことはできないだろう。
「罰なんて、何もしないよ」
「なんで……」
「傷ついてきてたし、そろそろ買いなおそうと思ってたものだしね」
「でも……」
「それじゃシエルの気が済まない?」
「……うん」
どうしてだろう。街で盗みをしていたときでも、こんな感情はなかったのに。
今は、息ができないぐらいに胸が締め付けられるような思いでいっぱいだった。
「わかった、じゃぁしてあげる。お仕置き。ついてきて」
わたしは、ただ黙ってルクスの後をついていった
---
「どうしたの? 表情が暗いけど。お買い物楽しくない?」
お仕置きだって言ったくせに。
ただ、街に服を買いに来ただけ。
私はグラスを割ってしまったのに。
怒るどころかルクスはずっと笑顔で服を選んでいる。
それを見ていると、余計に申し訳なく思う。
「あの、ルクス。グラス、本当にごめんなさい」
「言ったでしょ? 買い替えようと思ってたものだって」
「でも……」
「捨てる時期が少し早くなっただけだよ。それに、もしも大事なものだったとしても、私は怒ったりしないよ?」
「……どうして?」
「だって、シエルは掃除に片付けまでしてくれた。私が頼んだわけでもないのに」
「でも、勝手なことをして……」
「誰だって失敗はするさ。でもね、シエル。失敗するってことは何か行動をした証なんだよ。確かになにもせずただじっとしてれば失敗はしないかもしれない。でも、それじゃ何も成し遂げられない。生きてるってことは行動の連続なんだ。何度も、何度も失敗しながら前に進んでいくんだ。私はね、シエルが自分からなにかをしてくれたって、それだけでうれしかったんだ。だから失敗したって怒ったりはしないよ」
「…………うん」
ルクスは不思議な人だ。
わたしでは到底思いつかないようなことを考えている。
「よしっ! 決めた。これにしようか」
「それは……嫌……」
「言ったよね? お仕置きだって。拒否権は無いよ」
…………でも、許してはくれないようだった。
---
「ふふっ似合っているよ」
「うぅ……もう、脱いでいい?」
「だーめ」
ルクスがわたしに着せたのは、貴族のお嬢様が着ているような服だった。
「あ、そうだ。せっかくだし髪も切ろうか。おいで」
どこからか櫛とハサミを取り出したルクスに呼ばれる。
「せっかく可愛い服を買ったんだから、髪も整えないとね」
傷んでいた毛先をカットし、目に掛かっていた前髪を整える。
「なにか、希望はある?」
「…………どうせなら、もっと短くしてほしい。ちょっと、鬱陶しかったから」
「わかった」
ルクスは慣れた手つきで髪を切っていく。
以前までは背中にまで届いていた髪が、今は肩口に少しかかるぐらいになった。
「どうせならヘアピンもつけて……ほら、可愛くなった。シエルも女の子なんだから、おめかししないとね」
それは、小さな花をあしらった髪飾りだった。
「これは……?」
「私が昔つけてたものなんだけど、貰ってくれる?」
「いいの?」
「うん。シエルのほうが、似合うから」
「……今のルクスでも、その……似合うとおもう」
「そう……かな? でも私背が高いし、女性ものの服とかアクセサリーとかは似合わないかなーって」
「そんなこと、ない……と思う」
なんて、わたしは一体なにを言っているのだろうか。ルクスの言うおめかし、というものの意味も分かっていないくせに。
「そう、かな…………うん。ありがとう。シエルにそう言ってもらえて嬉しいよ」
でも、何かは伝わったみたいだった。
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朝、一人で目を覚ます。
昨日は、いつもとは違う部屋のベッドで寝た。
いつもの大きな部屋へ行くと、今日もルクスはわたしより早く起きていた。
「ルクス、その恰好……」
「どう、かな」
ルクスが着ていたのは、胸元にリボンをあしらった紺色のドレスだった。
「…………」
「ちょ、ちょっと、何か言ってよ……恥ずかしくなってきちゃったじゃない」
「いや、綺麗、だったから」
ルクスが顔を赤くする。
「あ、あはは。そういわれるとそれはそれで恥ずかしいね」
「その首のやつ、これと同じなんだな」
ルクスは昨日わたしにつけてくれたのと同じ花のネックレスをしていた。
「私の故郷に咲いてた花なんだ。こっちでは見たことないけど、冬になると綺麗な白い花を咲かせるんだよ」
ルクスはそう言って机に向かう。
「……! ルクス、それは……」
その服は、背中を大きく露出するものだった。
だから、見えてしまった。
後ろを向いたルクスの背中の、いくつもアザが。
「あー、やっぱり見えちゃうか。こういう服は外では着られないね」
あのアザは転んだとか、そんなものでできるものではない。馬車の中にいた奴隷の何人かに同じようなアザがあった。
それは、鞭で打たれたときにできるアザだった。
「シエル。過去なんて関係ないんだよ。大事なのは、今を幸せに生きることなんだから。ね?」
ルクスは、言い聞かせるように、ゆっくりとそう言った。
私は、返す言葉を持っていなかった。
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あの後、ルクスとの会話はほとんどないままに夕暮れ時になる。
今は夕食を食べ終え、食器を片付けている途中だった。
「シエル、まだ食べられる?」
「うん」
「タルト作ってみたんだけど、どうかな?」
ルクスが持ってきたのは、手のひらほどの大きさのお菓子だった。
固いパンのような生地の上に、クリームと葡萄の実が乗せられている。
それはまるで、宝石のように輝いて見えた。
「ルクスがつくったの?」
「そうだよ。出来立てじゃないけどね。食べてみて」
いつのまに作っていたのだろうか。気が付かなかった。
ルクスからそれを受け取り、一口かじってみる。
下の生地はサクサクとしていて、上にのっている葡萄はクリームに負けないぐらい甘い。
思わず笑みがこぼれてしまう。何かを食べて笑ったのなんて初めてだ。
「ふふっ」
「……?」
「ううん。やっぱりシエルも他の子どもたちとあまり変わらないなーって」
「む……」
そう言われると少しバカにされたような気がする。
わたしだって今まで、施設にいたとはいえほとんど誰にも頼らずに生きてきたんだ。
あまり子供扱いしないでほしい。
「シエルはさ。もっと我儘言ってもいいんだよ? あれがしたいとか、これが欲しいとか」
「我儘なんて……私はこうしているだけで十分なのに」
「好きなものを着てさ、好きなものを食べて、好きなように生きていいんだよ」
ルクスに、抱き寄せられる。
初めて感じる、ひとのぬくもり。
なぜだか、目があつくなる。
「泣きたいときは、さ。泣いたらいいんだよ」
なぜかは分からない。ただ、涙が止まらなかった。わたしは、生まれて初めて、声を出して泣いた。
その間、ルクスはやさしく髪を撫でてくれていた。
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「落ち着いた?」
「うん」
「普通に大人になって、人並みに恋をしたりしてさ。シエルには幸せになってほしいんだよ。自由なんだから」
「恋って、なに」
「うーん、好きってこと。一緒にいたら暖かい気持ちになって、安心できる人と、ずっと一緒にいること」
「じゃぁ……ルクスが、わたしの恋人になってくれる?」
「おお、そうきたか」
「何か、おかしい?」
「ううん、何もおかしくないよ。ふふっ、シエルが恋人か……」
「ん……」
唇を重ねる。
ルクスの唇は、タルトの味がした。
「恋って、なんでするの」
「子どもを作って、家族になるんだよ」
「じゃぁ、わたしたちも子供を作るの?」
ルクスはちょっと困ったような顔をして言った。
「それは……ちょっと難しいかな。子どもは男と女で作るものだから。でも関係ないよ。だって、私もシエルのこと、好きなんだから。ね、今夜は一緒に寝よっか」
「うん」
もう一度唇を重ね、二人でベッドに倒れこむ。
そのまま、人肌のぬくもりを感じながら眠った。
他の人が言う幸せというものが、どういうものなのか。
わたしには分からない。
けれど、きっと私は今、幸せなのだと思う。
だって、こんなにも心が温かいんだから。